愛妻と銀縁眼鏡

 瞼を開けると天井は茜色に染まっていた。ゆっくりと瞬きを繰り返した静江は、頭を巡らせ記憶を手繰り寄せる。

 症状から見て、虎列刺コレラではないと意識を手放す前からわかっていた。疲れから来るものだとしても実感がわからない。初めて倒れたことを他人事のように感じた後、人の気配に気が付いた。顔を向ければ、目をつむった夫が腕を組み座している。下から仰ぎ見る形で、布団に寝かされているのだと理解したのは、一呼吸おいてからだ。先に謝るべきだろうかとも考えたが、どうしても気になることがあった。確かめるために口を開く。


「美幸さんは――」

「あなたは人の心配ばかりをする」


 静江が続きを言うより先にぴしゃりと遮られた。驚きすぎて、裕臣の顔を凝視してしまう。

 穏やかな表情は彼方に消えていた。

 どこかとぼけたような丸い眼鏡は冷たく変じ、月のようにやさしかった縁取りが怜悧な刃物のようだ。しろがねよりも冷たく抑揚のない声が静江に向けられる。


「ちゃんと休んでください」


 裕臣も目の下の隈や肌の色つやを見れば休めていないことは明確だった。

 診療に看護に追われる夫婦は、それぞれが時間を見つけて別々の場所で寝ている状況にある。二人が抜けている今は周りに多大な迷惑をかけているだろう。

 正座をする気力もない静江は手をつき上体を起こすだけで止める。


「旦那様だって、きちんと休まれていないでしょう」

「最低限は休んでいます。倒れるまで働かれるのなら、嫌がられても力を使います」


 のびてきた手に静江は体を引いた。今以上に裕臣の負担を増やすわけにはいかない。

 下ろされた手の向こうから疲れた顔が現れ、静江は唇を噛み締める。


「……管理ができていなかったことは反省しています」


 静江は鼻奥がつんとするのを耐えた。泣いて許されることではない。

 子も産めない、役にも立てない。では、必要ないではないか。

 両手で顔を覆った静江は悟られぬよう細く息を吐いた。一寸の間、調えてから意を決する。


「落ち着いたらで構いませんから、いとまをください」


 静江は暗い視界のまま言いきった。ずっと考えていたことだ。まだ二年だと必死に言い聞かせても、裕臣の時間を取っていることに代わりはない。このまま過ごして希望通りの未来ではなかったら。

 すがって裕臣の優しさにつけこみたくなかった。最後の甘えだ。きっぱりと切り捨ててほしい。


「静江さんと添い遂げたいから、夫婦になったのですよ」


 甘露のような言葉を静江は無言で拒否した。日が落ちているのだろう。暗い視界から光が消えていく。

 片手を取られた静江はなされるがままに成り行きを見守った。取られた手から視線を滑らせ、腕の傷痕が目に入る。静江が治しきらなかったものだ。

 触れた手は静江よりも冷えていた。

 伏せられた目はレンズに映る夕闇で隠され表情は読みない。辛うじて汲み取れたのはほんのわずかに上がる口端だ。指先が静江の手をすくい、静かに続ける。


「静江さんを守れる人でありたい、と言ったのは嘘ではありません」


 揺るがない言葉が、真摯な声が妻の意固地な心に爪を立てる。

 静江は時が過ぎるのを待っていたが、繋ぎ止めるように指先に力が入った。レンズ越しに垣間見えたのは真っ直ぐな瞳だ。


「私の我が儘を聞いてもらえますか」


 静江は返事を戸惑ったが、叶えられることならと結局は頷いていた。裕臣の我が儘が気になったと言った方が正しいかもしれない。

 顔の傾きが変わり反射がやわらぐ。仕方のなさそうに眉尻を下げ、細められた目元が現れた。


「新しく創る看護婦教育所で、看護婦を育てて欲しいのです。そうしたら、静江さんの負担が減り余裕ができるでしょう」

「そんな話、聞いてませんッ」


 非難めいた言葉に裕臣は動じずに応える。


「前から考えていたことです。仕事を増やすだろうと危ぶみましたが、考えを改めました。静江さんは家のためだけに働くにはもったいない。どうか、そばで助けてもらえませんか」


 無茶苦茶です、と静江は弱々しく否定した。

 妻の冷えた手を夫の手が包み込む。


「私のために考え込む可愛い人を手放したくありませんから」


 きちんと言えと元気な妹に口酸っぱく言われましたと丁寧に付け加えられる。

 呆気にとられた静江は穏やかに笑う兄妹が自分より遥かに頑固なことを思い出した。内に入れた者にとことん甘く、息がしやすいように心を砕く。凪いだ瞳は機微を捕らえ、心を見透す。

 穏やかな瞳に捕われているのは静江だ。

 これ見よがしに腹の底から息を吐き出した妻は夫を睨み付ける。


「新しい仕事を与えるのに、体を壊すなとおっしゃるのでしょう?」

「静江さんはかしこいですね」


 気付けば、握られた手は同じ熱になっていた。


· · • • • ꕥ • • • · ·


 虎列刺コレラが落ち着いた頃には梅の花が咲き始めていた。もうすぐ裕臣と過ごす生活が四年目を迎える。

 離れの縁側でひと息つくことが静江と美幸の日課になりつつあった。病をうつすのではないかと怯えていた日々が嘘のようだ。

 静江の持ち込んだ金平糖と美幸の入れた梅昆布茶で春の訪れを楽しむ。


「ねぇ、お兄様が皆になんて呼ばれているかご存知?」

「不思議なことを訊くのね。その言い方なら、『先生』ではないのでしょう」


 もちろん、と応え、美幸の口元はきれいな弧が描いた。意地悪をするなと訴える瞳を向けられ、あっさりと答えを教える。


「『観音様』って呼ばれているのよ」

「薬師観音からとったのかしら……そうだったら、医師は皆、観音様になってしまうわね」


 美幸は子供を見守るような笑顔を浮かべ、金平糖を一つ口に入れた。舌で転がした粒を楽しみ、含み笑いを手の平で隠しながら難しい顔をする友人に耳打ちするように明かす。


「観音様みたいに笑ってるからって」

「そう……かしら」


 静江は煮え切らない返事をして、眉間にしわを寄せた。患者に接する裕臣を思い描いて同意しようとしたが、先日の冷えた顔を思い出したからだ。連なって、情けなくも見える笑顔や自分を嗜める顔も脳裏に浮かぶ。


「愛されているわねぇ」


 含みのある呟きに頭をひねりながらも静江は頷く。


「その自覚はあるけれど」

「わたくしが恋ができないのは、静江さん達のせいね」


 くすぐったそうに笑う美幸にどういうことかと訊ねようとした静江は瞬いた。夫が離れを訪ねてきたからだ。


「お邪魔でしたか」

「静江さんの惚気話、お兄様もお聞きになります?」

「興味深いですが、嫌われなくないので止めておきましょう」


 嫌いはしないと声を上げそうになったが、静江は押し黙った。羞恥で震える予感がする。

 落ち着きのない静江に裕臣は眦を下げた。懐から出した紙を妻に渡しながら伝える。


「看護婦教育所設立の許可がおりました」


 静江は封書を丁寧に開けて、中身を穴が空くほどに見つめてしまう。

 文明開化は女が社会に出ることを後押ししたが、まだまだ先は長いだろう。男と肩を並べられる技術を身につけるに越したことはない。

 封書の一枚目には教育所設立の許可が下ろされていた。二枚目を見た静江は眉間にしわを寄せる。


「どうしました、そんなに深刻な顔をして」

「旦那様」


 はい、なんでしょう、と裕臣は呑気に応じた。

 妻の目は書類を睨み付けたままだ。


「名誉爵位です」

「めいよしゃくい?」


 ぴんとこない顔で瞬く夫に静江はわななく口を無理に落ち着かせながら奏上を読み上げる。


「先日の虎列刺コレラ終息への貢献を称え、なんじ、梅辻裕臣に名誉爵位、男爵を与える」


 兄妹は目を見合わせ、一方は首を傾げ、もう一方は頬に手を当てた。


「……ありがとうございます?」

「めでたい話ねぇ」


 重要な書類を一つにまとめて送る先方も先方だが、最後まで確認していない夫に静江はこめかみを指先で揉んだ。

 見かねた美幸が兄に言ってやる。


「早く伝えたくて最後まで読まなかったのでしょう」


 あいまいな笑い声で誤魔化した裕臣に静江はさらに頭が痛くなった。

 いままでは伯爵子息として振る舞っていたが、男爵ともなればそうもいかない。貴族院への参加が不可欠だ。


「男爵が作った看護婦教育所ともなれば箔がつきますね」


 ずれたことを言う夫に静江は頭を抱えたくなった。医者をしているのだから、賢いはずなのに変な所で抜けているのだ。夫の飾らない性格が可愛いと思える自分は重症だろう。


「絶対、成功させますからね」


 妻の恨み事に裕臣は困ったように笑った。木漏れ日は若葉を透かし、眼鏡の縁をきらりと輝かせる。その奥で細められた目は朝露よりも艶やかに、春風よりもあたたかかった。



(完)


※あまりにも矛盾があったり、重複があったりしたので前話達をてこ入れしました。きっと、落ち着いたら、またします。いつものことですが(こら)

大遅刻ですが、素敵な銀縁眼鏡企画ありがとうございました!


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

観音男爵 木の芽はる かこ @kac0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ