第30話 信じれば、よかった

「わたしは高等学校を退学させられました。その後、伽賀かが専属の弁護士がやってきて……。わたしに訴訟など起こさない旨の宣誓書にサインしなさい、と言うのですが」


 あさひは、そこで一度、息を整えた。


「変だな、と思いました。てっきり、財産放棄の書類だと思っていたので。文書を見て、気づきました。なんのことはない。わたしは、養子になどなっていなかったのです。ですから、わたしには、引き継ぐべき財など、初めからなかった」


「……え?」

 美月みつきが息を呑むが、旭は力なく肩を竦めるだけだった。


「母が、唯一望んだことを……。あの男は平気な顔で、無視したのです。クズ以外の何者でもない。わたしのなかで、踏ん切りがついたのは、その時でした。伽賀ではなく、梅園うめぞのの名で生きて行こうと、決断が出来ました」


 ですが、と旭は口端に苦い笑みを浮かべた。


「‶梅園旭〟には、なにもない。当初、働き先を見つけるまでは、学友を頼ろうと思ったのですが、それも父や異母兄からなにか吹き込まれたのか……。けんもほろろで」


 ふふ、と旭は笑う。


「男の友情だなどと言っても、権力の前ではもろいものです。そのとき、ふと、睡蓮すいれんさんの……、先代の顔が浮かびました。『なにかあったら、ぼっちゃん、いつでもうちの家に来なさい』と、言ってくださったことを頼りに、せめて手土産でも、と離れを出る前に作ったのが、あのしょうゆ饅頭だったんです」


「そう、だったんですか……」


 呟いた後、夜の闇より重い沈黙が降りる。

 居心地悪く身じろぎした後、美月は上目遣いに旭を見た。


「もっと早く、いろいろうかがっていればよかったですね。そんな事情があったのに、私、最悪なことを提案しました……」


 結婚の件で追い出された男に、偽装結婚を申し出たのだ。


「いえ、そんなことはないんです。今回のことはすべて、わたしが悪くて……、というか。ことの次第が露見して……」


 旭はスラックスごと、拳を握りしめた。


「あなたが離れていくのが怖かった」

「……私が?」


「学友たちのように、離れていかれたり……。逆に、彩女あやめのように近づいてこられるのも恐ろしかった。わたしではなく、わたしの名によって、変化するのを見る勇気がなかった。わたしはただ、あなたを信じていればよかったのに」


 旭はゆっくりと顔を上げる。


「この話をきいても、きっとあなたは変わらない。最初に言った通り……。『祖父のお菓子が好きな人は、いいひと』とわたしを判断した通り、その後なにも変わらないはずなのに」


 旭は苦し気に呻いた。


「それを、信じればよかったのに。ただ、怖かった。自分の判断が、怖かったんです。信じ切る勇気がなかった。

 それで、いつまでも、ぐずぐずと、この幸せをただ、手放したくなくて……。ずっと、言えずに……」

 目に浮かびそうになる涙を堪えるように咳ばらいをすると、旭は美月を見る。


「お願いがあるんです」

「は、……い」


「前にも申し出たように……。わたしは、偽装ではない婚姻を美月さんと結びたい。こんな……、その、無一文で、なにもない男ですが、あなたを絶対に幸せにすると誓いますし、菓子作りの腕も磨きます。もう、あなたに対して、なんの隠し事もしません。……その、どうでしょうか」


 苦し気に、だが、胸を張って旭は言う。

 美月はまじまじと、そんな彼を見つめた。


 ぬばたまの髪。すっと伸びた鼻筋。ぴしり、と張った背筋。広い肩幅。

 今はもう、伽羅きゃらの匂いなどしなくなった旭。


 右頬が、派手に腫れあがった旭。


 祖父の菓子が大好きな旭。

 美月の大好きな菓子を作る旭。


「旭さんは、伽賀のおうちに戻らなくていいんですか?」


 つい、尋ねてしまう。

 美月の気がかりは、それだ。

 彼は本当に、戻りたくないのだろうか。

 こんな、あくせく働かねば食べていけない和菓子屋になど見切りをつけて。


 だが、彼は不思議そうに目をまたたかせる。


「もともと、わたしは、梅園旭なんです。戻りません。わたしは、睡蓮で菓子を作り続けたいんです。あなたと一緒に」


 そうですか、と美月は言う。


 自然に。

 なんだか、顔がほころんだ。


 だったら、彼を守ってやらねば。


 美月は思った。

 彼の願いを、彼の作る菓子を守らねば。


 本当に、彼はいい人だ。

 美月が最初に抱いた通り。

 祖父が菓子を教えたいと思った通り。


 とても、いいひとだ。


 だから。

 そこにつけ込もうとする奴らから、守ってやらねば。

 美月にとっても、大事で、大好きな彼を。


「じゃあ、睡蓮を相続してください。それで、私と一緒にお店を経営しましょう。ずーっと」


「その……、それは」

 中腰になりかかる旭に、美月はにっこりと笑った。


「こちらこそ、末永くどうぞよろしくお願いします」


 言った途端、軽い衝撃が前からやってきて。

 視界が暗くなる。


 なんだろう、と目をまたたかせると。

 使い慣れた石鹸の匂いに包まれる。


「よかった」

 耳元で囁かれ、呼気が首元にかかる。


 ぎゅ、と。

 自分の背に回された腕に力を込められ。


 ようやく、自分が旭に抱きしめられていることに気づいた。


「大好きです、美月さん」


 首筋に彼の唇がふれたのでは、と思うほど、熱が身体中を巡る。

 抱きしめられた腕から、押し当てられた胸から。

 温かい力が伝播して、美月はいつしか右腕のしびれがないことに気づいた。


「旭さん」

「はい」


 少しだけ身体を離し、鼻がふれあう距離で返事をされた。

 彼がわずかに首を傾ける。


 さらり、と髪が揺れた。

 まばたきをした間に、彼の唇が美月の唇にふれようかと。


 したのだが。


「手の冷えが消えました。すごいですね、旭さん」

「…………………はい?」


 睫のふれあいそうな距離で、旭が怪訝そうに眉根を寄せた。


「なんか、信田しのだが言ってたんですよ。うちの家系って、悪意を拾いやすくて……。それで身体を壊して早死にが多いんですって」

「はあ……」


「だけど、旭さん、はじく体質らしくて」

「あの、状況わかってます、美月さん?」


「わかってます。旭さんに抱きしめられたら、手の冷えが消えました」

 きっぱりと答える美月に、旭は小さく息を吐いて苦笑いする。

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