第38話 本物と代替品
(……思っているより、使用人がいないな……)
異母兄の自室に近づくにつれ、むしろ人が減っている気がする。
世話をするために、もっと多くの人間が行き来しているのだと思っていたが、違うらしい。
(ひょっとしたら……)
異母兄は、すでに、父に見切りをつけられたのかもしれない。だから、使用人が少ないのだ。
やはり、体調が思わしくないらしい。旭は、不安を抱いたまま、廊下を進む。
格子天井には、天井絵として、花輪がいくつも描かれていた。
義母らしい贅だと思う。
異母兄と義母のいる棟は、池を望む形に作られており、廊下からも、緋鯉が泳ぐ池が望めた。ゆらり、と振袖を揺らしたようにたゆたう鯉たちは、だが、水面から顔を出そうとはしない。随分と底の方を泳いでいた。
曇天のせいか、七月になろうとしているのに、随分と冷える。
池を渡って流れ込む風のせいだろうかと考えたが、水面は凪いだままだ。
旭は足を忍ばせ、周囲にそれでも気を配りながら、異母兄の部屋の前に立った。
「失礼します、旭です」
意を決して、襖の前で声をかけた。
「兄上。おられますか」
そう
すい、と。
襖が薄く開く。
そこから、目だけをのぞかせたのは、義母だ。
和風に結い上げた髪には珊瑚のかんざしを挿し、着ている物も値段といい、図柄といい、まったく隙が無い。
「何用です。なんのために、ここに来ました」
顔右半分だけの義母は、能面のような顔で尋ねる。
「兄上のお加減をうかがいに」
く、と義母の後ろから押し殺した笑い声が漏れた。
「嗤いに来たのか、おれを」
異母兄だろう。
随分と掠れて力のない声に、旭は顔をしかめた。
「違います。話を聞いてほしくて」
「お前から聞く話など何もない。耳が穢れるわ、下郎」
義母が吐き捨てる。
ざくり、と心がえぐられた。
ああ、そうだ。
この人はこういう人だった、と改めて思いだす。
この数か月、温かい人ばかりに囲まれていたから、こんな酷い言葉を吐く人がいることを、すっかり忘れていた。
昔は。
酷い言葉を吐かれるのが普通だったというのに。
「わたしは、伽賀の家を継ぐつもりなど毛頭ありません。そのことで、相談したいことがあるのです」
はっきりと言い切ると、義母は無表情のまま、目を細めた。
「では、今すぐ死になさい。お前に出来ることは、それだけです」
「申し訳ありませんが、それはできません。わたしには、生きる理由が出来ました」
旭は義母越しに、異母兄に語り掛けた。
「わたしの生きる理由は、伽賀の家を継ぐことでも、事業を存続させることでもありません。それは、兄上にこそふさわしい。父上は、今度の
ひゅ、と義母が息を呑む音が聞こえたが、旭は構わず続ける。
「わたしは、兄上こそ、父上の後継者に相応しいと思う。そのように、あなたは生きてきて、そのように、振る舞ってきたのだから」
病弱だろうが、寝込みがちだろうが。
兄は、誰に対しても「伽賀の嫡男」として振る舞ってきた。
数日しか通えなかった高等学校であっても、数えるほどしか出席できなかった社交の場でも。
彼は、伽賀の嫡男であろうとした。
今なら、はっきりと言い切れる。
旭は、彼の
本当に、スペアだった。
何も思わず、何も感じず、ただ、父の言う通りに生きてきたにすぎない。
異母兄の、代わりとして。
だが、今、強く思う。
「わたしは、あなたの代替品です。あなたがいないのならともかく……」
旭は、義母越しに、強く異母兄に話しかけた。
「あなたは、そこにいる。それなのに、どうしてわたしが、伽賀の家を継げましょう」
本物が、すぐ側にいるのに。
なぜ、代替品が舞台に登場せねばならないのか。
「観蛍会のことで、ご相談があります。入室を許可いただけませんか」
しばらくの沈黙の後、ごほり、と湿気た咳が室内から洩れた。
「母上。そやつを通してください」
乾いた声が、指示をする。
「……この母も同席いたしますよ」
視線だけ動かし、義母が確認する。
「かまいません」
異母兄が言い、旭も同意の意味を込めて頷く。
「……ほんの少しの時間しか許しません」
義母は厳命すると、襖を大きく開いた。
旭は会釈をして、彼女の隣を通って中に入る。
一番に感じたのは、冷気だ。
反射的に身体が震える。
室内を見回した。
随分と広い。
そこに、几帳や壺、絵画が品よく並べられ、池に臨む窓が全開にされていた。
(広いから……。窓が開いているから寒いのか?)
しかし、病人にこの寒さはどうなのだ。
震えが起きそうなほどだ。
ちらり、と背後の義母の様子を窺う。
だが、彼女はこの時期らしい服装をしている。
(そうだ……)
旭は気づく。
寒いのは、この部屋だけなのだ、と。
「どうした」
淡白な声に視線を向ける。
一段高くした場所に、布団を敷いて
手を突き、ようやく上半身を起こそうとしている彼を見て、旭は言葉を失う。
真っ黒な縄が、幾重にも絡みついているのだ。
「え……。あ、」
兄上、と呼ぼうとしたが、声が詰まる。
畳の上から、窓から、天井から。
様々なところから、太くて黒い縄が伸びだし、芳典に巻き付いている。
しっかりと旭に見えているのは、首から上だけだ。寝衣など、いったいどんなものを身に着けているのかわからない。
ぞわり、と旭の全身が総毛だった。
悪意だ、と直感した。
これは、伽賀に送り込まれた悪意だ。
嫉妬やねたみ、憎悪。憤怒に、殺意。
伽賀に向かって放たれた、悪意。
それが、芳典の病の原因だ。
「なんだ」
硬直したまま動かない旭に、芳典が眉根をひそめた。
「無礼者、どうした」
義母が胡散臭そうに尋ねる。
旭は、改めて芳典を見る。
紙のように真っ白な肌。黄色く濁った瞳。むくみ、妙に膨れた首。紫色に近い唇。
ばらり、と。
また、一本天井から縄が落ち、芳典の首にかかった。
ぐい、と。
勢いよく引かれ、芳典が激しく咳き込む。
義母が駆け寄り、背を撫でるが、芳典は喉を逸らすようにして、せき込み続ける。
「やはり、お前は疫病神だ! 即刻退出せよ!」
義母が睨みつけたが、構わず旭は大股に近寄った。
そのまま、無言で芳典の首にかかった黒縄を手で払う。
ぶわり、と。
煤に似た胞子を吐き出した。旭は目を細めて顔をそむけたが、黒縄は断ち切れたらしい。
ごほり、と。
ひとつだけ咳をしたあと、芳典の呼吸が整う。
(これ……、祓えるんじゃあ……)
美月は以前、睡蓮の一族は悪意に影響される者が多く、早死にしていた、と言っていた。
自分もそのような体質だが、旭がいると、悪意が消えるのだ、と。
(ひょっとして、兄もそうなのだろうか。美月さんと同じ体質)
旭は無言で、目に見える限りの黒縄を引きちぎった。
「な……、無礼者! なにを!」
義母から見れば、やたらめったら、芳典の周囲を布団ごと叩いていたり、腕を振り回しているように見えたのだろう。
力加減などなく義母は旭の背中や腰を、自分の拳で打ち据えたが、旭は痛いとは感じなかった。
いや、幼いころなら、何度もこんな暴力に遭い、恐怖と絶望に怯えていた。
だが。
その義母も、もう自分より背も小さく、肉も薄くなった。
息子を守るために振るう暴力でさえ、旭を止められない。
そのことが、逆に切なかった。
「兄上、これでだいぶん楽になったのではないですか?」
目に見える黒縄をすべて払い終えると、旭は布団に座っている芳典に尋ねた。
ふわり、とまだ天井の端に煤のようなものが浮かんでいるが、窓からの風に溶けて消える。
「なにを莫迦なことを………っ」
本当は、もっと怒鳴りつけたいのだろうが、旭を打ち据えることに全力を使い果たしたらしい義母が、荒い息で睨みつけて来る。
「なにを……、したのだ」
愕然とした異母兄の声。
だが、それ以前に、旭も義母も驚く。
声に、力があるのだ。
咄嗟に芳典の顔を見た。
「あなた……、顔色が……」
義母が呆気にとられている。
それほどの豹変だ。
頬に赤みが差し、唇は潤んでいる。瞳は澄んで力があり、妙なむくみはどこにも見えない。
「身体が……、軽い」
愕然と芳典が呟く。
「兄上は、今までずっと、伽賀に向けられた悪意を受けて生きてこられたのでしょう」
旭は彼の側に座る。
呪うべくは、本来、父であったろうに。
その刃も呪詛も、つらみも。
何の因果か、すべて、幼いころからこの兄が背負ったのだ。
「どうやら、わたしには、その悪意を消す力があるそうで……」
無表情のまま、自分を見つめる兄に、微笑みかけた。
「そのことを、教えてくれたのは、同じように悪意の影響を受けやすい、心の優しい娘さんなんです。わたしは、彼女が気になって仕方ない」
きらきらした目で、自分のアイデアを話す美月。
子どもたちの将来が心配だ、といろんなことを計画する美月。
ごはんがおいしい、とほめると、照れたように笑う美月。
「その彼女が辛い目にあっていないか、悲しいことに巻き込まれていないか、心配で心配で……。ずっと側にいて、腕の中で囲っていないと不安なんです。なので、伽賀の跡継ぎになどなれないのですよ」
畳に手をつき、旭は頭を下げた。
「未熟なわたしに代わり、どうぞ、伽賀をよろしくお願いいたします」
そのままの姿勢でじっと、待つ。
「お前。おれが憎くないのか」
ぼそり、と頭上から降って来る声に、旭はゆっくりと顔を上げた。
目の前には、異母兄がいる。
自分を蔑み、妾腹の子と侮り、嫌悪していた芳典。
幼いころは憎かったし、恐ろしかったし、悲しかった。
だが、今は思うのだ。
彼も、旭のことが、憎かったし、恐ろしかったし、悲しかったのだろう。
自分の
そして、恐ろしかったに違いない。
いつか自分は、こいつにとって代わられ、消えてなくなるのだ、と。
「わたしは、あの父を、驚かせてやりたいんです」
旭は、いたずらっぽく笑った。
「驚かせる?」
訝しむ芳典を見て、旭は声を立てて笑った。
「あの顔に向かって、なんでも、自分が望むとおりになると思うなよ、と言ってやりたい。そのとき、驚くであろう父の顔を見てみたい」
目元を緩めたまま、旭は芳典を見た。
「わたしではなく、あなたが、伽賀を継ぐべきだ。そう思うでしょう?」
芳典はしばらく無言で異母弟を見つめていたが、不意に、くく、と小さく笑いを漏らした。
「そうだな。父には少し、痛い目をみてもらおう。存分に驚かせてやる」
その言葉に仰天したのは実母らしい。「まあ」と絶句している。だが、一瞥もせず、芳典は、旭に大きく頷いて見せた。
「あいわかった」
しん、とした室内に、異母兄の淡々とした、だが、芯のある声が響いた。
「旭。観蛍会で、どうすればよい。話してみよ」
異母兄から、初めて名を呼ばれた気がする。
どこか嬉しい気持ちに頬を緩め、旭は「はい」と返事をした。
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