第16話 寒気
体調が変だと気づいたのは、その日の晩からだった。
眠っている最中に、急に目が覚め、違和感に右腕を見ると、勝手に鳥肌が立っていた。
次の日の朝は、開店準備をしている時だ。
視線を感じることが増え、周囲を見回すのだが、誰もいない。
そんなことを繰り返していると、寒気を覚えるようになった。
気づけば、客から、『今日はいい陽気だが、店の中にいると寒いのかい?』と問われ、なんのことかと思えば、
そうして。
二日目の夕方には、店頭に立てないぐらい寒気に震えていた。
『あとは、片付けるだけですから。美月さんは寝ててください』
何度か
その間、旭は明日の準備をするのだから。
まだ、夕飯の支度もしていないし、なんなら、洗濯ものだって取り込んだまま畳んでいない。『もう少しだけ』と言いながら、うろうろとしていたら、最終的に旭に腕を掴まれて、自室に放り込まれた。
『とにかく、じっとしてて』
珍しく、きつい語気で言われ、仕方なく美月は押し入れから布団を引っ張り出し、潜り込むことにした。
☨☨☨☨
「美月さん、
声をかけられ、うつらうつらとしていた美月は、瞼を開いた。
同時に、猛烈な寒気が身体中に走る。
呻きながら、布団の中で小さくなった。
寝間着でもなんでもない着物の上から、一生懸命右腕をこすった。少しは温かくなるかと思ったのに、冷気は一向に去らない。
「入るで、美月。うへえ」
障子が開き、顔をのぞかせたのは書生姿の狐だ。
布団から首だけ出している美月を見て、顔をしかめた。
「姉御が祓っても、まだ根を張ってたんか。こりゃ、あれやな」
言うなり、すたすたと歩み寄り、枕元で胡座をする。旭は困惑した様子で廊下に立ち尽くし、部屋に入って来ようとしない。
「右手出してん」
狐に言われるまま、震えながら布団から右手を出す。
狐は遠慮もなく、ぐい、と袖をめくる。
自分でもぎょっとした。
恐ろしいほど、びっしりと鳥肌が立っている。
顎をがちがちと鳴らしながら、なんとか左手も出し、こちらは自分で袖をめくる。
が、なんの異変もない。
「旭、悪いけど火鉢かなんか持って来て、部屋の温度上げたってくれへん?」
狐が首だけねじってそういうと、彼は返事と共に廊下を駆けだした。
「まあ、商売屋にはようあるし、お前の家系、全部これでやられてんねんけど……。誰かに悪意をもろたな」
「あ、悪意?」
寒い。
とにかく、寒い。
腕を布団の中に入れ、自分で自分を掻き抱いた。ついでに、腕を擦るが、一向に温まる気配がない。布団の中にいるのに、氷の中に放り込まれたような寒さだ。
「
尋ねられたものの、思い当たらない。
「身内の
がたがたと小刻みに震えながら応じる。
「うーん……。ほなら」
狐は手を伸ばし、美月の額に触れた。
「うひい! 冷たいっ」
「我慢せえ。目ぇ、閉じてん。最初に頭に浮かんだんが、お前を妬んでるやつや」
不満を堪えて目を閉じる。
途端に、脳裏に浮かんだのは、つい先日の風景だ。
往来で湯気が上がる
その傍で、しきりに旭に話しかけている婦女子たち。
「あ……」
知らずに目を開いた。
美月はあの時、「早く帰れ」と思いながらも、笑顔で「またのお越しを」と言った。
あの時、確かに睨まれ、悪口を言われた気配がある。
「呪いとか、そんなんじゃなくて、単純に悪意をそのまま、もろたんやろ。命を取られるとかはないけど、不快は不快やし。長く続けば、命は縮まる」
狐は美月の額から手を離し、腕を組む。
「姉御が祓ってもまとわりついてるんやから、よっぽど美月のこと、腹立ったんやろな。ま、数日寝込む程度やけど」
狐は背中を丸めるようにして美月の顔を覗き込んだ。
「しんどそうやし。ちょっと、祓ったろ」
言うなり、ふう、と美月に呼気を吹きかけた。
はっかに似た香りが美月の首筋を撫で、背中に流れ込んでいく。
清涼感を伴う気配は、美月の身体をめぐり、強引になにかをこそげ落としていくようだ。
だが。
ぞわり、と。
大きな手で撫でられたような気配に、思わず眉を顰める。妙な抵抗感。「ふう」と、もう一度吹きかけられると、その気配も去った。
「すいません、持ってきました」
もぞもぞと布団の中で身体をよじって、不快さを追い出そうとしていた美月だが、旭の控えめな声に、障子の方に顔を向けた。
「ありがとうな。こっちも終わった。もう、大丈夫やろ」
狐は立ち上がり、旭と美月を交互に見た。
「悪いけど旭。美月の側におったってくれるか?」
「もちろん、それは……」
勢い込んで旭が頷く。
「美月。旭がおったら大丈夫や。あったかくして、よう寝とけよ。ここんところ、疲れてたんもあるから、変なんんに捕まったねん」
そう言うと、「じっとしとけ」と美月を指さして念を押し、狐は部屋を出ていく。
「まだ、寒いですか?」
代わりに入ってきたのは、旭だ。
両手に抱えていた火鉢を部屋の隅に置き、灰に挿した火箸で炭の様子を確認しながらも、目線は美月に向ける。
「寒い、です」
寒くないです、大丈夫です。
本当はそう言いたいのだが、こらえきれない。
狐のお陰で、猛烈な寒さは緩んだが、それでも、凍える寒さに変わりはない。
布団の中で両掌をすり合わせるが、酷く冷えた右手に左手が触れるだけで、ぴりぴりする。
足を動かしたり、腕をこすったりしていたが、だんだんとそんな元気もなくなってきた。
寒い。
とにかく、冷える。
旭が火鉢を持ってきてくれたおかげで、次第に顔のあたりに暖気が集まってきた。
布団の中は凍えるほど寒いのに、首から上は妙な暑さで、美月は酔ったような気分になる。
「わたしの手の方が、温かいかもしれません」
布団の中でもぞもぞ動いていることに気づいたのだろう。
旭は火鉢から離れ、
(まだ、お風呂入ってないんだ……。入ってくれてもいいのに)
旭は、前掛けを外した普段着のままで、腰には角帯を締めている。
ああ、そういえば、夕飯の支度もしていない。
かちかちと小さく顎を鳴らしながら、美月は目線を上げた。
「私、今日はちょっと何もできませんが……」
不安そうな顔の旭が、美月の枕元に座り、手を伸ばす。
「手、出してください」
「……手?」
訝しく思うまま、美月は右手を出した。
ぎょっとしたことに、小刻みに震える手の甲にまで鳥肌が立っている。
「さっきまで、火の側にいたから」
旭は言うと、美月の右手を両手で握りしめた。
途端に。
湯を流し込まれたような。
そんな温かさが右手を伝って、心臓まで流れ込んでくる。
おもわず、ほう、と息を吐く。肩のこわばりが少しほぐれたようで、胸の痛みが和らいだ。
「あったかい」
唇から言葉がこぼれ出、ついでに笑みまで浮かんだ。
「よかった」
心底ほっとしたように旭は笑う。
その彼の肩口に。
美月は女客たちの横顔が見えた気がして、反射的に肩を強張らせる。
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