皇都の愛憎

海の源流

 ポツーン――。


 天から水滴が、泉にしたたり落ちてきた。


 泉の傍に佇む少女は、それがやってきた天を見上げる。この泉は、それを中心に建造された巨大なドームに覆われており、昼の今でも薄暗い。彼女の見上げる天は、この円蓋の頭頂部に丸く穿たれた天窓の形に切り取られている。


 彼女は円く光る天から泉の水面へと再び視線を落とした。先程の滴が空から天窓を通してこの泉にしたたり落ちてきたのを、再現するかのように。


 少女の隣で、滴の音の余韻が消えるまでじっと耳を済ませていた初老の男が彼女に語りかける。


「リザ。この一滴は命の滴だよ。こうやって人はこの世に生を受けるのだ。この滴はこの泉から湧き出る水とともに河となって海まで流れていく。そして、しかるべき土地で母親の胎内に宿るのだ。この一滴一滴すなわち帝国の領民一人一人を守ること。これが皇帝の神聖な役目なのだよ」


 この初老の男はリヴァイエ帝国十七代皇帝であり、名をスヘイドという。隣に立つ十三歳の少女は彼の一人娘、リザ皇女だ。


 ドームの中には、この二人の他にも数十人の人影があった。皆、ゆったりとした裾の長い純白の衣装に身を包み、同じく純白の頭巾を被っている。彼らはここで働く神官達だ。今もあちこちを拭き清めたり、調べ物をしたり記録をつけたり忙しく立ち働いている。それなのに、彼らは物音というものを一切たてず、このドームは重苦しいほどの静寂に包まれている。


 初代皇帝が立つずっと以前、太古の頃からこの白装束の神官達がこの泉を守ってきたといわれている。


 この泉は銀製の水盤から湧き出るように設えられているが、この水盤には今は使われることのない古い文様や文字が刻まれており、この水盤が遥か古に作られたことを示している。


 それなのにこの水盤は、つい昨日出来上がったばかりのように、薄暗いドームの中でも少ない光を撥ね返してうっすらと輝いている。それだけ、毎日毎日それはそれは丹精込めて神官達が磨いているからだろう。


 この銀の水盤から溢れた泉の水は、一筋の流れとなってこのドームから外へと流れ出す。森を抜け、険しい山脈の谷間を走り、その間に雨水や雪解け水を集めて次第に太い河となる。この河はそのまま、延々と広がる丘陵地や平原の中をゆったりと流れ、ついに海にそそぐ。この世界に河はこの一つしかなく、海はこの河よって生み出され、そのためこの泉は「海の源流」と呼ばれる。


 この世界を生きる命は、一滴のしずくとなって天からこの泉にしたたり落ちてくる。一滴、そしてまた一滴。この生命の滴は河の流れに乗って流域に運ばれ、女の腹に宿る。この世界では、人はそうやって誕生する。ゆえにこの河は古の言葉で「命の道」を意味する「ラクロウ」河という名を持っている。


 そして魂がこの世界での生命を終えたなら、その魂が宿っていた体を焼き清め、遺灰を河に流して、今度は海に還さなければならない。魂は再び河の流れに乗って海に着く。広い海で魚の姿を取りながら、魂はしばしの休息を得る。そして定められた時がくれば魂は空に昇り、再び「生命の滴」として「海の源流」へしたたり落ちてくる。


 天から降ってきた命を出迎える場所。地にあって、魂を海まで運ぶラクロウ河の出発点。「海の源流」はかように神聖な場所なのだ。


 人の世界の始まりから、神官達はこの「海の源流」を護ってきたとされている。それがいつのことなのか暦の上で確定することはできない。何しろそれは暦というものが誕生する前のことなのだから。


 しかし、スヘイドの先祖初代皇帝トゥオグルが、泉を護る神官達から皇帝位を献上されたことはしっかり記憶され、今でも帝国中でその日は祭日となっている。


 この英雄の登場以来の歴史は、それ以前の静寂を打ち消すかのように、騒々しいほどの記録と伝承に彩られている。


 いまや帝国は繁栄を謳歌し、太古の静寂を残すのはこの聖地「海の源流」を覆う円蓋の中だけだった。


「お父様、早くあちらに行きませんこと?」


 リザ皇女が父帝を見上げその袖を引いた。ここが神聖で重要な場所、神官を除けば皇帝とその近親者しか立ち入ることを許されない場所であることは、彼女も重々承知している。


 けれども彼女はここがあまり好きではない。飾りのない、石造りの建物特有の冷気が篭った静かなこの空間は、神聖というよりも何だか寂しいところだとしか思えなかった。


「もうそろそろ式典の頃ではありませんか?」


 今日は外宮の大会堂で大きな式典が開かれる。少女はこんなもの寂しいところから早く立ち去りたかった。その式典が少女にとって少々退屈なものであったとしても。


「そうだね」


 父帝はそう言ってやっと泉から離れた。そして「さあ、行こうか」と娘に手を差し出す。――私はそんな子供じゃありませんわ。少女は少しばかり口を尖らせるけれど、父帝の手を握った。ずっと昔、彼女が幼女だった頃から――あのような形で母親を失った頃から、この父娘は文字通り手を取り合って過ごしてきたのだから。


 皇帝と皇女は「海の源流」を出て、そして外宮へと向かった。

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