51 蛇剣衆頭領堂島豊 七

「なんだって……。声が出なくなった……?」

 豊は愕然と呟いた。

 木漏れ日に包まれる中で玲の顔は氷のように青白かった。明らかに元気がない。彼女は視線を地面に落としたまま小さく頷いた。

「そんな……」

「そうじゃ」玲の隣にいる蛇辻は答える。「彼女の強い神気とジャジャ様の蛇気がせめぎ合った結果、声を失ってしまったのじゃ」

「な、治るんですよね?」

 蛇辻は首を横に振った。

「……分からぬ。だが見込みは薄いであろうな」

「れ、玲。大丈夫か」

 と豊は聞いた。

 玲は困った様子で彼を見返す。

「とかく今はジャジャ様の元へ行こう」

 蛇辻の提案に、否定できる理由がなかった。

 牧田は遠巻きに見ているだけで、何も言わない。その視線は冷然としていて、急かすようでもある。




 黒蛇村があった場所には、とぐろを巻いた巨大な黒蛇がぴたりと収まっている。あの巨体の下には、押しつぶされた家々や村人たちが眠っているのだろうか。

 豊は陰鬱な表情で、崖の上からそれを見ることしかできない。

「ふん」牧田は忌々しく鼻を鳴らし、刺すような目線を豊に向ける。「お前に悲しむ権利はない」

 豊には返す言葉が見つからなかった。その通りだとすら思った。

 そんな豊に、玲は側に寄り添って手を握ってあげた。声が出ずとも、少しでも豊の心の負担を減らしてあげたかった。

 けれど玲自身もとても辛いはずなのだ。生まれ育った村が見るも無残な姿になって、その上声も出せなくなった。その全ての結果を招いたのは豊だ。だから彼女は豊のこと恨んでもいいはずなのだ。豊はそう思うのだが、玲はただ豊のことを心配するばかりで、それはとても心苦しかった。

「ジャジャ様、おはようございます」

 蛇辻がかしこまって挨拶をすると、黒蛇は頭を上げて目を開けた。

「貴様らか。……一人増えているな」

「はい。この男もジャジャ様の祝福を受けたいと仰っております。そうして、ジャジャ様の元で戦いたいと」

「左様か」

 鋭い眼光が牧田を貫く。

 牧田は片膝を突いた。

「はっ。私にも、祝福をお与えください。腕には覚えがあります」

「……よかろう」

 そう言うなり、ジャジャの口から一匹の小さな黒い蛇が這い出して、牧田の目の前に落ちてきた。

 ずるり、ずるりと細長い体を引きずって、蛇は牧田の口に向かって這い登る。

 牧田は受け入れた。

 苦しみ、悶えながら、それまで感じたことのない苦痛と屈辱を味わう。だがこれもジャジャを斬るためだと言い聞かせることで、牧田は耐えた。

「ほ」と目を丸くして驚いたのは蛇辻。「さすがは師範といったところか。祝福を受けながら自我を保っておる」

 事実、牧田は耐え切った。荒く呼吸をしながら、唾液が垂れて、汗を多量に流しているものの、その目には強い意思が宿っていた。

「我はこれより太陽を封じる」

 と、ジャジャは牧田の様子を頓着せずに言った。

「太陽を?」

 蛇辻が応じる。

「我は太陽が嫌いだ。明るく、傲慢で、最たる者だとふんぞり返っておる。故に封じる」

「……分かりました」

 返答を聞き遂げることなく、ジャジャは空に向かって伸び上がった。長大な体が高くそびえ立ち、白い雲を掴めるほどの高度にまで頭が達する。そうして、ジャジャはその大きな口をあんぐりと開けた。

 体の一部が丸く膨らむと同時に蛇気が強く大きくなった。それは寒気を感じるほど強力で、玲は己の体を思わず抱きしめた。

 鈍い豊であっても、何やら得体の知れない嫌な気配を感じ取って、知らず知らずの内に冷や汗をかいている。

 ジャジャの丸く膨れた部分は、上へ上へと登っていく。やがて頭部に辿り着き膨張したと思うや、口から数え切れないほど多量の黒い蛇がまるで噴水のように勢いよく飛び出てきた。

 青い空を食べていくが如く、黒い蛇が空を覆っていく。この世の物とは思えぬ悪夢じみた光景に、一同はただ言葉を失って愕然と眺める他にない。ただ一人、蛇辻だけがにやにやと不気味な笑みを浮かべている。

 ジャジャは蛇を排出し続けて、周辺の空は完全に黒に染まった。夜みたいに周囲は暗くなり、世がジャジャによって変貌していく始まりをまざまざと見せつけられたのであった。




 およそ一週間が経過した。未だにジャジャは蛇を出し続けている。星を完全に蛇で覆うまで止めるつもりはないようだった。

 焚き火の明かりを頼りに、豊は牧田に剣術の指導を受けている。

 その修行は恐ろしいほど苛烈であった。村を守れなかった悔しさ。ジャジャへの恐怖。それからジャジャを復活させた豊への怒りを全てぶつけているようだった。

 立ち合いの最中、木刀で強く打たれた豊は、地面の上に倒れ伏せた。頭からは赤々とした血が流れている。

 心配そうに見守っていた玲は、いてもたってもいられなくなって、豊の上に覆いかぶさった。涙を流しながら、きっと牧田を睨む。声を出せずとも、これ以上酷いことは止めてと、大きな瞳がこれ以上なく悲痛に訴えている。

 牧田は、ちっと舌を打った。

「……休憩だ。怪我の治療をしろ」

 そう言い捨てて、彼は近くの木にもたれかかった。

 玲は急いで処置に取りかかった。袖が赤く染まるのも厭わずに血を拭う。そうして森の中で見つけた薬草を擦り潰して作った手製の塗り薬を取り出し、傷口に塗ってやる。幸いにも見た目が派手なだけで、傷口は浅い。これなら血が止まるのも早いだろうと、玲は胸を撫で下ろした。

 治療を受けている間、豊は憮然とした様子で一言も発さない。そればかりか、ジャジャが復活したあの日から極端に口数が減っている。笑った顔も玲はずっと見ていない。いつも見せているのは暗い表情だけだ。

 治療を終えると、玲は豊と目を合わせ、にっこりと笑顔を向ける。すると彼は、心苦しそうに顔を逸らした。

 物悲しい気分になる。けれどそれも束の間の時間だけだった。豊は、不意に険しい顔つきとなって立ち上がった。

 どうしたの、と問いかけたくてもできない玲は、戸惑いの視線を送るだけだ。

「来たか」

 と今度は後ろから牧田の声がした。玲が振り返ると、音もなくふわりと影が降り立った。

 蛇辻蛇道である。

「敵が来たぞ」

 と、老人はにたりと笑んだ。

「やはりそうか」

 やにわに牧田が立ち上がった。やけに嬉しそうに声が弾んでいる。

「行くぞ。来い、豊」

 豊は進み出すと、玲は彼の右手を両手でひしと掴んだ。顔を向ける豊に対し、玲はいやいやをするように何度も首を横に振った。

「ごめん」

 と豊が呟くと、玲の手を振り払って再び前へ進み出す。玲はそれを見送ることしかできなかった。


 森閑とした森の中、豊たち三人は前方を睨んでいる。

「十人ほどか」

 牧田はそう言って刀を抜いた。

「うむ。儂の見立ても間違いない」

 蛇辻はいつも通り泰然としている。

 豊は緊張した面持ちで刃を引き出した。

 二人の得物はどこからともなく蛇辻が持ってきた代物だ。数打ちと呼ばれるいわゆる量産品だが、その割りに質は良い。

「くく、いよいよこの力を試せる時か。豊相手では役不足であったからな」

 牧田は楽しそうである。そうして、全身に蛇気をみなぎらせている。

「お二人の蛇気を試す絶好の機会となりましょうな。ジャジャを討つためにも扱いに慣れておかなければなりませぬ。修行によって幾ばくかはこなれましょうが、やはり実戦における経験は何物にも変えられませぬ」

「その通り。己がどれほどでき、どれほどできないか。それを把握しなければならぬ。……先手は俺で構わぬな?」

「もちろんでございまする。儂は主に撹乱させておきましょう」

「……分かりました」

 牧田は豊が返事をしている最中に動いた。真後ろに刀を大きく振りかぶり、蛇気を高める。

「蛇剣術、大蛇破」

 牧田は解き放った。大きな蛇の姿となった蛇気が木々を薙ぎ倒しながら駆け抜ける。

 悲鳴が上がった。十人いた刺客たちの内、五人が餌食となった。

「おお」

 驚きの声をあげたのは牧田自身。己の腕を見て、なおも湧き上がってくる凄まじい力に感銘を受けずにいられない。

「感激に浸っている場合ではありませぬ」と蛇辻が釘を刺す。「残りも全て殺さなければ」

「うむ」

 牧田は興奮を抑えられない。言うが早いが真っ先に走り出す。

「さあ、豊も」

「……ああ」

 豊もまた刀を握り締めて、敵を屠るべく駆けた。


 戦闘は終わった。ものの一時間もかからなかった。蛇辻が敵を逃さないように立ち回り、牧田は圧倒的な力で四人の敵を一刀の元斬り伏せた。刀で受けられても刀ごと断ち斬るほどだ。豊も一人斬った。蛇辻がお膳立てした上でだが、頭部を二つに分けた。

 泉に戻ると、牧田は興奮冷めやまぬようで、素振りを始めた。自身が発した凄まじい力に当てられたのか、「素晴らしいな、この力」などと血走った目で独り言を呟いている。

 それを恐ろしいものでも見るような目で見ていた玲は、豊へ視線を移した。彼は木の根っこに座って、自分の掌を見つめている。玲は恐る恐る近寄った。見れば顔に返り血が付着している。懐紙を取り出して拭ってやると、豊は顔を上げた。ここでようやく玲の存在に気づいたらしい。

「玲か」

 と低い調子で呟いた。玲はこくりと頷く。

「人を、一人、斬ったよ」

 もう一度頷いて返す。

「変なんだ」

 最近としては珍しく多弁である。それが嬉しいような怖いような心持ちを抱きつつ、玲は首を傾げてみせた。

「何も思わないんだ。人を殺した怖さを感じない。罪悪感を感じない。あいつみたいな喜びもない。おかしいだろ? 初めて人を殺したってのにさ」

 玲はそっと両手を差し伸べて、豊の右手を包み込んだ。彼の手は冷水に浸したみたいにとても冷たかった。

 すぐ近くでは、笑みを浮かべながら素振りをしている牧田の姿がある。蛇辻は平素のままだ。

 ジャジャを斬るためにジャジャを守る。

 恐ろしい矛盾。

 玲は嫌な予感に打ち震えながら、豊に微笑みを向けた。

「……なんで笑えるんだよ」

 豊は独りごちた。




 それから十年ほど時が経過した。

 豊と玲は月に一度祝福を受けた。力のためというよりも、ジャジャと同じ寿命を身に着けるためである。その後遺症か、二人の瞳や頭髪が白くなってしまっていた。

 牧田が追加の祝福を受けることはなかった。そのため、肉体の老化を止めることはできず、徐々に衰えていった。それでも通常の人間の老化よりもとてもゆっくりであるが、それでも豊や玲のことを羨ましそうな目で見てくることがある。それは酷く不気味で、玲などは怖気を感じるほどだ。

 ジャジャを狙う襲撃は幾度も起きた。そうしてその度に返り討ちにした。また、それに比例して仲間が少しづつ増え、中には祝福を受ける者さえいた。

「大蛇破」

 豊が発動させたその技が木々を呆気なく薙ぎ倒すのを見て、牧田は凶悪な笑みを浮かべる。

「そろそろ頃合いだな」

「いよいよ、ですか」

 牧田と豊とで頷き合った。具体的な言葉を言わずとも分かる。ジャジャを討伐する時が来たのだ。

 空を封じるのに力を使い続けているジャジャは今や復活当時よりも縮んで弱体化している。また牧田の力が弱くなりつつある今、これ以上時間をかけるわけにはいかなくなった。

「俺の方からみなには言っておきます」

「任せた」

 豊の提案に牧田は頷き、笑みを浮かべた。高揚感を押さえられないようである。

 しかし、彼が戦う目的が今では変質していることを豊は知っていた。

 村を滅ぼしたジャジャは、当初こそ憎き敵である。村の敵を討つことが牧田の悲願であったことは間違いない。だが今ではそれは言い訳でしかなくなった。彼は何よりも力を欲している。圧倒的な力で敵を蹂躙することに喜びを見出している。そのため彼はジャジャを殺しジャジャの力を手に入れることが、復讐よりも重大なのだ。

 豊は冷ややかな目で力に魅入られた牧田を見据えていた。


 そうして、その夜のことである。

 木を組んで作り上げた小屋が森の中に建てられている。人が一人寝れるだけの広さがあり、そこには粗末な布団が敷かれ、牧田が眠っていた。

 何者かがそっと近寄って、音もなく侵入する。手には刀が握られており、その目線は横になっている牧田に注がれていた。

 いかなる逡巡か。幾ばくか間が空いてから、侵入者は刀を振るった。

 瞬間、牧田は跳ね起きた。懐から小刀を抜いて侵入者の刃を受け止める。 

 間近に迫った刺客の顔を見た牧田は、目を見開いて驚いた。

「貴様! 豊っ!」

 返答とばかりに、うっすらと笑う侵入者、豊。

「なぜだ!」

 と問う。

「ジャジャに死なれるわけにはいきませぬ」

 豊の声は酷く暗い。

「それをなぜだと問うているのだ!」

「ジャジャが死ねば玲が死にます。玲を死なせるわけにはいかない」

 答えるや否や、豊は背後に飛んで小屋の外に出た。間髪入れず、牧田は自分の刀をひしと掴んで追いかける。

 小屋から出ると、豊は暗闇の中で待ち構えていた。その隣には、蛇辻が立っている。

 牧田は刀を抜き払い、鞘を投げるように手放した。

「蛇辻! 貴様の差し金か!」

「いいえ。全ては豊の意思。儂は見届けるためにいるだけのこと。手出しはせぬ」

 ぎり、と牧田は歯を軋ませて豊を睨み付ける。

「逃げなくて良いのか? まともに戦っては俺に敵わぬと見て寝首を狙ったのだろうが?」

「違います。師範、あなたは俺に剣を教えてくれました。おかげで強くなることができたのです。そのことに恩を感じているからこそ、最も苦痛を味合わせない方法を選んだのです」

「貴様如きが俺に勝てるとっ」

 凄まじい怒気が放たれた。だが豊は平然としている。

 不意に牧田は周囲を見回した。闇が覆っているため視認できないが、周りを人で囲っている気配がある。

「ふん。やはりな。数に頼もうという魂胆か」

「いいえ。これはあなたを逃さないための囲いに過ぎません。決して手出しさせませんので、ご安心を」

「なんだと」

 舐められている、と牧田は感じた。怒りはますます膨れ上がり、蛇気が全身から滲み出るようだった。

「もう許せぬぞ。貴様は殺す」

 牧田は大きく後ろへ振りかぶった。刀身に莫大な量の蛇気が集まっていく。

 対して豊は自然体。蛇気を高める気配すらなく、それが余計に牧田を苛立たせた。

「づあっ!」

 牧田は裂帛の声と共に渾身の大蛇破を放った。蛇の幻を見せるほど高濃度の蛇気が一直線に豊かに襲う。

「からみ」

 豊は大蛇破に合わせ、柔らかく刀を振るった。螺旋を描くような軌道を描き、大蛇破の蛇気にからんだ。

 刹那、牧田は見張った。強大な蛇気はあっさりと逸らされて、地面と激突して土煙を立てたのだ。無論、豊は無事である。いささかの傷も負っていない。

「馬鹿な」

 思わず呟く牧田。豊は目を細めて言う。

「大蛇破は、ジャジャのような怪物相手と戦うための大技。しかしその力は、人に向けるには強すぎる。……いかに強力な力であっても、力を逸されれば意味をなさない。昔、からみを教えてくださった時に師範が言った言葉です」

 牧田はたじろいた。確かにそのようなことを言った覚えがあった。だが今の今まで忘れていた。豊が指摘するまでは。

「ぬ、ぬぬ」

 牧田は悔しそうに呻いたと思うや、再び振りかぶって大蛇破を撃った。

「無駄です」

 そうして豊がからみで防ぐ。今度は遥か後方の蛇空へ飛んで行った。

「ぐ……が、あああああ!」

 牧田は大蛇破を連発する。

 だが豊は涼しい顔で全て逸らしていく。合間合間に一歩ずつ近寄ることを忘れない。

「あなたは蛇気による力に魅了されてしまった。今やあなたは力に溺れた剣士にすぎませぬ。もしも蛇気を手にしていなければ、この戦いは熾烈を極めたでしょう。しかし蛇気を力任せに放つあなたなど少しも怖くない。……そも今の俺は、蛇気だけならば、あなたを遥かに上回っている。そのことはあなたも重々承知しているはず」

「豊っ!」

 牧田は大蛇破を止めて、豊との距離を一挙に詰めた。振りかぶった刃には蛇気が纏っている。

「四の首」

 そう宣言して牧田は振るった。蛇気が三つに分裂し、見えぬ刃となって豊に斬りかかった。

「からみ」

 瞬間、四つの刃ごと絡みとられ、牧田の刀が弾き飛ばされる。

 驚愕の眼差しで豊を見る。豊は冷徹な目線を牧田に注いだ。

「お覚悟」

 そうして、牧田の首が斬り飛ばされた。


 翌日。夜の色をした朝がいつも通り今日も来た。

 太陽を最後に見たのはいつだったろうか。そんな事を考えながら、目覚めた玲は蛇で埋まった空を見上げる。

 不吉な気配がして顔を向けると、豊がこちらに歩いてきた。どうにも様子がおかしい。どことなく剣呑な雰囲気が滲んでいる。

 玲は大きく口を動かして、おはよう、と言った。もちろん声は出ない。

 しかし豊は何も返さなかった。いつもなら、おはようと玲の好きな声で返ってくるのに。

 豊の顔は暗く剣呑で、まるで蛇の空みたいだ。玲は訝しげな視線を送る。表情は不安げだ。

 ややあってから、豊は、

「……師範が、牧田が死んだ」

 玲はぽかんと口を開けた。

「本当だ」

 と豊は付け加える。

 本当に牧田は死んだのだと、玲は思った。

 けれどあの牧田がそう簡単に死ぬとは思えない。そもそも、牧田は近い内にジャジャを討つつもりでいたはずだ。

 玲はつい最近牧田の口から聞いた覚えがあった。心の準備をしておくよう、そう言われたのである。ジャジャに祝福を受けたあの日から、いつだって覚悟はあった。

 しかし牧田は死んだ。戦力は致命的なほど低下したのは間違いない。ジャジャが討たれる日は気が遠くなるほど遠ざかったことになる。

 ここまで思考を進め、不意に玲ははっとした。証拠はない。けれど察してしまった。

 豊が殺したのだ。恐らくは、玲を生かすためだけに。

 牧田が黒蛇村の仇を討つのを言い訳にして、本当はジャジャの力を欲していたのを玲も知っている。それはきっと、蛇気という強烈な陰気が牧田を悪徳へと走らせたのだろう。

 ならば豊もまた悪徳に向かっていると考えるのが自然だ。そうして彼の悪徳は、玲を生かすことである。何を犠牲にしてでも、どのような手段を用いてでも、何がなんでも玲を生かすことである。そこに玲の意思は介在しない。誰が死のうとも誰を殺そうとも関係ない。玲を生かすためならば世界中の人間を殺すのもいとわない。そこには豊自身の命すら含まれている。そういう極めて独善的で危険な考えに、豊は至ってしまったのだ。

 玲は愕然として、豊を見つめる。

 豊は顔を逸らし、それ以上何も言わずに通り過ぎた。それが何よりも答えなっていた。




 玲が悪徳に走らないのは、玲自身が持つ神気がかろうじて蛇気を抑えているからである。

 だから玲は酷く悲しく、そうして罪悪感に囚われた。己のせいで、豊は牧田を殺した。そうして豊はこれからも人を殺し続けるのだ。ジャジャを守るために。それが玲を守ることに直結しているのだから。

 玲が苦悩している間に、豊と集めた仲間たちは蛇剣衆を名乗るようになった。蛇剣衆はジャジャと敵対する者たちを次々と殺害していった。そうして、長い時間をかけて蛇剣衆の下位組織を世界中で立ち上げていく。

 ジャジャの元にいるのがもっとも良いのだと、悪徳をなし、ジャジャに従え。それが最も幸福で最も自由であると。ジャジャに選ばれた優れた者には祝福がくると。そういう教えを広げていくのにも、下位組織は役に立った。

 とうのジャジャといえば、己の分体である黒蛇で空を埋めるのに大きく力を使い、そのせいで巨大であった体躯が随分と小さくなった。ジャジャはかつて己が封じられていた崖の洞窟を自身の住処として引き籠るようになった。力が弱くなったが故に、強大な何かに討たれる事を恐れたのだ。自業自得としか言いようがなく、呆れ果てた玲はため息さえ吐けないが、暴れ回るよりも遥かに良い。

 だが陰気である蛇気が世界を悪徳へ走らせて、荒廃していくのが目に見えて分かった。その現状をどうにかする手立てを玲は持たない。それでもどうにかしたいという気持ちは誰よりも強かった。

 だから、玲は決めた。

 彼女は黒蛇ジャジャの巫女として、世界中を廻り、人々を慰めることに。

 ジャジャの説得は筆談で行って許可を得た。巫女としての役割だと言うとあっさりと納得したのだ。どういうわけか蛇辻がおかしそうに賛同したおかげもある。ただ一人豊だけが反対したが、黒蛇の背に乗っていれば安全だと説き伏せた。

 そうして、御影玲は蛇巫女となり、表に出てこないジャジャに代わり、人々から崇拝されるようになったのだった。

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