第17話 香り

美月みつきさん?」


 訝し気に問われたが、瞬きをする間に、彼女たちの姿は消えた。

 だが、妙な視線は相変わらずだ。


「いえ……、大丈夫です」


 ぎこちなく微笑む。あさひはなにか問いたげな顔をしていたが、結局は黙ったまま、美月の右手を握り続ける。

 

 じじ、と。

 火鉢の炭が熾る音以外、室内は静かなものだ。

 さっきまで、歯を鳴らして震えていたが、旭のおかげで随分と温かくなってきた。


(……ひょっとして、私の寒さがうつってないかな……)


 横向きに寝ころんだまま、すぐ側に座っている旭を見上げる。


 特に異変は見当たらない。

 美月の右手を両手で包み込み、心配げに見下ろしているだけだ。


「あの……、風邪とかだったら、うつるかもしれないので」

 遠慮がちに美月は申し出た。


 狐は『悪意だ』と言っていた。これが感染するのかどうかわからないが、旭にも害を及ぼすのなら、離れてもらった方がいいかもしれない。


『命まではとられへん』と狐も言っていた。一晩ゆっくり眠れば違うかもしれない。


「もう……」


 離れてください。

 口を開いたものの、ぐい、と顔を近づけられ、美月は息を呑む。


「他人にうつせば治りが早い、って聞いたことがあります」

 まじめな顔で言い切られる。


「ぜひ、わたしにうつしてください」

「いや、そんなこと言われても……」


 たじろぐと、更に強く右手を握られる。

 ほわり、と。

 熱が大きく流れ込み、同時に美月の心臓が、ぱくりと跳ねた。


「美月さん」


 上からのぞきこみ、呼気がとろけあう距離で名を呼ばれた。


 黒目がちな瞳はまっすぐに自分に向けられ、なにか異常があればいち早く見つけてやるとばかりに美月に注がれている。


 意外に広い肩幅や、ごつごつとした手首に、美月は身体中に緊張が走った。


(……ちょ、ちょっと離れてほしい……)


 うろうろと視線を彷徨わせていると、ちりり、と焦れるような視線をまた感じる。

 だが。


「心配なんです。あなたが……。あなたが、どうにかなったらどうしよう……」


 潤んだ声に、どきりとする。

 咄嗟に彼を見た。


 声だけではなく、目の縁にうっすらと涙が浮かんでいる。


「だ、大丈夫です。明日には元気になっていますから」


 なだめて見せるのだが、旭の目に浮かんだ涙は粒となり、頬をつるり、と滑って掛布団に落ちた。


「まだ、寒いですか? 辛いですか? なんなら、わたしが代わってあげたい」

 美月の右手を握りこんだまま、旭は目を閉じて自分の額に押し当てる。


「旭さんにうつすわけにはいきません」

 つい、口早に言うと、旭は目を開き、苦し気に唇を歪ませた。


「わたしはこう見えても頑丈なんです、安心してください」

 言ってから、ふと、何かに気づいたように目をまたたかせ、「そうだ」と呟いた。


「もっと近づけば、うつるでしょうか」


 言うなり顔を寄せて来るから、美月の顔が熱くなる。


 というか、首から上は本当にのぼせそうな感じだ。

 

 いつの間にか、視線は霧散していた。


 顔を逸らし、寝返りを打つ。

 美月としては、右手を引き抜くつもりだったのに。


 あろうことか、ごろり、と旭本体がついてきた。

 手を離してくれなかったのだ。


 上から覆いかぶされ、「うひぃっ」と小さく悲鳴を上げ、掛け布団の中に頭を引き込む。


「このままでもいいですか?」


 すぐ真後ろから声がする。

 首を竦めたまま、こわごわと視線だけ動かすと、旭が掛布団ごと、美月を抱きしめていた。


「なにもしません。このまま、じっとしていますから」


 静かに旭が告げる通り、彼は美月を腕に囲っているものの、それ以上動こうとはしなかった。


 じじ、と、また炭の火が爆ぜる。


 当初、硬直していた美月だが、次第に布団越しに伝わる旭の体温や、腕の重みに筋肉が緩んできた。


(あったかい……)


 ようやく、そう思えるほどの体温になってきた。

 ほう、と漏らした吐息にも、熱が混じる。


「あの、旭さん。……しんどくないですか?」

 なんとなく、美月は背後の旭に声をかけた。


 なにもしない、と言う通り、彼は美月が不安になるようなことはしない。身じろぎすらしないので、逆に心配になってくる。


「ぜんぜん。美月さんこそ。腕が重たかったりしませんか?」


 声は首の後ろから聞こえてくる。彼の吐息が首筋に入り、皮膚を撫でて温度を上げた。


「だいじょぶ、です」


 なんだか片言で返すと、「よかった」と、旭が言う。


 ぎゅ、と。

 更に抱きしめられると、その拘束感や、腕の重み。背後からの体温に、次第に美月はとろりとした眠気に絡めとられ始めた。


 無意識に少し身体を動かすと、美月の首に旭の顔が触れる。

 それほどの距離なのに、彼から香るのは、伽羅きゃらではなく、石けんの香りだった。


「伽羅のにおいが……、遠くなっちゃいましたね……。うちの石けんの匂いになっちゃった」

 眠いせいだろう。声も、ぼやりとまどろんだ。


「そうですか?」

 静かな低音が鼓膜をなぞる。


「ええ。ごめんなさい。せっかくの、旭さんのおうちの匂いだったのに……」


 寂しくないですか、と、美月は続けた。


「ぜんぜん」


 旭は答え、美月の首筋に唇を寄せた。


「わたしは、あなたの匂いと混ざりたいです」


 ふわり、と。

 眠りに落ちる寸前。


 美月は旭のそんな声を聞いた。

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