第2話 ノワールに誘われて

 赤坂けやき通りは片側二車線であるが、それほどの幅はなく、両側の歩道にはその名の通り百本のけやきが植えられている。この季節の昼間は通りの両側から生い茂る緑に空は隠れているが、ほどよく射し込む木漏れ日のおかげで何とも清々しい色合いと木々の匂いを感じることができる。夜、とりわけ日が暮れた直後になると、けやきと共に立ち並んだ街灯のオレンジ色が、通りの雰囲気を遠い異国のように感じさせる。なぜかけやき通りの街灯は、一般的な白色ではなくオレンジ色をしている。彩はこの時間のけやき通りが特に気に入っていた。


 天神で白石咲、千葉紗香らと買い物をして、カラオケに行き、また当てもないウィンドウショッピングと一通り高校生らしい土曜日を過ごした後、また月曜ねと言い別れ、日が暮れる前に家路についた。普段ならもう少し遅くまで友人と過ごしているところだが、最近少し体がだるく、早めに切り上げることにしたのだ。部活に所属していない彩は運動不足で体が鈍ったのだろうと歩いて帰ることを選択した。丁度良い時間帯なので、少し遠回りではあるがけやき通りを経由することに決めた。警固公園を横切り、人が賑わう国体道路を西へと向かう。土曜ということもあってか、本当に人が多い。しかし、西へ進むにつれ、人はどんどん減っていく。周りに人がほとんどいなくなった頃、彩はけやき通りの端に到着した。


「ちょっと早かったか」


彩は立ち止まり、まだ街灯が灯っていないことに嘆いた。しかし、街灯のオレンジではなく、夕陽のオレンジも悪くない。体がだるいのも忘れて気分揚々と歩き出す。もしすれ違う人が居たら、その人は彩のにやけた顔を少し怪訝に思ったであろう。


 しばらく歩いていると、歩道の端に前足をピンと伸ばして座っている黒猫が目に入ってきた。まるで猫の置物の様であるが、尻尾が動いているのでどうやら本物の猫だ。全身真っ黒で短い毛、ピンと尖った耳に長い髭。とてもゆっくりとしたメトロノームの様に尻尾を右に左にと振っている。彩はその黒猫に不思議な魅力を感じ立ち止まる。


「あなたの名前はきっとノワールね」


安直ではあるが、なぜか思った事が口に出てしまった。すると黒猫は返事をするように鳴き、ついて来いと言わんばかりに歩き始めた。


「来いってこと?」


またもや思ったことを言ってしまい、何でそんなことを口走ってしまったのだろうと微笑みつつ、彩は黒猫の後を追う。


黒猫は彩よりも早いペースで進むが、たまに振り返り、彩が追い付くまで待っている。それを何度か繰り返す。すると突然細い脇道に入る。彩も見失うまいと小走りで脇道に入ると、そこは街を照らす夕陽で一面オレンジ色をしていた。見たことのない綺麗な景色に、彩が息を飲んだ瞬間、後ろでキキッという自転車のブレーキ音が響く。はっとした次の瞬間、黒猫の姿はどこにもなかった。黒猫を最後に認めた場所には「Anima」というカフェらしき店があった。


こんなところにお店があったのね。黄色い壁にステンドグラスの窓、ダークブラウンの大きな木のアーチドアにかわいらしい丸ノブ。奇抜に感じるその外見はなぜかしっくりと、景色に馴染んでいた。ステンドグラスのせいでお店の中は見えないが、表に出ている三角の看板には「チーズケーキしかありません」と、看板としては逆効果であろう否定的な売り文句が書かれている。文字からして、この店に女性店員が居ないであろう事は想像できた。普通なら店に入ることを躊躇いそうな状況ではあるが、彩は無意識にドアノブに手をかけていた。


彩がドアを引くと、ギィと重厚な音を立てると同時に、ドアの内側に取り付けられたウインドチャイムが綺麗な音色を奏でた。微かに木の香りがする。店の中には大きな扇形のカウンターがあり、背もたれの付いた木の椅子が五脚並んでいる。カウンターの中は広く、奥の壁には食器やらコーヒーカップが並んでいる。壁の裏にはまだ空間があるようで、壁の端に開いた空間から裏に回れるようだ。カウンターの端、五脚の内の一つに、中年くらいの細身の男性が座って新聞を読んでいる。お客さんだろうか。男性と目が合った瞬間、奥の空間からウインドチャイムの音を聞きつけた緑のエプロン姿の若い男性の店員が出てきた。


「いらっしゃいま...」


若い男性店員は客への挨拶を終えることはなく、口が開いたままになっている。どうやら彩のことを知っている様子だ。彩もそんな男性店員に見覚えがあった。


「もしかして狭間君?」


彩と累は同じクラスではあったが、話したことは一度も無く、これが初めての会話だった。


「何や、珍しいな。マルの知り合いなんか?」


新聞を読んでいた男性が二人の硬直を解くように言葉を入れてきた。何故か関西弁である。


「お嬢ちゃん、そんなとこにつっ立っとらんと、はよここ座り」


自分の隣の席を薦めてきた。こんなところでクラスメイト、しかも一度も会話すらしたことのない累を目の前にして、幾分緊張はしていたが、とりあえず薦められた席に着いた。


「ほんで?お嬢ちゃん。こいつと知り合いなん?」


男性はまだ固まったままの累に親指を向ける。おそらくこの男性がこの店の店長なのだろう。


「えっと、私は狭間君と同じクラスの神宮寺彩といいます」


男性はかわいらしい名前だと言い、既に彩ちゃんと呼んでいた。


「マル、ぼさっとせんで、はよ彩ちゃんにお冷出さんかい」


ようやく累の時間が動き出す。手際よくウォーターポットからグラスに水を注ぎ、カウンター越しにコースターをセットしてグラスを置く。


「ど、どうぞ」


さっきの手際のよさは慣れていたからだろう。会話はまだぎこちない。店長らしき男性は、累にまだやることがあるだろうという感じで顎で何かしろと言っている。


「神宮寺さん。ウチはカフェなんですが、メニューは499円のチーズケーキのみです。チーズケーキを頼んでいただけたら、コーヒーがおまけとして付いてくるんですが、出していいですか?」


なるほど、あの看板に偽りなしということか。彩は承諾した。


「マル。お前、おまけって何やねん。失礼やろが」


店長らしき男性が割って入る。


「だってマスター、あれがおまけでなくて何なんだよ」


そう言って累が指した壁には、壁半分くらいに何やら色とりどりのカプセルがずらりと並んでいる。雑誌やCMで見たことがある。確かあのカプセルを専用のサーバーに入れると、コーヒーが出てくるのだ。色によって味が違うはずである。どうりで店に入ったときにカフェ特有の匂いがしないはずだった。


「彩ちゃん、ウチはコーヒーはセルフなんよ。チーズケーキ1つにカプセル2つまで。でも彩ちゃんなら3つまでええよ」


一応声のトーンを上げて嬉しさを伝える。そして分かったことが3つ。

1つ、狭間君は「マル」と呼ばれていること。

2つ、店長ではなくマスターと呼ばれていること。

3つ、狭間君はマスターには強気なこと。


彩は五分と経たないやり取りに、何だか心地よくなってきた。

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