強いられた旅

 先ほどの店主が宿の主でもあった。主は、ミツルが「浜辺の者」とは知らないので、二人を三階建ての建物の最上階にあって見晴らしの良い、宿の中でも上等な部屋に通した。「何か不便なことがあったらなんでも言って下さいよ」と愛想笑いを残して彼は去っていった。


 きちんと支度されたベッドに早速ミツルが仰向けに倒れこむ。


「すっごーい。こんなにふかふかなベッドなんて初めてよ」

 

 今まで見た中で最も無邪気な笑顔で彼女は感嘆の言葉を洩らした。それからベッドの上を嬉しそうにコロコロと端から端まで転がって楽しんでいる。


 光一も腰を下ろしてみた。そして少し怪訝な顔をする。いや、確かにこのベッドは快適といえば快適なんだろうけど。でも日本で家族旅行のとき泊まるホテルのベッドなんかもっとスプリングが効いているし、木製の枠に布団を敷いた自室のベッドだってもうちょっとふわふわしていたような気がする。


 それでも、ミツルがこのベッドに有頂天になる気持ちも分かるのだ。崩れそうなほどみすぼらしい「砂浜の村」の家。馬糞の匂いとと馬のいななきのせいで熟睡できなかった「煉瓦の街」の馬小屋。光一にとってそんな貧しい宿は珍しい体験だけれど、ミツルにとってはそっちが日常だったのだ。


 ミツルは今度はうつ伏せで綿のシーツにほお擦りしている。相変わらず嬉しそうだ。光一と目があうと、にっこりと可愛らしく微笑む。それにつられて光一も頬を緩めた。


 ベッドで一通り遊び終わって満足したミツルは、今度は窓から見える景色に夢中になった。


「随分高いわねえ」


 ちょっとだけ身を乗り出して宿屋の建物の真下を見る。さっきまで座っていたテラスのテーブルや椅子が小さく見えた。


「ちょっと……高くて……何だか怖いわ。こんなとこで眠れるかしら?」


 ミツルは眉を寄せて光一に問いかけた。その様子が本当に不安げで光一は少しばかり驚く。船長や入国審査官の際どい質問にも、ミツルはいつも冷静沈着にそれらを上手くかわしていた。壁があったら乗り越えてしまえ、なんて思える度胸もある。そんな強い彼女が、たかだか三階建ての高さに怯えるのは意外だった。


「そっか……。君はあの砂浜の家か『煉瓦の街』の馬小屋しか知らなくて高い建物は初めてだもんね。大丈夫だよ。この建物は石造りで頑丈なんだから。寝てる間に床が抜けたりなんかしないよ」


 それから光一は、自分の元居た世界には三階どころか百階近い建物だってたくさんあるんだ、と話した。ミツルはただただ感嘆のため息を洩らすだけだった。


「いろんなものが見える。見たことないものばかり」


 ちょっと神妙な口ぶりでミツルが言った。


「あれが……山?」


 ミツルに続いて光一も身を乗り出して景色を見た。二人が通ってきた城壁の向こうはなだらかな丘陵地で、この宿屋も含めた街並みもその地形に乗っている。けれどもこの穏やかな地面は、街の外れでこんもりとした山々に取り囲まれるようにして、その先を阻まれていた。


 緑鮮やかな手前の山の奥には、深みがかった緑の山が続き、さらに連綿とした山影が奥に奥に幾重にも重なっている。最奥に見える峰々は青く波打つ平面的な影となって見渡す限りの地平線を縁取っていた。


 隣でミツルが小さく溜息をつく。山肌に迫る城壁や人家と比べて見て、ミツルは「山」とは「丘」よりもずうっと大きいものなのだ、と納得したようだった。


「私、こんな景色を見るの初めて……」


 そう呟いたまま、彼女は窓から離れようとしない。山々を照らす陽射しが傾き、空がすみれ色から群青色へ変じ、それにつれて山々が黒々とした塊に姿を変えても、ミツルは飽きることなく窓からずっとその光景を見つめていた。


「おいしい」


 夕食を一口食べたところでミツルが小さな歓声を上げた。彼女の赤ワイン色の瞳にもしっかりとした喜びが浮かんでいる。


「『石の国』じゃ香辛料も沢山とれるって本で読んだことがある。でも今日、森や山を見て実感したわ。『土の国』じゃ植物は人間が手を入れないと育たないけど、この『石の国』じゃあれだけ草木が勝手に生えてるんだもの。香辛料だって一杯取れるわけよね。そして、同じ肉料理でも香辛料があるだけでこんなに美味しくなるなんて!」


 ミツルはもう、うっとりとした顔をしている。ただ、それを見て光一は複雑な気持ちになる。


 今までこちらの世界の食べ物を特に不味いとは思わなかった。というより、味のことなんか考えてられなかった。せいぜい異世界でもとりあえず食べられるものが手に入るのに安心したくらいだった。


 確かにここの宿屋の夕食は今まで食べてきたものに比べれば断然洗練されているとは思うけど。でも、光一が東京で両親と食事に出掛けたレストランの料理と比較するならば、かなり大雑把な料理に思えた。


「何、コーイチ。美味しくないの?」

「……ええと」


 光一が言葉を選んでいる間に、ミツルはさっさと見当をつけてしまった。


「あちらの世界の料理の方が美味しい?」


「……う、うん」


 ふうっと息を吐いてミツルは光一に尋ねた。


「何だかあちらの世界はいい所のように思えるんだけど。お料理は美味しいし、あちこち旅行に出掛けられて、学校とやらでは字や勉強を教えてくれる。なんか私からすれば理想郷に思えるわ。それでもコーイチは帰りたくないの?」


 ミツルのその問いは、光一がこの宿に入ってきた時からずっと考えてきたことに近いところをついているように思われた。


「確かに……。僕は君に比べて恵まれてたと思う……。ここのベッドより気持ちいいベッドで寝ていたし、このお肉より美味しい料理だって一杯食べてきた。それに、僕の父親は旅行が好きで……。登山もよくしたし、海にも行った。それから向こうには、動物とか植物とかいろいろ珍しいものを見物するための施設があって、親と一緒にいったり、学校の行事で行ったこともたくさんある。だから、僕は君より恵まれた生活をしてたし、君よりもっといろんな物も見聞きしてきた……とは思う」


 本当に自分は恵まれていた。光一はそう思う。でも――今ここで比較しているミツルが持っているものを、自分は持っていない――そんな気がしてならない。


 文字を知ることも旅をすることも禁じられて、それでもミツルはあの廃屋のような家で、床下に隠されていた書物をおそらく一心不乱に読み耽ってきたに違いない。その様子は、きっと喉の渇いたものが水を求めるかのようなものだっただろうと光一は思う。


 念願かなって「海から来た者」が現れ旅に出ることになり、ミツルは今まで書物でしか知らなかった世界を目の当たりにしている。その姿は、いつも瑞々しい興奮に満ちており、新しい発見を身体全体で喜んでいるように見える。そしてそこには、光一の知らない幸福があるように思えるのだ。


「どうしてなのかな?」


 光一は自問したつもりだったが言葉は外に出てしまい、当然ミツルは怪訝な顔をする。


「なにが?」

「君を見ていると、確かに旅や勉強は本来楽しいものなんだろうな、って思えるんだけど……」

「楽しくなかったの?」

「……楽しさを感じる自由がなかったというか……。上手く言えないんだけど」


 光一は食べるのをとっくに止めてしまい、自分の考えを探ることに専念していた。


「旅行だって子供の頃は単純に喜んでいたけど、今じゃ親が行きたいっていうのに付き合う、みたいな感じだし。学校は……小さな時から行くのが当たり前のものだし。勉強だって、何を知りたいか自分で考える前に勝手に教えられるんだ。それに勉強するためには学校の教室って部屋に詰め込まれて、そこでの人間関係に神経を磨り減らなきゃならないし」

「学校っていうのに行かないわけにはいかないのね?」

「いかない。ちょうど君たちが旅にでちゃいけないのと同じように」

「いつも群れてないといけないわけね。うーん。それって、牛や羊がたくさん柵の中に閉じ込められているような感じかしら?」

「…………」

「家畜って最初から最後まで人間の目的に合わせて生きるでしょ。で、畜舎にぎゅうぎゅうづめにされて、餌だって食べたいかどうかお構いなしに強制的に与えられる。ときどき放牧されるけど、群れてないといけない。逃げ出さないように飼い主が見張ってるしね」

「まあ、確かに家畜みたいなもんだね……」

 

 光一が暗い気持ちでいる間に、ミツルはまた別の考えが閃いたらしい。


「でも。また話を元にもどして悪いんだけど。群れからはぐれて一人ぼっちになっても、それでも構わないほど楽しいと思えることや勉強したいことがあればいいんじゃないの。要は貴方の意欲の問題で。貴方にしたいことや学びたいことはなかったの?」

「…………」


 光一はテーブルの上に視線を彷徨わせながら自分の心を探ってみる。子供の頃の他愛ない夢はともかく、大きくなるにつれて何かになりたいとか、何かを知りたいとかそういった欲求からは遠ざかってしまったような気がする。それに、最近のあちらでの毎日はイジメを遣り過ごすのに精一杯で、そんなことを考える余裕なんてなかった。


「……考えたことがなかった」

「今も?」

「今は……。こちらの世界でどこか居心地のいいところを探してみたい、って思ってる」


 光一の言葉にミツルははっと何かに気がついた顔をした。――危ない、危ない。ミツルは自分が重大なミスを仕出かすところだったのに気がついた。光一に「あちらの世界でやりたいこと」を見つけられると困るのだ。だって、ミツルが旅をするには光一が必要なんだから。


「そ、そうよね。こっちでどこかいいところを探しましょう」


 ミツルはグラスを持ち上げ、光一に微笑みかけた。


「とにかく、『土の国』脱出成功おめでとう。私達の自由に乾杯!」


 光一も慌ててグラスを持ち上げて応えた。


「乾杯」


 そうして二人は出てくる料理についてあれこれ喋りながら夕食の時間を過ごしたのだった。


 朝食をとりにテラスへ出た光一は、空を見上げた。


 空の色は、砂浜から見上げたときよりも一層青みが深くなっている。ところどころに浮かぶ雲の日にあたる部分はくっきりと白く、青々とした空と見事なコントラストをなしている。一方雲の陰になっている部分はどんよりとした鼠色で、そのため雲はしっかりと立体的な存在感を示していた。


「もう夏が来るね……」


 光一の言葉に、ミツルも光一を真似て空を見上げる。けれどどこに着目すれば夏の予兆を捉えることができるのか分からないのか、大真面目な顔で天を仰いでいる。


「『砂浜の村』の時より空の色が青いだろう? 雲も大きいしモコモコしてる」

「ああ、そうね」


 それから、と光一はテラスの方を見た。ミツルもそれに倣う。


「陽射しが強いから、建物や木の陰も濃くなってる」

「本当! はっきりしているわね」


 ミツルは自分たちの席をさっさと決めると、椅子を引きながら言った。


「日の光が強くて、眩しいくらい」


 けれど、ミツルのその笑顔の方が光一にはよほど眩しかった。今日も彼女は新たな発見の喜びに満ちている。


 運ばれてきた朝食も、光一には黒っぽいパンから白いパンに変わっただけのような気がするが、彼女は物珍しげにしばらく手にとってあれこれ角度を変えながら眺めている。


「今日は夏物を買いに行こうか」


 朝食を前に浮き立つ気分で光一がミツルに提案した。


「夏物って、袖は半分までの服のこと?」

「そうだよ。それから帽子も要ると思う」

「帽子は、頭に被るものよね。日除けの為に」


 光一の言葉に、いちいち頭の中で事典の頁を繰っているらしいミツルの姿がおかしかった。


「『砂浜の村』にははっきりした夏がなかったんだろうけど、ここから先は暑くなりそうだからね」


 うん、と神妙に頷いてから、ミツルは朝食に取り掛かった。ひどく真面目な様子が光一には微笑ましかった。




 服屋で夏物の服やつばの広い帽子を買い整え、その店のドアを閉めたとき、ミツルがふうーっと長い溜息をついた。がっかりした様子は隠せない。今度はドアから二、三歩離れて窓から店の中を覗き込む。でもそれもほんのわずかの間のことで、やっぱり気落ちした様子でドアの前で待っていた光一に近付いてきた。


「よっぽど欲しかったんだね。あの服――」


 もう一度溜息をつくと、ミツルは悄然と歩き出した。光一もそれについて行く。


「分かっちゃった?」

「うん。でもお店の人にはわからなかったと思うよ」

「そりゃそうよ。手に取るどころか、遠くからちらちら眺めてただけなんだもの」


 店から離れて、ミツルは三度目になる大きな溜息をついた。


「素敵なドレスだったわ……」

 

 宿の亭主に教えてもらった服屋はすぐ分かった。石積みの建物だが扉の横だけ四角く漆喰を塗り、そこに色々な形の服の絵が書いてあった。文字のないこの社会ではこれで看板とするようだった。


 明るい緑色に塗られた扉を開けると、真正面の奥のほうから「いらっしゃい」と声が掛かった。夏に近い日差しの明るい通りから、暗い部屋に入って目が慣れるのに時間がかかったが、ドアの真向かいに机があり、そこに男が座っているのが見えた。


「ひょっとしてお客様、『海から来た者』でいらっしゃるのですか?」


 やはり光一の顔は珍しいもののようらしい。光一は質問される前に説明を始めた。


「あの、案内人が船に弱いものですから途中で船を下りたんです。それで、この街で休養しながら夏の支度を整えようと思って」


 男は立ち上がった。店内は広く、店の右側は男物で左側は女物と分かれていた。男は右側の方に歩きながら光一に話し掛ける。


「二人とも背格好が同じくらいだから、同じようなのを二人分用意したらいいでしょうね」


 そういいながら、棚から衣類をあれこれ引っ張り出して並べる。ミツルはすっかり男の子だと思われているようだった。「良かった」と目でミツルにそう告げようとした光一は、ミツルが何かを気にしているのに気付いた。彼女はちらちらと他の物にもせわしなく視線を巡らすものの、結局は一箇所を見ようとしている。


 綺麗なワンピースが、人の形をした木の板に着せられていた。落ち着いたピンク色に、全体に優しい色合いの花柄模様が散っている。布地は随分柔らかいもののようで、腰から下は空気を孕むようにふんわりと拡がっていた。襟元には派手過ぎない上品なレースがあしらわれていて、本当にとても女の子らしい可愛い服だった。


 ミツルの顔をよく見れば、彼女がその服に駆け寄って手に取りたいと思っているのがわかる。けれど、少年の格好をした今、そんなことができるはずが無い。もちろんそれは当の本人が分かっていることで、だから一生懸命見ない振りをしているのだった。


 店主が見繕ってくれた夏の衣類と帽子二人分を抱えて店から外に出て、やっとミツルは落胆した顔を隠さなくて良くなった。――そしてミツルは出会って初めて光一に愚痴を零し始めている。


「とても可愛らしかった……。共衣のリボンもついてたわよねえ」

「いや、僕はそこまでは気がつかなかったよ」

「そお? あの服で髪を結ってそのリボンを付ければきっととっても素敵だと思う……あ、でも髪切っちゃったのよね……」

「髪なんて、また伸びるよ……」


 光一はなんとか励まそうとする。女の子の服に対する思い入れに詳しいわけじゃないけれど、とにかくミツルを元気にしてあげたかった。


「皇都に行くまでに、どこかいいところが見つかったらまた女の子に戻ればいいじゃないか。ていうか、ずっと大人になるまま男の格好ってわけにいかないし。いずれ必ず女の子に戻る日がくるよ」

「そう、そうよね」

「それにここは国境の街なんだろ? きっと首都にいけばもっと沢山服屋があってさっきのよりもっと可愛い服が売ってるかもしれないよ」


 ミツルが突然光一の腕を両手で掴んだ。女の子にそんなことをされるのは初めてで光一の顔は真っ赤になる。もっとも、彼女はそんな彼のことなど全然気に留めない。


「コーイチって頭いいわ! そうよね、あともう少し頑張ったら私達自由になれるんだものね」


 更に顔を赤くする光一に構わず、そして光一とは全く別の理由でミツルはその頬を薔薇色に染めていた。




 「あのう……」


 夕食を一階の食堂で済ませた光一とミツルに宿の主人が話しかけてきた。この街のあちこちを買い物したり散策したりして過ごして、何日目かが経っていた。彼は少しばかり言いにくそうな口調だった。


「あの、気を悪くなさらずに聞いていただきたいのですがね。一体いつまでこちらに滞在されるのですか?」

「もうちょっといようかと思ってますが……何か不都合なんですか?」


 ミツルが尋ねる。


「不都合なのは私というよりも、お客様の方では……。お客様は皇都に向かう旅の途中なのでしょう? お急ぎにならなくていいのですか? 特に」


 宿の主人は光一の方を見て続けた


「『海から来た者』でいらっしゃるあなたの方は、あちらでお待ちの方もいらっしゃるでしょうに。こんなところでゆっくりしている場合ではないのでは?」


 とはいえ、五十がらみの大人の彼は人それぞれ事情があることくらいは分っているようで、それ以上光一達の都合については突っ込んで訊いてこなかった。その代わりに自分の事情を説明する。


「こちらといたしましても、あなた様達のご滞在の代金をですね。帝国府に申請して交付してもらうのに、あまりに長逗留でございますと……。旅の目的からみて不自然に長い日数分を請求致しますと、請求する私が疑われてしまうわけでございまして……」


 宿屋の主人の言いたいことは二人にもすぐわかった。二人が滞在した日数分を帝国府に請求しても、余りにそれが多いと宿屋の主人が架空に水増し請求しているのではないかと容疑を掛けられかねない――宿屋の主人はそう訴えているのだ。


「わかった。じゃあ明日出発するよ」


 ミツルがそう答え、光一も頷いた。


「僕達はこの旅を『しなくちゃなんない』立場なんだね。権利じゃなくって義務として」

「そういうことね……」


 二人はそれぞれのベッドに腰掛け、伏目がちに言葉を交わした。


 この旅は真っ直ぐ皇都を目指さなければならない。一箇所に長く留まることはできないし、皇都を目指すルートから外れることもできない。もし皇都に向かうのに不自然なほど長逗留をしたり寄り道をしたりすれば、宿にも泊まれないし物も買えない。宿屋も店も後で帝国府に請求書を出して通らないとわかっていれば、二人を客扱いするはずないのだから。


 具体的な目的があったわけではないけれど、二人は何となく、この先気に入ったところがあったらそこで旅をやめて暮らして行こうと思っていた。そんなことをただ漠然と思っていただけで、今まで二人は単純にに「土の国」を出て得られた「自由」を楽しんでいたのだ。


 しかし、このままでは、二人に皇都まで最短最速で向かい、そして光一は『海の源流』からあちらの世界へ、ミツルは僅かの報奨金を貰って「砂浜の村」へ戻るしかない。


 ミツルは唇を噛み締めて床を見つめていた。時折その両目に涙がこみ上げる。零れ落ちそうになるたびに彼女は乱暴に拳で顔を拭く。光一も暗い顔で俯いていた。またあちらの世界に戻るのか……。彼は何度目かになるか分からない溜息をこぼす。一人ぼっちで誰にも顧みられない、そんな扱いをうけるあの世界に……。


「ちょっと」


 しばらく経って、ミツルが声を上げた。彼女は中空の一点をきっ、と睨み据えている。彼女の赤ワインの瞳に強い光が宿り、炯々と光っていると感じられるほどだった。


 ただ声が裏返ってしまったので、もう一度息を整えてから彼女は言葉を続けた。


「ちょっと、思いがけない展開になっただけよ。今まで予想してなかっただけ。考えたことがないから分からないけど、考えればきっと分かることが出てくるわ」


 彼女は乱暴に毛布をベッドから剥ぎ取り、荒々しく中に入り込んだ。


「もう寝ましょ。うじうじ考えていたって仕方ないもの。今は驚きが大きすぎて、落ち着いて考えるところまで頭は回らない。明日になればまた局面が変わるわ。明日思いつかなかったらまた明日。いつかいい考えが浮かぶかもしれない」


 光一もベッドに入った。ミツルのこの旅への思い入れは光一よりずっと深い。来るかどうかわからない「海からきた者」を待ち続け、手に入るだけの知識を頭に叩き込み、何より「自分は絶対自由になってみせる」という強い意志を鍛えてきたのだから。大丈夫だ。彼女がいれば。彼女が何か見つけてくれる。いや、自分も一緒に探そう。


 光一は大きく息を吐いた。とにかく明日だ。明日思いつかなければまた明日。今はとにかく落ち着いて、その明日か、明日の明日に備えよう――。


 二人はそれぞれ手元の灯りを消した。部屋は暗くなる。けれども、二人ともなかなか寝付けなかった。特にミツルの方は、ああ言っていながら今すぐ名案を思いつきたくて仕方がない様子で、何度も何度も寝返りを打っていた。光一の方もそんなミツルの様子を見るとやっぱり考え込んでしまう。


 二人はそのまま暗い部屋で目を開けていた。窓から差し込む月の影が微かに部屋を照らす。ミツルは寝返りをやめてそのかそけき光をじいっと見つめ、光一はそんなミツルを見ていた。二人は、その月光に慰撫されるようにして、少しずつ眠りに入っていった。

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