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「なんだあれは……精神の病でも患っているのか?」

 花崎が立ち去って行った教室の扉をいぶかしげにみつめながら、ミコトはつぶやいた。

「まあまあ、花崎も悪気があるわけじゃないんだよ。ちょっと短気なだけで。ああいう性格だから誤解されがちだけど、本当は優しい奴なんだけどな」

 先ほど罵声を浴びせられたのを寸分すんぶんも感じない様な笑顔と口調で、片瀬は言った。

「君は、いくら悪く言われても平気なのか?」

 幾分いくぶんか彼をぶきみに思って――正しくは、彼が経てきた中で、罵声を浴びせられたりすれば、きまって殴り掛かったり、言い返して、喧嘩に発展する者ばかりだったので、ミコトはかすかに疑心を抱き、そう尋ねた。

「んー、俺、あんまり怒ったりしないからかな。怒るよりは笑ってた方が楽しいだろ」

 それを聞いて、ミコトは納得した。同時に、思い出す。此処日本は平和な国であると。その国で育ったのなら、片瀬のような人間がいることにも納得できた。

 その場では流しておいて、後で闇討ちする、という線も考えられないわけではなかったが、なんとなくそうではないように、ミコトには思えた。

「君は典型的な日本人だな」

「……ん? それってどういう意味?」

「争いを好まず、和を尊び、他人を思いやる。平和な国だからこそできることだ……つまり、そう。君は、優しい人間だと、俺は言いたかった」

 ミコトが言葉を選びながら、片瀬を不器用に褒めた。だが、そう言われた本人はかわいた笑いを浮かべて目をそらした。

「そんなんじゃないんだけどね……」

「……片瀬?」

 その時、ミコトは、片瀬の顔に一瞬影のようなものが差すのを見た気がしたが、すぐにいつもの明るい顔に戻った。

「ああ、ごめん! 天原がストレートに優しいとか言うからさ。照れちゃった」

「思ったことを言っただけだが……」

「俺なんか別にそんな優しかないけどさ……なかなかストレートには言えないもんなんだよ。天原は天然記念物だね。貴重だよ、ホント」

 にこにこしながら言う片瀬に、ミコトはこてん、と首を傾げた。

「? よくわからんが、褒められているのかそれは……?」

「褒めてる褒めてる。……それよりさ、天原。昼だけど、弁当とか用意してんの?」

「……む」

 片瀬に言われて、ミコトは教室の丸時計と時間割表を照らし合わせた。時刻は一二時四四分。時間割表には午後一時二〇分まで昼休みと書かれている。

「これがある」

 ミコトは鞄の中から、小さな箱を取り出しながら言った。

 所謂栄養補助食品である。最低限の栄養も取れ、空腹感も満たされる。食事の楽しみを引けば、十分な食事だ。

「えっ? そんなんで腹膨れんのかよ」

「問題ない。カロリーと必要な栄養素は十分に摂取せっしゅできるはずだ」

「まあ確かにね? でもせっかくだしさ、購買部行かない?」

「コウバイブ?」

 聞きなれない言葉に、ミコトはまた首を傾げた。

「うん。購買部。パンとか、弁当とか文房具とか売ってるとこ。……田井中さんっていうおばちゃんが売ってくれるんだよ。奢るからさ、一緒に行こうよ」

「金はあるが……」

「いいからいいから。天原の歓迎も兼ねてさ」

 行こう、と言いながら席から立ち上がる片瀬。ミコトは顎に手を当てて考えていたが、やがて一つの事を思い出す。

(……片瀬はクラス委員だ。矢吹先生に次ぐこのクラスの権力者。花崎も『係表』というヤツを見たら同じようにクラス委員だったが……明らかに片瀬の方が花崎と比較すると冷静で頭も切れる。……顔を立てるべきだな……)

 そう考えてから、ミコトも習って立ち上がる。

「わかった。では君の言葉に甘えるとしよう」

 購買部に行くだけなのに重々しい口調でそう言うミコトに苦笑しつつ、片瀬はミコトと連れ立って教室を出た。


 購買部はそれなりに人がいた。パンや弁当、飲み物などを買いに来ている生徒たちで賑わっている。

「いらっしゃ~い。あらリョウちゃん、新しいお友達?」

 購買部のカウンターには、一人の女性が立っていた。年齢は六〇代後半くらいに見える。『田井中たいなか』という名札を付けたエプロンを着ている柔和そうな女性だった。

「おばちゃん。こいつ編入生でさ。まだ右も左も分かんないだろうから、色々教えてやってくんない?」

「もちろんよ~。あたしのことは気軽におばちゃんって呼んでちょうだい」

「オバチャン……? コードネームのようなものだろうか。了解した。俺は天原ミコトだ。よろしく頼む、おばちゃん」

「はい、よろしくねぇ。ミコちゃん」

 柔らかな声音に、ミコトはどこか安心感を覚えていた。

(いかん……おばちゃんは敵意を向けさせない様な特殊な訓練でも受けているのだろうか……気が緩んでしまった)

 ミコトはそう胸の内でつぶやいて、陳列棚に目を向けた。

「様々な種類が取り揃えられているな。どういうルートで仕入れているのだろうか。俺には見覚えのないものばかりだ」

 まじまじと興味深そうに見つめるミコトに、片瀬はああ、と声を上げた。

「天原はアメリカから来たんだもんね、あんまり日本の食べ物とか知らない感じ?」

「スシやラーメンなら知っている。あと、コンビニでいちごミルクを買ったことがあるぞ。あれはとても美味かった。また飲みたいものだな」

 ゴロウに買って貰ったいちごミルクの味を思い出しつつ、ミコトはつぶやいた。

「成程ね……ま、そういうわけでさ。今日は俺が奢っちゃおう。何食べたい?」

 言われて、ミコトは再度陳列棚を見る。様々な種類のパンや弁当があるが、ミコトには違いがいまいちよくわからない。

(腹を満たせれば、それでいいのだが……しかし……)

 ミコトは少し考えた後、片瀬に尋ねた。

「君の推奨すいしょうするものを食べようと思う」

「えーと……つまり、俺のおススメ? そうだな、俺的にはカツサンドと焼きそばパンかな」

「ほう。では、その2つを」

「おっけー。ちょっと待っててね」

 片瀬は笑顔で答えると、商品をレジに持っていった。

 待っている間、ミコトが不良生徒にぶつかり、いさかいになりかけ拳銃を出す騒ぎがあったりなどしたが、購買部の賑わいのひとつに飲み込まれた。

「お待たせ、天原。なんか騒がしかった気がするけど……なんかあった?」

 袋を持った片瀬が不思議そうな顔をしながら戻ってきたが、ミコトは首を横に振った。

「いや。問題ない」

 ミコトは足元で泡を吹いていた生徒を一瞥いちべつもせず、涼しい顔で答える。

「じゃ、いこっか」

「いつでも来てちょうだいねぇ」

 レジから手を振る田井中に、「また来る」とミコトは軽く手を上げて答えた。

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