あまりに美しくて魔物が食べて自分の物にしてしまう 1

 アンは四日ぶりに村で着ていた服を身に着けた。

 ――取っておいて良かった

 彼女は薄汚れたスカートを撫でた。

 ――この服、こんなに汚かったのね

 持ち上げた裾はり切れて薄く、けれど清潔な匂いを漂わせて彼女の心を乱した。

 今朝、明け方前に目を覚ましたアンは薄闇の中でここにいたことは夢だった、と決めた。そのために、服を着替えた。母の骨の革袋を腰に提げる。

 ――早く洗って、ここを出なきゃ

 アンは寝間着として使っていた男物の上衣を手に持ち、部屋を出た。かすかに小鳥の囀りが聞こえる。

『仕事場』の扉を通り過ぎた。男がアンの啖呵に「そうか」とだけ返したのを思い出す。忘れようとして頭を振った。

 洗濯桶をひっくり返し、服を投げ入れた。見る見る内に水が湧き出し、浮き袋を抱いたようにして服はずぶ濡れになっていく。

 彼女は力を込めてそれを洗い、絞り、干した。

 窓を開ければ、気を利かせたように風が上衣を揺らした。裾の端から滴る水滴が朝陽に透けて、音を立てて落ちた。

 窓の外は快晴だった。


「お世話になりました、ヴィオさん」

「あぁ」

 男はアンの着る服に視線を遣ったがそれだけで何も言わなかった。

「持っていけ」

「これ……あたし、いただけません」

 布袋いっぱいの食べ物だった。

「掃除代だ。労働には対価を支払うのが当然だろう」

「掃除代……ありがとう、ございます」

 アンは声を絞り出した。

 ――ずるい。ヴィオさんはずるい

 昨夜のまま、気まずいままに別れさせて欲しかった。彼女は口の中を噛んで恨み言が出そうになるのを我慢した。だからつい、口が滑った。

「……骨のこと、教えて頂いてありがとうございました。村を離れる覚悟ができました」

「何?」

 変な見栄を張りたくなった。ひとりでも生きていけるのだ子どもではないのだと、男に最後分からせたくなった。

「かあさんの骨をとうさんの隣に埋めたら、何処か他の村か町に行こうと思います。だから食べ物は……助かりました。ありがとうございま」

「やめておけ」

 え? とアンは男を見上げた。眼鏡の膜が光を撥ね返して、男の表情はよく分からない。

「この森はともかく、村の外も危険だ。子どもが歩いて行ける距離に他の村などない。山を越えてようやくだ」

 ――そんなの分かってる

「いいんです、村にはいたくないから」

「だめだ」

 低い声に冷気がはらむ。アンは負けじと首を振った。

「お前のような子どもは賊に見つかったら売り飛ばされるか殺されるかだ」

「いいんです! もう……放っておいて!」

 刹那、アンの手首を、男は無理に掴み上げた。

「いい? お前は、殺されてもいいのか?」

 急に男の声が歪んで聞こえた。元々大きいその体が、一回り大きく黒く膨れ上がる。どこかで布の破れる音がした。

 「死んでもいいと言うのなら」痛みに呻く彼女を見下ろし、地を這うような声で男は言った。

「お前を石にしてやろう!」

 その瞬間、アンは男の瞳を間近に見た。鼻が触れるほどの距離。

 異形の色――紫の光彩が光を放った。

 眼鏡が音を立てて弾けた。

 ――まも、の……! 

 アンがその呼び名を思い出したとき、男は既に人間の形をしていなかった。肌だった部分は黒々と渦巻く毛に覆われ、こめかみの辺りからは禍々しく尖った螺旋――角が伸びている。服は不自然に盛り上がり彼女の二倍はあろうという大きさ。

「ヴィ、ぁ……あ……」

 来い、と引っ張られ引きずられる。掴む手も、もはや人の手ではなかった。硬い鉤爪に似た形が腕を囲っていた。

 錠の開いた扉の奥。入ることを禁止された男の仕事場――下りの石段を下りきった先の地下室へとアンは膝を擦りながら連れられていく。

 ――痛い……こわい!

 暗がりに魔物の獣のような荒い息がこだまする。瞑るまぶたが微かに明るくなり、無理に目を開けたアンは恐怖に悲鳴を上げた。ギザギザに引き裂かれた布が入り口に垂れ下がり、部屋の逆光でそれが何か――恐ろしい獣が牙を剥いているように見えた。いいや、実際に自分を石にして食べようとしているのだ。

 あと五歩……三歩、二歩。

 いやだ! 力を振りほどこうとしても敵わず、アンは膝を擦って抵抗した。けれど彼女は男の胸まで届かず、暴れても引っ張り上げられた手首が痛むだけだった。

「石になん、てぇ!」

 アンが叫んだ途端、魔物の乱暴な歩みが止まった。

 踏ん張っていた反動で彼女は体勢を崩すと同時、再び捻り上げられた。

「そうか、嫌か。それなら村に戻るか」

 軋み歪む声。アンの知る男の声ではなかった。

 彼女はまるで耳を掴まれた兎のような宙ぶらりの格好で痛みに耐える。声を絞り出した。

「む、らも、石も……いや! あぁ!」

 急にかせが外れ、アンはどうと背から倒れた。尻を打ち呻く彼女に男は「ならば仕方がないな」と、手だったそれを持ち上げた。

 鉤爪の先が銀色に一条、かすかな灯を撥ね返し彼女の瞳を縦に貫いた。それはまるで刃。

 ――あたし殺される、の? 殺されて石に……?

 あ、ぁ。

 息が漏れるばかりのアンに、男は覆いかぶさるように迫った。首に痛み。

「お前は何色の貴石になるか楽しみだ」

 闇に浮かぶ怪しく揺らぐ紫。

 ヒッと顔を背けて這って逃げた。瞬間、括った髪を掴まれる。

 ――痛い、いやだ!

 男は容赦なく、アンのうなじに爪を当てた。

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