第26話
***
「――っ!」
「んん……」
「――ぱいっ! 大丈夫ですか?」
「……だいじょーぶ!」
私はがばっと起き上がる。目の前には点けっぱなしになっていたノートパソコン、積み上げていた書類が崩れていくので私は慌ててそれを抑えた。でも一人では足りず、隣の山も崩れそうになってしまったその時、誰かがそれを止めた。
「セーフ。大丈夫ですか?」
「う、うん」
私は周りを見渡す。薄暗いフロアは私の場所しか電気がついていない、時計を見ると、もう午後11時を越えていた。私の事を心配してくれる【彼】はコンビニの袋を机に置いた。
「夜食です」
「あ、ありがとう……」
「何かぼんやりしてますね。俺、コーヒー買ってきます!」
そう言って彼はビュンッといなくなってしまった。私の頭は少しずつはっきりしていく、そうだ、ここは私が働いている会社。そして今、定時ギリギリになったときに上司に押し付けられたデータ作成をしている最中。私がため息をつくと、彼はコーヒーを持ってもう戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
私は缶を開けて一気に煽っていく。ぼんやりとした頭にカフェインが染み渡り、眼が冴えていくような気がした。
「大丈夫ですか? 顔も真っ白だったから、死んでるんじゃないかと思いましたよ」
「あはは、何それ」
私が笑うと、後輩の彼も柔らかく笑った。
「でも、変な夢見たな」
「夢まで見たんですか?」
「うん。なんかの買い物帰りに、暴漢に襲われる夢」
「え、やばい夢じゃないですか。悪いことが起きる前兆かも」
薄暗い道で誰かに頭を強く殴られた事はよく覚えているけれど、それ以外は曖昧のまま。でも、夢ってそういう物だし……でも、何か大事な事を忘れているような気がする。
「そんな訳ないじゃない。さて、夜食食べてとっとと終わらせるぞー」
「俺も手伝います」
彼が買ってきてくれたおにぎりを食べながら、私は手元の書類を見ながら数字を打ち込んでいく。隣では彼が同じことをしていた。私がこの仕事を押し付けられた時、率先して手伝うと言ってくれた。
彼はいつもそうだ。入社したときから人懐っこくて、フットワークが軽くて、私が困っているとすぐに助けてくれる。何度それに救われたことか……彼が私の事を好きなんじゃないかって勘違いしてしまいそうになるくらい。
オフィスには、しばらくキーボードを打ち込む音だけが響いた。時計がもう一周したころ、私は大きく伸びをする。
「私、終わったけど、どう?」
「俺ももうすぐ終わります。合わせておくんで、データ送ってください」
「はーい」
私はメールで作成したファイルを送り席を立つ。自動販売機で甘いミルクティーを二つ買って、自分の席に戻った。一つは彼の机に置くと、パッとまるで太陽みたいな笑顔を見せて「ありがとうございます!」と言ってくれた。彼にそう言われるたびに、私は嬉しくてたまらない。今まで誰にも必要とされてなかった人生だったけれど、ようやっと私の事を認めてくれる人が現れたような気になる。私は彼が作成したデータを受け取り、パソコンに保存した。
「よし、帰ろう」
「終電もうないですよ? タクシー拾います?」
「いや、もったいないから良いよ。うちそう遠くないから徒歩で帰れるし。君は?」
「俺もです。さ、早く帰りましょ」
フロアの電気を消して、私たちはビルを出た。すっかり顔見知りの守衛さんには「また残業?」なんて呆れられてしまった。
「先輩、いつもこんな時間まで残業してるんですか?」
彼の言葉に私は頷いた。
「私、要領悪いから時間かかるんだよ」
「いや、あのくそ上司が先輩に仕事押し付けすぎなんですよ。俺がガツンと言ってやりましょうか?」
「いいって! それだけは本当にやめて」
そんな事をされたら、私も彼も痛い目に遭うだけ。私はともかく、彼だけは守ってあげないと。だって私は先輩なんだから。
「あーあ、今日は早く家に帰ってゲームやりたかったのに」
「先輩、ゲームやるんですか?」
「うん」
実際にやっているのは乙女ゲームだけど、彼には最近流行りのRPGだと嘘をついた。乙女ゲーをやっているなんて知られて幻滅されたくない。でも、今日はアルフレッドの10回目のエンディングを見ることができるはずだったのに……楽しみを奪われると、その分生きる気力がなくなっていく。
「――ん?」
アルフレッドの事を思い出すと、胸がつかえたような気がした。違和感のある胃のあたりを擦っても気分は良くならない。働き過ぎたのだろうか?
「先輩、そんなところで立ち止まったら危ないですよ」
前を歩く後輩の頭の上には歩行者用の信号機。青色のマークが点滅していた。私はそれを見て急ごうと思ったのに、足がもつれて転んでしまった。起き上がろうとした瞬間、私の体を眩いライトが照らす。
「え……」
「先輩、危ない!」
後輩が私に向かって手を伸ばす、車の運転手は手元の携帯電話に夢中で私の事になんて気づいていない。それはスピードをあげ、私が再び立ち上がるより先に――。
「……はっ!」
そこで、私の記憶は途切れた。ぼんやりと広がる視界は暗く、砂埃とカビ臭さが鼻につく。ズキズキと痛む後頭部に触れると、ぬるりと温かいものが手についた。目を凝らして見ると、べったりと赤黒い血がついていた。私はそれを見て小さく悲鳴を上げる。
「に、逃げなきゃ」
わずかに明かりが漏れる扉に向かって這うように動くと、きしむ音を立てながらそれが開いた。
「何だ、逃げようとしてるぞ」
筋骨隆々な男が二人、私を見下ろす。その声には聞き覚えがあった、きっと奴らが私をここまで拉致してきたに違いない。
「気絶してるからこのままにしておこうって言ってたのお前じゃん」
「あーあ、逃げられたら困るんだよ、俺たちが姐さんに叱られちまう」
「ほら、ロープ。縛っておけ」
麻縄を取り出して、私に迫ってくる。そこから逃れようとしたけれど、私はすぐに捕まってしまい手首と足を、まるで血が止まってしまうんじゃないかと思うくらい強く縛り付けられた。口には猿ぐつわがかまされ、声も出せない。
「姐さんは?」
「連絡したら、こっち来るって言ってた。確認したいって」
「姐さんが確認するほどの上物か?」
「よく見ろ、貴族の娘だろ。姐さんが狙っていたやつかもしれないし、そうじゃなくても、こういうのは売り飛ばさないで身代金で儲けるんだよ」
こそこそと話している声が聞こえてきた。やっぱり、こいつらは人さらいの一味だ。こいつらの他に指示を出す役目もいるらしい……私の体は恐怖でガタガタと震えだした。どうか命だけは助けて欲しい、声を出すことができない私はただそう祈るばかりだった。
どれほどの時間が流れただろう? 差し込む日の光が少し暗くなってきた頃、扉が大きく揺れた。
「姐さんだ、開けてやれ」
一人が指示して、もう一人が建付けの悪い扉を開いた。
「姐さん、お疲れ様です」
「はい、どーも」
「ほら、姐さんにご挨拶だ」
一人が猿ぐつわを取る。私はやって来たその女を見て、自分の目を疑っていた。聞きなれた【声】、いつも私が着ているのと【同じ制服】、頭に焼き付いて離れなかったその【顔】。私は恐る恐る、その名を呼んだ。
「……イヴ?」
彼女は髪をかき上げた。それは私が良く知るイヴと同じ顔をしている、けれど目つきは鋭く、あの優しい笑顔はそこにはない。私がその名を呼ぶと、彼女はにんまりと笑う。
「そう。アンタが大好きだったまるで聖女のようなイヴ様でーす。びっくりしたでしょう?」
私はまだ目の前の光景を信じられないでいた。人さらいである屈強な男を二人を従える女が、まさか彼女だったなんて。
「あの学園に行く前は、私、人身売買をやってたの。うちは超貧乏で、仕事なんて選んでたらまともに食べていけないからね。でも、あの時……金持ってそうな学園長に恩を売ろうと声をかけた時、ようやっと思い出したのよ」
イヴは胸に手を当てる。
「自分の前世と、今の人生が何なのかを、ね」
男の一人が「姐さん、何言ってるんですか?」と口を挟む。が、彼女はそれを無視して話を続けた。
「アンタにわかる? この生活にうんざりしていたら、突然この世界の【ヒロイン】だってことを知った私の気持ちが! 早く玉の輿に乗って、一発逆転狙っていたのに……まさかアンタみたいなモブ女に邪魔されるなんて……ふざけないでよ!」
「……ぐっ!」
イヴは私のお腹を強く蹴り飛ばした。苦しくて私は強く咳き込んでいく。
「だからこいつらに指示を出してたの。アンタみたいな貧民の苦労も知らないままのうのうと育った貴族の娘を見つけたら誘拐して私に知らせなさいって。まんまと引っかかってくれて本当に助かるわぁ」
イヴは倉庫の中を歩き、箱から何かを取り出す。そして、銀色に鈍く光るそれを私に見せつけた。
「貴族の娘をどこかの物好きに高く売り飛ばすのもいいんだけど……あの皇太子の事、血眼になってアンタの事探すでしょうね。それだと、私は玉の輿に乗れないまま。それは困っちゃう。あとは分かるわよね?」
【ナイフ】を見せながら、イヴは近づいて来る。私は体をよじって逃げようとするけれど、縛られている上、苦しくて上手く体が動かない。
「だから、ここでアンタを殺して……悲しみにくれる皇太子の懐に飛び込んで無事に攻略してやるわ。安心して、私がアンタの代わりに幸せになってあげるッ! ほら、命乞いでもなんでもしなさいよッ!」
イヴは大きくナイフを振り上げた。私は目をぎゅっとつぶった。蘇るのは、あの時の車の閃光みたいに眩しいヘッドライト――もう、理不尽に自分の命が奪われるのはゴメンだ!
「私だって、ヒロインになりたいの! いや、なるのよ!」
「それが遺言? バッカみたい! あんたなんて、苦しみながら死ねばいいのよ!」
イヴが勢いよくナイフを振り下ろす。私はぎゅっと目を閉じた。お父様、お母様、先立つ不孝をどうかお許しください。アルフレッドに、もう一度だけ会いたかった――ちゃんと自分の気持ちを伝えたかった。そう思った瞬間、大きな音を立てて、扉が壊れていった。
「姐さん! 兵隊だ!」
「逃げるぞ!」
目を開けると、そこにいたのは何人もの兵隊と……その真ん中には、恋焦がれて仕方ない姿があった。
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