35 蛇の槍 後編

 提灯を左手に持ち、右手で杖を突いてガス灯のない山道を下る老人の姿があった。彼の腰には納刀された刀が下げられ、老いた足取りは何とも頼りない。禿げた頭に白髪が申し訳程度に生えていた。

 その老人の背後に、さっと何者かが降り立った。

「蛇辻蛇道殿かえ?」

 老人は驚く様子を一切見せずに尋ねると、ふっふと微笑う気配が返ってきた。

「いかにも。元部阿蔵殿」

 それからようやく振り返る。

「いや珍しいのお。お主が動くのか」

「お主こそ」

「確かに。だが仕方なかろうて。数々の強者を破る腕前に、年甲斐もなく血が沸き立ってしまったのじゃよ。もはや居ても立ってもいられぬ」

「死ぬやもしれませんぞ?」

「どうせ村におってもいずれ死ぬ身。それが寿命であるならば、これほどつまらぬ死に方はないのでの。やはり強者との戦いの中死ぬのが一番じゃろうて」

「だが、それも叶わぬかもしれませんぞ」

「なぜ?」

「すでに今頃は惣兵衛と相対しているはず」

「なるほど。しかしあやつ腕は立つのだが頭が悪いではないか」

「それに」

「それに?」

「私も行きます故」

「ほお、やはりか」

「止めにならぬので?」

「お主を止められる者がこの世のどこにいるじゃろうて。そもそも問題はあるまい」

「と言うと?」

「剣宮辰也を破ったお主に勝負を挑めば良いのじゃ」

「もし、私を破ったら?」

「その時は、頭領に挑み、死んでやろうぞ」

 はっはっは、と元部は笑った。

「さすがでございますな。では、恨みっこなしということで、私は先に行きまする」

「うむ。儂はせっかちではないのでな。ゆるりと行こうぞ」

 その次の瞬間には、蛇辻の姿は跡形もなくなっている。

「ほんにせっかちよのお」

 のんびりした口調でそう言った後、元部はゆらゆらと歩を進めた。




 暗闇の中だった。

 生き物たちの気配が周囲から感じるが、じっと息を潜めているようだった。

 辰也の目の前には木が立っている。それはハナの桜色の光に照らされている。

 その木を避けて飛び出てきたのは槍であった。柄の部分で曲がりくねって襲いかかってくるそれは、まるで生き物みたいだ。

 もしかしたら本当に生きているのかもしれない。柄に使われているのは黒蛇ジャジャが脱皮した鱗で、そこに蛇気を流すことによって一時的に生を得ているのかもしれない。違うのは、それにはジャジャの意志が存在していないという点だろう。あるのは使い手である惣兵衛の意思。

 辰也は冷静に見極めて刀で弾いた。木に隠れているおかげで相手から見えない。だから容易に弾くことができるのである。これが相手から見えていれば、槍はさらに曲がっていたに違いない。

 惣兵衛はハナの光を頼りに攻撃してくる。息を吐かせぬ連続攻撃はまるで見えているかのようだ。

 しかし辰也は巧みに体を動かして木を盾代わりに躱していく。時にはハナで弾いてみせた。

 地の利を生かす。桃源島にいた頃は考えもしなかった発想だ。

 これは隠密が用いた地形を利用した戦い方を学んだ結果でもある。

 敵の戦法を盗むのは抵抗があった。正々堂々と真正面から戦うべきだと心の隅では思う。

 だが、今はなりふり構ってなどいられない。いられるわけがない。

 絶対に勝利する。その為ならば泥水も啜ろう。敵の戦法も使って見せよう。でなければ辰也に託して死んだ者に顔向けできぬ。破れれば全てが終わるのだ。青空を取り戻すことは叶わぬのだ。

 そう。だから、辰也はハナを鞘に仕舞った。

 桜色の光が消えた。

 遠くに見えるガス灯の火は背中よりも後ろにある。相手からは逆光となり、辰也の姿は見えなくなっている。

 それでも惣兵衛は攻撃を仕掛けてくる。狙いはほぼ正確。

 そこでさらに剣宮流錬気法薄氷を発動し、気を限りなく薄くする。

 以前戦った蛇剣衆ほどの隠密性はないが、それでも素人相手には気づかれない自信はあった。

 数歩動く。

 果たして惣兵衛に気づかれるか、どうか。

 蛇突きが繰り出された。木々の隙間を縫うように曲がりくねった槍は空を突く。同じ場所を幾度も突く。しかしそこは辰也が数歩前にいた場所だ。全て空振り。

 やがて攻撃は止んだ。次は一向に来ない。

 相手は見失っていると辰也は予測する。けれど捕捉しておきながら、あえて攻撃しない可能性を消しきれない。あるいは気づいていない振りをして、こちらが油断した頃合いを見計らっているのかもしれないのだ。

 辰也の隠業の技である薄氷は完璧ではないのである。そもそも音は消せない。足音を立てぬように慎重に移動するのが精々だ。気配に敏感な者ならば気づいてもおかしくなかった。

 一方辰也からは惣兵衛の姿が木の影に隠れ見えていない。幸いながら惣兵衛は気配を隠す術を持たぬようで、存在を感じ取ることはできる。だから居場所は分かる。辰也の有利な点ではある。

 辰也は柄に手を添えたまま慎重に歩を進めた。汗が頰を伝い顎に達して落ちていく。その僅かな音すら相手に聞こえていないかと冷や冷やする。

 背後に回り込んだ。惣兵衛の大きな背中が闇に紛れてうっすらと見えている。真正面を選ばぬことに罪悪感が湧いた。祖父がこの様を見たらどう思うだろうかと頭によぎる。怒り狂うだろうか。あの鬼のような修行の日々を思い出してぞっとする。

「どこだ! どこにいる!」

 惣兵衛が頭を振り乱して叫んでいる。

 辰也は柄を握りしめた。居合で、一太刀で屠ると決める。

 じり、と近づいて、間合いに入った。

 すると唐突に惣兵衛が振り返り、

「そこか!」

 と槍を繰り出してきた。

 刀で受け止める辰也。がっ、と大きな音が響き渡り、桜色に照らされた相手の無骨な顔が見えた。

「見つけたぞ!」

 惣兵衛は嬉しそうな笑みを張り付かせている。

 奇襲は失敗。しかし辰也はその事にどこかほっと安堵していた。

 それに結果としては上々だ。辰也の位置は刀の間合い。逆に長大な槍としては不利。

 けれど惣兵衛は槍を短く持って、棒術の要領で器用に取り回して攻撃を放ってくる。刀で応じる辰也。剣戟の音が鳴り響く。

 蛇突きを打ってくる様子はない。やはり距離が近すぎると無理なのだろう。あれは槍という間合いの遠さを生かした技だ。

 それを封じられていても惣兵衛の実力は見劣らない。刀の間合いで戦う事に慣れているのだ。さすがは祝福持ちの蛇剣衆と言った所か。

 辰也は集中する。

 同時に頭に激痛が走った。空の境地を一瞬だけ発動したのだ。けれどその一瞬間に、鋭利となった感覚が多量の情報を拾ってきた。そうしてその一瞬の情報で十分だった。

 意識せずとも辰也の体が動く。槍の一撃一撃を潜り抜け、桜色の刃が一閃した。

「ぐ」

 惣兵衛の胴に傷が入った。しかし浅い。致命傷ではない。

 辰也はなおも攻めた。防御に徹する惣兵衛。

 もう空の境地を使う必要はない。

 激しい剣戟の最中、気を集中する。

 辰也は袈裟懸けに振りかぶり、それを防ごうと惣兵衛が槍を斜に構えた。しかし刀は惣兵衛の槍を通過する。間違いなく刀は槍と激突するはずであったのに。まるで透明になったが如く。

 惣兵衛の顔面が驚愕で歪んだ。

「剣宮流錬気法」

 辰也の声が惣兵衛の耳朶を打つ。

「朧月」

 ハナが惣兵衛を袈裟懸けに裂いた。

「な、な」

 惣兵衛は後ろに下がった。血がだらだらと垂れ流れる。

 辰也はこれ見よがしに、ハナを空で振った。付着した血が飛び散った。

「ば、馬鹿な」

 惣兵衛には訳が分からない。

 なぜなら、惣兵衛の目にはハナが二つに見えていたのだから。

 一方は辰也が持っているハナ。もう一方は、ハナと瓜二つの刀で、ハナと同じ動きをしながら空中に浮かんでいる。だがよくよく見れば、霞を帯びて、向こう側が透けて見えていた。この空中に浮かんでいる刀は、気によって生み出した幻なのだった。

 よく観察すれば分かることだ。けれど激しい戦いの中でそれを見極めることは至難の技。土壇場の一瞬であればなおのこと。

「俺の力では刀だけが限界だがな」そう辰也が言うと、幻の刀が掻き消えた。「兄上ならば、己の全身すら幻にできる」

「く、くう……! へ、蛇突き!」

 惣兵衛は残された全ての力を振り絞って突いてきた。槍は不規則に折れ曲がり、うねる。

 空の境地を一瞬だけ発動させる。強い頭痛が走った。

 構わずに前へ駆ける。空の境地で槍の軌道は読み切っていた。擦りもせずに避けて間近に潜り込む。

 そうして止めとばかりに左胸にハナを突き刺した。切っ先は間違いなく心臓を穿っている。

 引き抜くと、絶命した惣兵衛がそのままずるりと崩れ倒れた。

 数歩距離を置いて、刀を納める事なく見下ろす辰也。

 その数秒後。頭部が槍のように尖った蛇が、心臓の穴から勢いよく飛び出てきた。

「ふん」

 鼻息を漏らし、ハナで薙いだ。切断された蛇の頭が遠くへと飛ばされたのだった。




 街道は再び森の中に入った。

 辰也は惣兵衛を破った後も休まずに進み続けている。その足取りは重い。

「辰也……今日はもう休もうよ」

 見かねたハナが提言する。

「あと……もう少しだけ」

 辰也はじっとりとした脂汗を流しながら呟いた。先ほどから頭痛が止まない。空の境地の影響だった。

 もう少し、と言うには長すぎる時間が経ってから、ようやく辰也は適当な木にもたれて座り込んだ。見るからに疲労していて、軽く呼吸が乱れている。

 辰也はいつも通りハナを抜いて、手入れを始めた。

「……今日はもう良いよ。私は常世桜様のおかげで錆びることはないんだから」

「そういうわけにはいかぬ」

 表情は浮かべなかった。手も止めない。

 そうして彩の形見である小刀も含め、手入れを終えた辰也は、すぐに寝息を立てた。

 何も言わずとも、ハナは周囲を警戒する。そうしながら、誰も来ないことを祈った。

 本心を言えば、もう戦って欲しくなかった。肉体の疲労に加え、精神も疲れているのが分かるから。きっともう限界に近いから。

 ジャジャとの戦いから逃げ出して欲しいとさえ思う。

 けれどそれができる訳がなかった。辰也はあまりにも色々なものを背負いすぎた。桃源島のみんな。辰也が斬った祝福を受けた普通の人たち。山辺彩。野木松吉に土倉平太郎。それからハナ自身。

 今ここで投げ出せば、花奈がハナになったことが無駄になってしまう。そう考えていてもおかしくない。

 だから辰也は戦いから逃げ出せない。蛇空を晴らせることにこだわり続けるのだ。

 せめて眠っている間ぐらいはそっとしておこう。辰也が自然と目を覚ますまで、起こすことはしないでおこう。

 ハナは穏やかに寝息を立てる辰也の寝顔を眺めていた。


 一日が経過した。

 街道は未だに森の中を進んでいる。

 そうしてそれは、ある瞬間のことであった。

 ハナは違和感を感じたのだ。しかしそれが何か説明できない。

 考えているうちに、辰也は歩を進めていく。彼はどうやら何も感じ取れていないようである。

 森の中は同じような風景が続いていく。延々と続いている。いつまで経っても終わりが見えない。植生すら変わらない。ひたすらに同じような風景だった。

 同じ、同じ。いつまでも同じ。

「辰也、変だ。何かがおかしい。……ねえ、そこの木に、なんでも良いから印を付けて」

「印?」

「今は深く考えなくていいから。お願い」

「分かった」

 辰也は、適当な木に×印を小刀で付けた。

「これでいいのか?」

「ありがとう。それじゃあ進んで良いよ」

 辰也は歩を再開させた。

 街道の上をひたすら歩く。

 すると、ばつ印が刻まれた木に出会したのだ。

「これは……」

 驚く辰也。

「やっぱり」対してハナは予想通りといった風に呟いて、「今度は逆方向に歩いてみて」

 辰也は何も言わずに言う通りにする。けれどやはり、ばつ印の木の元に辿り着いた。

 道に迷っている訳がない。なぜなら街道をまっすぐ進んでいるのだ。

 ならばと今度は街道を外れ、暗闇に包まれた木々の隙間を潜り抜ける。

 だがやはり、ばつ印の場所に戻ってくる。

「間違いない」深刻な声でハナは言う。「敵の攻撃だ」

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