第24話 師匠と弟子の菓子

 腰にサーベルを佩き、ほこりひとつない漆黒の軍靴を履いている。帽子のつばが影を作り、顔の半分が隠れてしまっていた。


「はい。シャンパンと砂糖水になっていますが、どちらになさいましょう」


 青年が、帽子のつばを少し上げた。どきりとするぐらい整っている。彼はテーブルに並ぶカクテル・グラスを眺め、しばし黙った。


「では、シャンパンを」

 アルトの声は、非常に耳に優しい。


(こんな軍人さんもいらっしゃるのねぇ)


 美月みつきが知る軍人と言うのは、たいがい、もっと大柄だ。それに対し、彼はとても華奢で繊細だった。背こそ美月より高いが、それでもあさひより低い。


 近衛兵とかだろうか。


 見たことはないが、見目麗しい軍人たちが揃えられ、閲兵式では華を添えるのだそうだ。


 美月がセッティングを終えると、旭がシャンパンを注ぐ。


 銀盆に乗ったカクテル・グラスを差し出すと、彼は左手だけ白手袋を外した。これも、細くて器用そうな指だ。だが、ちらりと見えた掌にはしっかりとマメがあり、ははあ、と感心した。しかも、左腕の上腕筋がぴたりと軍服に沿う。動きに合わせて、鍛えられた筋肉が福の下で隆起したのだ。やはり軍人なのだ、と。


「なにか、わたしに言いたいことでも?」


 くくく、と喉を鳴らして笑われ、美月は目をまたたかせる。

 軍人が、片手にカクテル・グラスを持って美月を見ていた。


「あまりにその……。お美しくて。だけど、やっぱり筋肉質なところをみたら、ちゃんとした軍人さんなんだなあ、と」


 黒曜石のような瞳が、存外優しかったからだろう。するり、と口からそんな言葉が流れ出た。ぎょっとしたのは、数歩後ろにいる旭だ。


「これは、ご無礼を……っ」

 シャンパンの瓶をテーブルに置いて、慌てて進み出て来る。


「いやい、気になさらないでください」

 軍人は旭を制すると、白金色の液体の中で、ゆっくりと揺蕩たゆたう菓子を眺めた。


「私はこの菓子のようなものだ。見た目だけ重視される存在なのだから」


 微かに揺らしたのだろうか。

 細かい気泡が弾け、菓子が白くかすむ。


「見た目は大事ですし、演出もとても大切です」


 目を細めてカクテル・グラスを眺めている軍人は、ちらり、と美月にその瞳を向ける。長い睫毛に縁どられた、切れ長の目だ。美月は、その目に、にこり、と微笑む。


「その菓子はとても綺麗な姿をしています。カクテル・グラスの中に入れられ、シャンパンを注がれる、という演出や仕掛けを経て、さらに輝くように作られています。だけど」


 美月は、テーブルの上で順番を行儀よく待つ、菓子たちを眺めた。


「菓子にとって一番大切なのは、当然ですが、『食べておいしいこと』。わたしは、旭さんや祖父のお菓子を食べて、それを再確認しました」


 父の作る菓子。

 スマホにとられ、SNSであげられ、いいねがたくさんつく菓子。


 美月に継ぐことを強要した菓子。


 だが、美月にとってそれらは、ただの砂糖の塊であり、おいしいとも、また食べたいとも思える代物ではなかった。


「その菓子は、祖父が作り、旭さんがアレンジを加えた『にじしぐれ』です。見た目に気を取られますが、食べたら驚きますよ。とっても美味しい」


 ほう、と青年は口端に笑みをにじませる。


「軍人さんと同じです。見た目に惑わされるけど、本質はぶれてない」

 言い切る美月を、軍人はしばらく見つめていたが、ふふ、と笑み崩れた。


「なるほど、あの男が気に入るはずだ」

 ぼそりと呟くと、軍人はグラスを掲げ、美月と旭に会釈する。


「また、どこかで」

 そう言ってパラソルから出て行った。


「み、美月さん……」

 振り返ると、旭が額を押さえてくずおれている。


「寿命が縮みましたよ……っ。軍人さんに斬り殺されても仕方ないところでしたよ?」

「え。そうですか?」

 きょとん、と、軍人が出て行った先を見やる。


「そんな人に見えませんでしたが」

「見えなくても、軍人は軍人です。もと士族で、いまだに切り捨て御免のひともいるんですから」


 気を付けてください、と続けた旭の声は、華やいだ女性たちの声に潰えた。


「まあ、石崎男爵夫人。そちらは?」


 顔を向けると、母娘に数人の婦人たちが話しかけているところだった。

 みな、母娘が持っているカクテル・グラスに興味津々だ。


「きれい。宝石の欠片みたいですね」「お酒ですの?」「どこのお品かしら」

 母親と娘は交互に、上気した顔で応じた。


睡蓮すいれんの菓子ですのよ」「お日様の下でご覧になって、おばさま方。とってもきれいですの」「お砂糖水と、シャンパンがございましてよ」「あちらで、いただけますわ」


 ふんふん、と聞いていた婦人たちは、桜子が指さした途端、一斉に睡蓮のパラソルを見た。


「どうぞ、ご婦人方。とって喰われやしませんが、早く行かねば菓子を喰い損ねますぞ」

 石崎男爵が鷹揚に笑い、婦人たちはおっかなびっくりパラソルに入ってきた。


「いらっしゃいませ」

 旭が頭を下げた。途端に、婦人たちが扇を広げ、「まあっ」「美しい殿方ですことっ」とひそひそ話を始めた。


 美月は内心苦笑しながら、婦人たちに近づく。


「シャンパンと砂糖水がございますが、どちらになさいますか?」

 尋ねると、嬉しそうに顔を近づけ、どちらにするか姦しく相談し始めた。


(これは、時間がかかりそうだな……)


 そう思いながらも、笑顔を張り付けていると、どんどん客が集まり始めた。

 さばききれるだろうか、とちょっと焦っていると、最初に来た五人の婦人たちが、全員シャンパンでオーダーをする。


「かしこまりました」

 美月が銀盆の上にカクテル・グラスを乗せ、銀匙を添えた時だ。


「まあ、芍薬庵しゃくやくあんさんの仰る通り」

 後から入ってきた集団のひとりが、甲高い声で告げた。


「御覧なさい。さっき、野点のだてでいただいた上生菓子のあじさいとまったく同じものですわ、奥様」


「本当。芍薬庵の店主さんが、『睡蓮が菓子を真似て困る』と仰っていたのは、本当のことだったのね」


 パラソル内どころか、周辺にいた誰もが、発言主を振り返る。


 中年の婦人たちだ。

 格式の高い着物を着、髪を高く結い上げている。年齢に見合わない愛らしいかんざしが少々いただけない気もするが、そのかんざしさえ、随分と凝った作りになっていた。


 ただ、帯だけは年齢に見合った渋いもので、そこには袱紗と扇子が差し込まれている。


(このひとたち……)


 見覚えがある。

 睡蓮すいれんから芍薬庵に鞍替えした茶道の先生たちだ。


「皆さん。野点にいらっしゃれば、こんな偽物ではない、本物のあじさいが召し上がれますよ」


「まったく、厚かましい。わざわざ、同じ商品を出してくるなんて」


 カクテル・グラスに入ったあじさいを一瞥し、中年の女性たちは吐き捨てる。

 その剣幕に、誰もが肩を寄せ、顔を見合わせた。


あまねさんの言う通りだ)


 きっと、おなじ商品を出せば、睡蓮を貶めるだろう、と教えてくれた周。


 予想していたとはいえ。

 まさか、本当に言いがかりをつけに来るとは。


 怯むものか。たじろぐものか。

 恥ずべきことなど何もない。


 これは、祖父が作り、そして旭がアレンジした商品だ。


 美月は、ぐっと胸を張り、茶道の先生方を見据えた。


「睡蓮のあじさいは、祖父が作り上げたものです」


「その息子さんが、芍薬庵さんなんでしょう?」「真似るなんて」


 即座に言い放たれる。かっとなって言い返そうとしたが、一歩前に踏み出したのは、旭だ。


「睡蓮の先代は、わたしの師匠でした。ですので、芍薬庵の菓子職人とは、きょうだい弟子になります」


 静かに旭は言うと、茶道の先生方を見て、口端に笑みを浮かべた。


「先生方には、お初にお目にかかります。旭と申します」


 堂々と言い切られ、相手が若干ひるむ。旭は、ゆっくりと、だが、退かずに話し始めた。


「師匠から教わった菓子と言うのは、弟子にとっては絶対です。同じ味、同じ形、同じ趣向や意味を込め、師匠が作った通りのものを作ります。そして、それを次代につなげるのです。それが師匠と弟子というもの。芍薬庵さんと同じ、と先生方はおっしゃいますが」


 くすり、と旭は小さな笑い声を漏らした。


「それは当然というもの。芍薬庵さんとわたしは、同じ師匠を持っているのですから」


「それはそうよね」「睡蓮さんがおっしゃるのもわかるわ」


 五人組の淑女たちが、扇で口元を隠しながら、ひそひそと話し合い、それが漏れ聞こえた周囲の客たちも、同意の頷きを始める。


「で、ですが……っ。芍薬庵さんが招かれているのを知っていて、同じものを出すだなんてっ」


「まったく、なにを考えているんだかっ」


 周囲の非難がましい目を振り払うように、茶道の先生方が金切声を上げて糾弾した。


「同じものじゃありません。この菓子は、これで完成ではないのです」

 美月が即座に切り返す。


「祖父の作った上生菓子あじさいは、あくまで、抹茶と一緒に楽しむことを前提に作られています。なので、極力、抹茶の素材や香りを邪魔しないために……、まあ、私から言わせれば、ただ、甘さと見た目だけを優先して作られました」


 上生菓子の目的は、茶を楽しむため、だ。

 もっと茶が欲しいな、と思う寸前でとどめる。

 そのため、茶を阻害するような匂いがしたり、独特の味がするものは避けられる。


「だけど、このあじさいは、違います。うちの菓子職人の旭が作った菓子は、『にじしぐれ』と申します」


 いつしか、茶道の先生方にではなく、集まっているすべての客に美月は説明をしていた。


「祖父のあじさいは、中に白あん団子をいれておりました。この『にじしぐれ』は、中に透明な葛餅を。その周囲をさいの目状に切った、いろとりどりの寒天でくるんでおります。そこに……」


 美月はひとつ、カクテル・グラスを持ち上げた。 


 細く、華奢な脚を指で摘まみ、するり、と旭に差し出す。

 旭は西洋風に礼をした後、優雅にシャンパンをグラスに注ぐ。


 美月は、それを掲げる。

 きらり、と。


 屋外だというのに、わずかな陽光をとらえ、白金色の液体にほぐれた寒天が、様々な色を放ち始める。


「まあ、きれい」

 誰かが吐息をついた時だ。


「おお、なんだ、淑女がた。まだ召し上がっておられんのか」

 パラソルの中に、がしがしと入ってきたのは、さっきの父親。石崎男爵だった。


「うちの奥など、もうひとつ欲しい、とわしにねだりおりましてな。普段は、怒鳴りつけても、心の内を言わぬくせに。この菓子は相当気に入ったと見えた」


 はははは、と豪快に笑う。


「こんなに人だかりになっておるゆえ、これは厳しいか、と思い申したが。みなさんが手に取らぬのなら、妻のため、この石崎がいただこう」


 言うなり、美月の持っているカクテル・グラスを奪い取る。


 途端に、パラソル内で非難の声が上がった。


「まあ、なになさるの、石崎様!」

「男爵、わたしたちが先ですわ! 睡蓮さん、こっちにシャンパン5つ! 先に注文いたしましたわよね!?」

「男爵様、列に並んでくださいませ! ひどうございますわよ!」


 順番に。順番にお出しいたします、美月と旭が慌てて割って入った。


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