第30話 信じれば、よかった
「わたしは高等学校を退学させられました。その後、
「変だな、と思いました。てっきり、財産放棄の書類だと思っていたので。文書を見て、気づきました。なんのことはない。わたしは、養子になどなっていなかったのです。ですから、わたしには、引き継ぐべき財など、初めからなかった」
「……え?」
「母が、唯一望んだことを……。あの男は平気な顔で、無視したのです。クズ以外の何者でもない。わたしのなかで、踏ん切りがついたのは、その時でした。伽賀ではなく、
ですが、と旭は口端に苦い笑みを浮かべた。
「‶梅園旭〟には、なにもない。当初、働き先を見つけるまでは、学友を頼ろうと思ったのですが、それも父や異母兄からなにか吹き込まれたのか……。けんもほろろで」
ふふ、と旭は笑う。
「男の友情だなどと言っても、権力の前ではもろいものです。そのとき、ふと、
「そう、だったんですか……」
呟いた後、夜の闇より重い沈黙が降りる。
居心地悪く身じろぎした後、美月は上目遣いに旭を見た。
「もっと早く、いろいろうかがっていればよかったですね。そんな事情があったのに、私、最悪なことを提案しました……」
結婚の件で追い出された男に、偽装結婚を申し出たのだ。
「いえ、そんなことはないんです。今回のことはすべて、わたしが悪くて……、というか。ことの次第が露見して……」
旭はスラックスごと、拳を握りしめた。
「あなたが離れていくのが怖かった」
「……私が?」
「学友たちのように、離れていかれたり……。逆に、
旭はゆっくりと顔を上げる。
「この話をきいても、きっとあなたは変わらない。最初に言った通り……。『祖父のお菓子が好きな人は、いいひと』とわたしを判断した通り、その後なにも変わらないはずなのに」
旭は苦し気に呻いた。
「それを、信じればよかったのに。ただ、怖かった。自分の判断が、怖かったんです。信じ切る勇気がなかった。
それで、いつまでも、ぐずぐずと、この幸せをただ、手放したくなくて……。ずっと、言えずに……」
目に浮かびそうになる涙を堪えるように咳ばらいをすると、旭は美月を見る。
「お願いがあるんです」
「は、……い」
「前にも申し出たように……。わたしは、偽装ではない婚姻を美月さんと結びたい。こんな……、その、無一文で、なにもない男ですが、あなたを絶対に幸せにすると誓いますし、菓子作りの腕も磨きます。もう、あなたに対して、なんの隠し事もしません。……その、どうでしょうか」
苦し気に、だが、胸を張って旭は言う。
美月はまじまじと、そんな彼を見つめた。
ぬばたまの髪。すっと伸びた鼻筋。ぴしり、と張った背筋。広い肩幅。
今はもう、
右頬が、派手に腫れあがった旭。
祖父の菓子が大好きな旭。
美月の大好きな菓子を作る旭。
「旭さんは、伽賀のおうちに戻らなくていいんですか?」
つい、尋ねてしまう。
美月の気がかりは、それだ。
彼は本当に、戻りたくないのだろうか。
こんな、あくせく働かねば食べていけない和菓子屋になど見切りをつけて。
だが、彼は不思議そうに目をまたたかせる。
「もともと、わたしは、梅園旭なんです。戻りません。わたしは、睡蓮で菓子を作り続けたいんです。あなたと一緒に」
そうですか、と美月は言う。
自然に。
なんだか、顔がほころんだ。
だったら、彼を守ってやらねば。
美月は思った。
彼の願いを、彼の作る菓子を守らねば。
本当に、彼はいい人だ。
美月が最初に抱いた通り。
祖父が菓子を教えたいと思った通り。
とても、いいひとだ。
だから。
そこにつけ込もうとする奴らから、守ってやらねば。
美月にとっても、大事で、大好きな彼を。
「じゃあ、睡蓮を相続してください。それで、私と一緒にお店を経営しましょう。ずーっと」
「その……、それは」
中腰になりかかる旭に、美月はにっこりと笑った。
「こちらこそ、末永くどうぞよろしくお願いします」
言った途端、軽い衝撃が前からやってきて。
視界が暗くなる。
なんだろう、と目をまたたかせると。
使い慣れた石鹸の匂いに包まれる。
「よかった」
耳元で囁かれ、呼気が首元にかかる。
ぎゅ、と。
自分の背に回された腕に力を込められ。
ようやく、自分が旭に抱きしめられていることに気づいた。
「大好きです、美月さん」
首筋に彼の唇がふれたのでは、と思うほど、熱が身体中を巡る。
抱きしめられた腕から、押し当てられた胸から。
温かい力が伝播して、美月はいつしか右腕のしびれがないことに気づいた。
「旭さん」
「はい」
少しだけ身体を離し、鼻がふれあう距離で返事をされた。
彼がわずかに首を傾ける。
さらり、と髪が揺れた。
まばたきをした間に、彼の唇が美月の唇にふれようかと。
したのだが。
「手の冷えが消えました。すごいですね、旭さん」
「…………………はい?」
睫のふれあいそうな距離で、旭が怪訝そうに眉根を寄せた。
「なんか、
「はあ……」
「だけど、旭さん、はじく体質らしくて」
「あの、状況わかってます、美月さん?」
「わかってます。旭さんに抱きしめられたら、手の冷えが消えました」
きっぱりと答える美月に、旭は小さく息を吐いて苦笑いする。
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