第45話 絶対に渡さない

 動きに気づいた蒼太朗そうたろう美月みつきに近づこうとしたとき。

 不意に、周囲が明るくなる。


「ガス灯がついたのか……?」

 慈仁いつひとが不思議そうに呟く。


 一瞬。

 誰もがその灯りを見た。

 庭園の奥の方だ。


 美月は日が暮れてから園庭に出たので、実際にそちらに何があるのかはわからない。今は暗がりに沈み、ただ、なだらかな芝生と、小山のような茂みが黒雲のように地面にうずくまっているのが見えるばかりなのだが。


 琥珀色の炎が、ぽうぽうと、漂いながら、近づいて来る。

 その周囲を舞うのは、薄緑色の蛍たち。


「いやいやいや、道に迷ってはってな。もう、びっくりするわ」


 顔が判別するぐらいの距離に来ると、それが、松明の火だと知れるが、その色合いが一風変わっていた。


 赤でもなければ、橙でもない。青白くもなかった。

 ましてや、蛍の発光色でもない。


 透けるような黄色。

 まるで、狐火だ。

 その周囲に、火の粉のように蛍が飛ぶ。


「ようやくお連れしたで、おまっとうさん」

 琥珀色の松明をかかげていたのは、信田しのだだった。


 今日も相変わらずの書生姿で、唖然と見つめる一同の前で大げさに一礼をしてみせると、するり、と身をかわす。


 背後から現れたのは、羽織袴を着用し、きっちりと背筋を伸ばして立つ芳典よしのりだ。


「どなたか存じませんが、案内、助かりました」

 芳典は、睫を伏せるようにして礼を言う。狐は肩を竦めた。


「ほんま、広い庭やで。迷って当然やんな。でも」

 ちらり、と松明と同じ色の瞳を美月に向けた。


「間にうたみたいでよかった」

 にやりと笑い、ふう、と松明に息を吹きかける。


 煌々と光を放っていたそれは、まるで最初からなかったように、消え失せた。


 狐は、もう不要、とばかりに、ぽいと木の枝を放る。その音に、伽賀かがのうめき声が混じった。


「どうしてお前が……」

 唇から言葉がこぼれ出る伽賀を一瞥し、芳典は薄く笑った。


あさひから、後継を殿下に紹介するほまれな場がある、と言われ、はせ参じたまでですが」


 伽賀によく似た瞳。そっくりな鼻筋。

 華奢だが広い肩幅に、不遜なほどの貫禄。

 芳典は、冷ややかに実父を見つめた。


「なにか、ご都合が悪かったでしょうか、父上」


「あ……、旭はどうした。旭は」

 伽賀は呟き、視線をせわしなく走らせる、ふふ、と、芳典が笑みこぼれる。


「お忘れになったのですか。その者は勘当したではないですか、父上自身が」

 目を細め、淡々と告げる。


「あなたの子はおれだけ。そうでしょう?」


「おお、なんだ、伽賀よ。うぬが申しておったのは、この青年か」

 慈仁が手を打ち、陽気な声を上げた。


「そのようでございますな、殿下」

 蒼太朗そうたろうがすかさず追随する。


「い、いえ、あの……、殿下。この者ではなく……」

 狼狽える伽賀を無視し、芳典が進み出て、片膝ついた。


「お初にお目にかかります。伽賀の嫡男、芳典と申します。どうぞ、末永くお見知りおきを」


「うむ、しかと覚えたぞ、芳典。なに、苦しうない、今後も……」


 その後、慈仁は定型的な何かを発しようとしたのだろう。蒼太朗は、それに対して何か相槌的なことを続けようとしたのかもしれない。


 だが、それら一切を潰したのは、彩女あやめの声だった。


「あんた! なにしたのよ!」

 美月は彩女に胸倉を掴まれ、怒鳴りつけられた。


 いきなりのことと、勢いに負け、美月は数歩たたらを踏み、つつじの生垣によろめいたが、それでも踵を踏ん張って、彩女の手を強引に振り払った。


「い、いきなりなんですかっ」

 怒声を発したが、今度は平手で殴られて茫然とする。


「旭様をどこに隠したの! いますぐ出しなさい!」


 焼け突くほどの憎悪に満ちた視線を向けられ、右腕が凍り付いたように動かない。


 だが、美月は痛みも屈辱も忘れ、睨み返した。殴られた際に、口の中を切ったのかもしれない。鉄錆びた味が広がった。


「出さない。もう二度と、あんたたちになんか渡すもんですか」

 握った拳で口元を拭い、ぐ、と彩女に一歩踏み込む。


「誰かの願いをかなえるために、誰かが犠牲になるなんて間違ってる」

 燃やし尽くすような彩女の視線をはじき返し、顎を引いた。


「旭さんのお父さんも、あなたも……。自分の希望や将来の夢は、自分で叶えてちょうだい。旭さんはもう、自分の夢も居場所もみつけたの」


 ぎり、と彩女の歯ぎしりの音が響き、勢いよく腕を振りかぶる。

 殴られる、と思った瞬間、がさり、と背後から繁みの揺れる音がした。


 同時に、ふわりと背後から抱きしめられ、美月は目をまたたかせる。


「それ以上、わたしの大事なひとを傷つけることも、貶めることも許さない」


 上から低い声が降って来る。

 視線を移動させると、旭だ。


 詳細な状況はわからないのだろうが、彩女がいるであろう方向を睨みつけ、旭は美月を腕の中に囲っている。


「それ以前に、殿下の前でなにごとだ」


 ため息交じりの声に顔を前に向けると、振り上げた彩女の腕をとらえ、芳典が一重の目を細めている。


「離してっ」

 彩女がもがくが、芳典は彼女の腕をとらえたまま離さない。


「あ、旭……っ。お前……っ。こ、皇太子殿下、この……」

 伽賀が慈仁の前にまろび出て、旭を紹介しようとしたのだが。


「おお、睡蓮の菓子職人。今日は遠路はるばるご苦労であったな」

 慈仁が笑顔で言葉を遮る。旭は声のする方に向かって無言のまま微笑んで会釈をした。


「いえ、この息子こそが……」

 それでも続けようとした言葉を断ったのは、芳典だった。


「ところで、父上。かような無礼で乱暴者は、我が家の嫁にふさわしくないと存じますが、どう思われますか」

 ぐい、と腕を掴んだまま、彩女を引き出す。


「まさにその通りであるな」

 なぜか返事をしたのは、慈仁だ。


「伽賀よ。嫁は選ぶに越したことはないぞ」

 慈仁の言葉に、伽賀は深く頭を下げた。そのままの姿勢でしばらく何事か考えていたようだが、ふたたび顔を上げた時には、もういつもの伽賀の表情だった。


「……高岡。その娘、三倉みくらに突き返せ」

「かしこまりました。さ、彩女さん」


 高岡は眼鏡を擦り上げると、足早に彩女の腕を掴む。芳典からも旭からも引き離し、喚く彩女を引きずるようにして入場口の方に連れて行った。


「芳典、おまえ……。重篤ではなかったのか」

 口早に伽賀が長男に詰問しているのが美月にも聞こえる。瞳だけ動かすと、親子は相対していた。


「いますぐにでも、父上を引きずり降ろして跡が継げるほど元気ですか」

 芳典が冷淡な笑みを口元に浮かべている。ぐ、と伽賀が息を呑んだ。


「伽賀よ」

 慈仁がのんびりと声をかける。緊張がいっきに緩んだ。


「はは……っ」

 伽賀は頭を下げたまま、慈仁の前に進み出る。


「そちの後継と、しばし話がしてみたい。一緒に天幕に来るがよい」


 驚き、目を瞠ったものの、伽賀は芳典に視線を走らせる。

 芳典は慈仁に対し、深く頭を下げた。


「光栄に存じます」

「書生よ。お前も来るか。良い酒があるぞ」


 慈仁に声をかけられ、狐は嬉し気に笑った。


「ええなあ。うまそう」

「あお、参るぞ」


 駆け寄る狐と並び、慈仁はさっさと歩き出してしまう。


「全く、勝手な……。さあ、伽賀殿、どうぞ」


 蒼太朗がため息交じりに声をかけ、伽賀を促した。恐縮しながらも蒼太朗と並び、何やら話をしながら小道をまた、天幕の方に戻っていく。


 芳典もそれについていこうとしたのだが、ふと、足を止めた。


 美月がまばたきをして、彼を見る。

 だが、彼が見ているのは、美月の背後。


 旭だ。


此度こたびは世話になったな」

 美月を後ろから抱きしめたままの旭に声をかけた。


「こちらこそ。どうぞ、伽賀を善き方向にお導き下さい」

 にこり、と旭は笑った。


「兄上なら、きっと成し遂げられることでしょう」

「お前も励め」


 大きく頷いた後、少し首を傾げる。


「しかし……。お前が男色家だとは知らなかった」


 いきなりそんなことを言いだすから、美月だけではなく、旭もぎょっとする。


「彩女に手を出さなかったのは、そういうわけだったのか」

「え……? は?」


 旭はなんとか目を凝らして美月を見ようとしているようだが、まだ視力が戻らないらしい。困惑を通り越して、狼狽え始めている。そんな彼の腕の中で、美月は、ただただ、絶望していた。


「今度、時間が出来たらお前の店に行ってみたい。いいか?」

 尋ねられ、旭はゆっくりと異母兄の方に顔を向けた。


「はい、もちろん。体調が悪くなった時も、すぐにお声掛けください。ああ、そうだ。そのときには、わたしの大事な美月さんを、ちゃんと……、ええ、ちゃんっと。ご紹介したいと思います」


 力説する旭にうなずくと、芳典は、慈仁たちを小走りに追った。

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