3.セックスレス

 昨夜、恭一は夜11時前にマンションに帰ってきた。恭一の着替えを手伝いながら、私はおずおずと聞いた。


 「あなた、お食事は?」


 恭一の神経質そうな眼がメガネの奥から私をチラリと見た。

 

 「すまない。夕方に簡単に済ませてきた」


 「そうなの? でも、今日はあなたの好きなタイのお刺身を買ってたのよ。お食事を済ませたんなら、電話かメールでもしていただいたら良かったのに」


 恭一がイライラした様子で私を見た。


 「だから、済まないと言ってるだろう。君に連絡するような時間が無かったんだよ。明日の東郷常務への報告資料を夕方までにまとめるように各課長に指示を出してたんだけど、角野かくのの提出が遅くなってね。角野のやつ、夜7時過ぎに資料をやっと上げてくるんだよ。それに、今までと内容が変わってて、お陰で他の課長連中の資料を急ぎ書き換えなくちゃならなくなったんだ。プロジェクトチーム内に大号令をかけて、全員残って資料の書き換えだよ。さっき、やっと終わったところなんだ。しかし、角野のやつ、内容を変更するならすると、早めに連絡してくれないと困るんだよなあ。角野はいつもこうなんだ。大体、この前もあいつは・・」


 恭一の話はいつも仕事の愚痴ばかりだ。私に連絡できなかったのは、部下の角野さんのせいだとでも言いたいようだった。私はそれ以上聞くのが辛くなった。私はタンスから恭一の下着を出した。


 「はい。あなた、これ、下着。お風呂場に置いておくわよ」


 私は風呂場に下着を置いて、キッチンに戻った。準備していた夕食を片付け始めると、風呂場から恭一が風呂に入る音が聞こえてきた。


 新婚のときは一緒にお風呂に入っていたのに・・


 恭一が風呂から出る時間を見計らって、私はリビングのテーブルに冷えた缶ビールを2本と、簡単なつまみを置いた。そして、テレビを『今日のプロ野球ニュース』に合わせた。あと5分で番組が始まる。


 恭一は東京のプロ野球チーム『東京ジェッツ』の大ファンなのだ。私はテレビのニュースで、今夜は『東京ジェッツ』が宿敵『大阪ダイナソウズ』と本拠地の『ジェッツスタジアム』で対戦し、9回裏に『東京ジェッツ』が5対4で逆転サヨナラ勝ちしたことを知っている。ニュースでは、これで『東京ジェッツ』がリーグの首位に躍り出たと興奮して伝えていた。


 明日の役員への資料もでき上っただろうし、『東京ジェッツ』の劇的なサヨナラ勝ちで、恭一は今夜は上機嫌で床につくだろう。


 今夜は抱いて欲しい・・


 そう思うと、私の下半身が熱くうずいた。


 私は恭一と入れ替わりに風呂に入った。変なにおいが残らないように、下半身を念入りに洗った。湯船に漬かっていると、恭一の「やった~」という声と拍手がリビングから聞こえてきた。


 私が風呂から出ると、リビングにはもう恭一の姿はなかった。テーブルの上には、空のビール缶が2本と、つまみを入れていた空の小皿が無造作に置かれていた。テレビは消してある。私はビール缶と小皿を流しに運ぶと、今日の昼間にデパートで買ってきたネグリジェを取り出した。


 女性雑誌のセックスレス夫婦特集で紹介していたネグリジェだった。セックスレスになる原因の一つに夫が妻に女性を感じなくなることが挙げられるという記事が載っていた。これを解決するには、妻は夫に女性を感じてもらうことが大切だそうだ。それには、このネグリジェが最適・・・という理屈で、ベビードールのような赤いスケスケのネグリジェを紹介していたのだ。


 私は女性雑誌の記事はあまりにも勝手な言い分だと感じた。セックスレスの原因は妻だという論調には納得できなかったのだ。まるで、高価なネグリジェを売るためだけに書かれたような記事だった。でも、それでも、私はこうして、紹介された高価なネグリジェを買ってしまった・・


 そのネグリジェを着て、私は恭一の寝室に行った。私たちは、恭一が昨年、プロジェクトチームのリーダーに抜擢されてから、寝室を別にしていた。恭一が「これからは家で徹夜で仕事をすることも増えるから、お互いゆっくり眠れるように寝室を別にしよう」と私に提案したのだ。提案と言っても、恭一がもう自分の中で結論を出しているので、後は私が黙ってそれに従うだけだった。私たちのマンションには、将来子どもができたときに子ども部屋にしようという部屋がまだ2つあった。私は将来の子ども部屋の一つで眠るようになった。


 私は恭一の寝室のドアをゆっくりと開けた。ベッド脇のナイトスタンドがオレンジ色の光を灯している。その光の中に、ベッドの布団が丸くなっていた。恭一の寝息が聞こえてくる。


 私は恭一の布団に潜り込んだ。恭一は私に背中を見せて眠っている。私は背中からそっと恭一に抱きついた。恭一の耳元に口をつけて言った。


 「ねえ、あなた・・」


 恭一は眼を覚ました。顔を私の方に向けて、寝ぼけまなこで言った。


 「ん・・ああ、鮎美か」


 「ねえ、あなた・・抱いて・・」


 恭一は私を手で布団の向こうに押しやった。


 「悪いが・・寝させてくれ。明日は朝一番に常務の報告会があってね、ちょっとでも眠っておきたいんだ」


 そう言って、すぐに恭一は寝息を立て始めた。


 私は自分の寝室に戻った。


 ベッドに入ると、部屋の明かりを全て消した。

 

 私は眠れなかった。私の身体の奥底で、何やら熱いものが煮えたぎっていた。


 真っ暗闇の中で、私はショーツに手をやった。ショーツの表面はぐっしょりと濡れていた。私の呼吸が荒くなった。


 翌朝、つまり今日の朝だが・・恭一が会社に出かけると、私は七海にメールを送った。私は喫茶『ユトリロ』で七海と会った。


 そして、今日の午後、七海に誘われるままに、私は七海と男を買いに行ったのだ。


 


 


 


 

 


 


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