33 桃源島事変 後編

 畑の間のあぜ道を、花絵と錬太郎が歩いている。

 牧歌的な風景は今危機が訪れているとはとても思えないほどのどかで、時折通り過ぎる人々はあまりにいつも通りだ。

 この光景を守りたいと花絵は思う。もしも桃源島が黒蛇に犯されて変わり果ててしまったら、帰ってきた辰也を悲しい気持ちにさせてしまうから。

 だからそのためにも、島に侵入した黒蛇は必ずや退治しなければならない。

 辰也の兄である敬也と、桜花一刀流師範の雅和は離れた所を歩いている。四人が連れ立って歩いていればきっと目立つに違いない。何よりも普段一緒に行動をしない四人が歩けばみんな不審に思うだろう。

「……あまり敬也たちの方を見ない方が良い。怪しまれる」

 錬太郎が小声で忠告する。

 はっとした花絵は、前を向き直した。

 島のみんなは黒蛇によって日々小さくなっていく青空に不安を感じている。その上さらに黒蛇が侵入したとなれば、もはやこれまでと諦める者も多くなるだろう。実のところ、毎日迫り続ける黒蛇の空に耐えかねて、すでに自殺者も出ているのだ。今いらぬ不安を駆り立てさせて、自殺者を増やす訳にはいかない。

 彼らにとって辰也は希望そのものだ。辰也ならばきっとやり遂げてくれると信じているから、みんな普段通りに過ごせている。

 辰也が背負っているものの大きさを想像するだけで、花絵は身震いするほどだった。

「それで気配はどうなっている?」

 と錬太郎が尋ねた。

「……もう中心部に近いよ。追いつく頃には、もう」

「そうか」

 錬太郎が何食わぬ顔で呟くのを、花絵は心痛な面持ちで聞いた。

 花絵は黒い気配の正確な場所まで分からなかった。あまりに気配が小さく、おおよその方向が分かるぐらいだ。

 そこでまずは村長宅の地図で夢と気配の方角を示し合わせ場所を見当し、二人一組で挟み込むように向かったのである。陰気の塊である黒蛇は太陽の光に弱いだろうから、本格的に動くのは夜であろうという目算もあった。

 しかしいざ目的の場所に向かうと、気配は移動していたのである。

 黒蛇の移動の手段に真っ先に思い至ったのは、かつて蛇傀列島に行ったことがある錬太郎であった。

 移動の正体は忌々しき祝福である。人に取り憑いて移動していると錬太郎が看破した時、花絵は思わず絶句した。

 そうして今は黒蛇を追って中心部に向かっているのである。

「心配するな」錬太郎は孫を慰める。「すでに剣宮家や桜花一刀流の手慣れが巡回しているはずだ。彼らならば大事になる前に防いでくれる」

「ですが……お姉ちゃんならもっとはっきりと気配を感じ取れたはず……私が頼りないせいで……」

「花絵がいてくれたおかげで、居場所の特定ができる。それだけでも意義は大きい。そも花絵がいなければ、すでに手詰まりになっていたかもしれん。さあ、しっかりせい。辰也の為にも島を守るのだろう?」

「はい」

 気を取り直した花絵はまっすぐ前を見た。

 そうだ。こんな所でくよくよしていられない。出来の悪い妹なのは承知している。けれどここで諦めては刀となった花奈にも顔向けできないのだ。頑張らないと。そう気合いを入れ直した花絵であった。


 花絵たちは中心部に着いた。

 屋台が数多く並び、今日も人が多い。

 だが気配は人混みの中に紛れ込んで、どこにいるのか漠然としている。

 果たして本当にこの中から見つけることができるのか。諦めるつもりは毛頭ないが、それでも花絵は不安になった。

「取り憑かれた者は挙動不審になっているはずだ」と錬太郎は言う。「ともかく足を使い探そう。近くに寄れば分かるだろう」

 花絵は同意して小さく頷いた。確かに近づけば気配もはっきりするはずだ。それがどれぐらいの距離かは経験の浅い花絵には分からないが、それならなおさら動かなければ見つけられない。

 そうして二人は人混みの中に入っていく。屋台に顔を出し、何食わぬ顔で陳列された商品を眺めることも忘れない。二人は遊びに来た祖父と孫であるという体裁を保つためだ。

 錬太郎に焼き鳥を買ってもらった花絵は、頬張りながら黒蛇を探す。しかし焼き鳥の味を楽しむ余裕はない。幸いにも周囲には、儀式への重圧と使命感、花奈や辰也がいないことなどの心労で本心から楽しめないのだろうと解釈してくれる。

 実際その通りで、花奈が刀になってから屋台に繰り出したのはこれが初めてだった。おかげで見るに見かねた錬太郎が花絵を連れ出したのだろうと思われて、みんな優しくしてくれるのが花絵には心苦しい。

 敬也と雅和はそれぞれ離れた場所で別行動をしていた。とはいえ、二人とも何かあればすぐに駆けつけられる距離を保っている。




 黒蛇に取り憑かれた女性は人混みの中を歩いていた。

 取り憑かれた直後とは違い、その足取りはしっかりしている。顔色は悪いが、傍目には黒蛇が取り憑いている様には見えない。

 ジャジャが特別に拵えたこの黒蛇は、桃源島に潜入し工作するための個体だった。特に人を操る力に特化しており、知能も高くしてある。

「幸恵」

 と後ろから声をかけられた。女性は後ろを振り返ると、同い年らしい若い男性がそこに立っていた。

「奇遇だね」と男性は微笑む。「今日は一人でどうしたの? 暇なら一緒に廻らないか」

 女性は婉然と笑った。

 いつもと違うと気づいたのか半歩後退る男性に対し、女性は距離を詰めて手を握りしめた。ひんやりと冷たい手は妙に力強い。

「ちょっ、どうしたんだ?」

 女性はまるで意に介さず彼を引っ張って、そのまま路地に入った。誰もいないことをちらりと確認した彼女は、男性を壁に押し付けてじっと目を見つめる。

 彼はたじろいだ。嫌な予感がしたのか視線を逸らす。しかし女性は両手で男性の両頬を挟み込み、強引に顔を向けさせる。

 そのまま口付けを交わした。

「……う」

 男性の口内に何かが侵入してくる。舌か、と彼は一瞬思うがすぐに違うと分かった。舌にしてはあまりに太く、ざらついていて、まるで生き物のように蠢いている。

「……お……が」

 それは喉にまで到達し、さらに奥へ奥へと進んでいく。食道を通り、胃に至る。

 苦痛で顔が青ざめて、声にならぬ呻きを男性は上げた。

 女性に取り憑いた黒蛇が、今度は男性の体の中に入り込んだのである。

 黒蛇はじっくりと体内を蹂躙し掌握していく。びくりびくりと震える体を、まだ支配下にある女性の体が押さえつけている。

 側から見れば恋人同士で熱い接吻を行っているようにしか見えない。たまたま目撃した十代の少女が、顔を真っ赤にしてその場からそそくさと離れた。

 そうして男性に乗り移った黒蛇は、前の宿主の体を背負って歩いていく。人気のない河原に着くと、橋の下に入って念入りに周囲を見回してから女性を川の中に横たわらせたのだった。




 つんざくような悲鳴が上がった。

 錬太郎と花絵は急いで向かう。そこは川であった。すでに人だかりが出来ている中を二人は分け入っていく。

 そうして驚きのあまりあんぐりと口を開く二人。

 女性の死体が川に浮かんでいる。杭に引っかかっているおかげで下流に流されずに済んでいた。

 同じく騒ぎを聞きつけた敬也と雅和がやって来て、錬太郎と三人で岸に上げてざっと検分をする。

 不自然なほど綺麗な死体だった。水の中にいた死体は時間が経つと水で膨らみ醜くなるが、ごく普通の体型のままである。つまり水の中に入ってから時間はそれほど経っていないのだ。それにこれといって目立った外傷もない。状況から溺死だろうか。しかし嫌な予感を禁じ得ない。

 花絵は死体に恐る恐る近寄った。男三人は彼女に気づくが何も言わない。

 青白い顔で花絵は死体を見た。あまりに綺麗な死体。表情も穏やかで、まるで眠っている間に亡くなったみたい。

 そっと手を差し伸べて頰に触れた。酷く冷たい感触。目を瞑り意識を集中させる。蛇気の残気が僅かながら残っている。

 嫌な予感は当たった。

 三人以外には聞こえぬようぼそりと花絵は呟く。

「黒蛇はここにいました。しかし今はもういません」

 表情一つ変えずに男たちはその言葉を聞いた。

「……俺が連れて行こう」

 と女性の体を抱き起こして担いだのは雅和だった。どこに、とは言わなかった。周囲の人々もそれに対して何も疑問に思わなかった。何しろ彼は桜花一刀流の師範。信頼されているのだ。

「……頼む」

 沈痛な面持ちで錬太郎は言った。

 黒蛇による犠牲者は少なくともこれで一人。いや、二人。

 これから相手するにあたり、刀で白昼堂々人の中に入り込んだ黒蛇を斬るわけにはいかない。黒蛇が島内に入り込んだと気づかれずに処分する必要がある。ならばこの中で最も役に立てないのは雅和だ。花絵のように気配を感する能力に秀でているわけでもないのだから。

 雅和が敬也に目配せすると、彼は鷹揚に頷いた。

 その頼もしさに思わず微笑してから、雅和は女性の体を連れて後を辞したのだった。




 男性は桜神社の近くまでやって来た。

 ここまでは順調すぎるほど順調だった。最初は女性に取り憑き、次に今の体に移ることができた。そうしてついに常世桜の付近まで近寄れた。

 だが足を止めた。視線の先にはいかにも護衛らしい者が数人いる。その中には隻腕の男、克也の姿もあった。

 暫く光のない目で茫漠と眺めていた男性は、突如、踵を返して引き返した。




 これ以上黒蛇の牙に島を脅かされるわけにはいかない。

 花絵は路地に入ると黒い気配を探ることに集中する。

 己の未熟が今ほどもどかしく感じることはなかった。一刻でも早く見つけ出さなければさらなる犠牲者が出てしまう。最悪、常世桜の結界が破られるほど弱ってしまうかもしれない。

 重圧で自然と強張った肩に、錬太郎の大きな手が優しく覆った。

「力を抜くんだ」その声は優しい。「お主ならできる。何しろ俺自慢の孫なんだからな」

「ですがお祖父様……私はお姉ちゃんのようには……」

「確かにお主は花奈とは違う。だがな、花絵よ。俺が見た所、花奈とは違う強さをお主は持っているよ」

「違う強さ……」

「花奈ならばもっと容易く気配を察することが出来たかも知れん。あやつも儂の自慢の孫なのだから。しかしな、あやつならばみなに黙って剣宮と解決を図ろうとするだろう。それで上手くゆけば良いが、無理であった場合後手後手に回り、犠牲者は増えていく。だがお主は真っ先に俺に相談し、剣宮家や藤堂と協力をすることができた。後はお主が落ち着いて気配を探れば、他の誰かが見つけてくれるだろう。さすれば姉よりも少ない犠牲で見つけることもできよう」

 錬太郎の指摘はその通りだと思った。確かに姉ならばそうしてもおかしくない。それは自分以外の誰も心配させないためであり、姉の優しさでもある。だが同時に弱点でもあった。

「……お祖父様、私、がんばります」

「うむ」

 満足そうに肯いた錬太郎は、手の中で花絵の強張りが取れたことを感じ取った。

「北の方角……今はそれ以上のことは分かりません」

「分かった。行こう」

 そうして二人は北へと向かう。

 敬也も付かず離れずを保つ。

 喧騒の中、ごちゃごちゃとした人混みを潜り抜けながら、砂粒のような気配を探す。

 今すぐ走り出したい気持ちが花絵にはあった。けれどここで不用意に目立って逃げ出されては困る。

「あ」

 花絵は不意に驚いて立ち止まり、錬太郎が怪訝な目線を送った。

「どうした?」

「常世桜様に向かっていた気配が逆方向に向き直りました」

「つまり常世桜様より離れていくと?」

「はい。しかし……どういうことなのでしょうか」

 花絵は首を捻る。

「あそこには幾人かの護衛を立てている。敵わぬと見て撤退したに違いない」

「撤退……今度は一体何を狙っているのでしょう」

「今は確定的なことは何も言えぬ。だが良からぬことを画策しているのは間違いない。引き続き探す他あるまい」

「はい」

 返事をし、花絵は気配がする方向へ足を動かす。

 気配も中心部に向かっている。

 黒蛇の目的は常世桜の弱体化に相違ないと花絵は考える。だから初めは常世桜を狙った。それは間違いない。けれど思わぬ警戒の強さに直接狙うのは諦めた。

 ならば次に狙うのはどこか。

 神気を持つ常世桜は、人々の陽気を糧にして維持している。つまり単純に考えれば、人々が陰気に染まれば弱くなるのだ。しかしたった一匹の黒蛇に出来ることは限られている。

 とすれば、より効果的で効率的な一撃を与えることを目的とするだろう。

 それは何か。

 と考えて、花絵はすぐに思い至った。

 巫女だ。

 常世桜は儀式によって力を一時的に強化することができる。そうして今は儀式をし続けることによって常時強化し続けている。

 儀式を行っているのは巫女。とすれば巫女の数を減らせば常世桜をより弱らせることができる。また、人が多く集まる場所で殺人が起きれば、人々の間に動揺が走り陰気が発生する。これもまた常世桜の弱体化に繋がる。

 花絵はごくりと喉を鳴らした。

 黒蛇が巫女を見分けられるのかは分からない。しかし今ここに巫女がいる。

「お祖父様」

 と、気づけば花絵は祖父を呼んだ。

「どうした」

「黒蛇の狙いは、巫女……つまり私です。だから、私が囮となっておびき寄せるのが得策と考えます」

「……気づいてしまったか……」

 錬太郎は悲しそうに目を伏せた。最愛の孫にその決断をさせるわけにはいかないと、黒蛇の狙いに関して濁したのだ。しかし己の孫は早々に見抜いてしまった。

「囮はだめだ」

 と真っ向から否定する。あまりに危険すぎる。

「ですが、他に余計な犠牲を出さずに済む案が思い浮かびません」

「襲われる前に始末すれば良い」

「不確定過ぎます。手をこまねいては犠牲を増やし常世桜様を弱くしてしまいます。ここはやはり私が囮になるのが最も効率的かと」

「そもどうのようにしておびき寄せると言うのだ? 黒蛇が気を感じ取れれば良いが、そうでなけれは分からぬのではないか」

「お祖父様も本当は分かっているんでしょう? 私が舞を舞い、即席の儀式を行えば良いのです。さすれば目立ち、私という餌に気づくでしょう」

「お前は餌ではない」

「はい。しかし、他に手はありません」

「……万が一ということもある。もしもお前まで失ったら……儂は……」

「あり得ません」

「なぜ」

「お祖父様と敬也様が守って下さるからです」

 真摯な表情で花絵は訴える。心底疑わないその瞳はらんと輝いていた。

 気圧されて言葉を失う錬太郎。強い意思を放つ彼女に花奈の面影が重なる。まだ幼いはずの彼女はいつの間にか大人びて、確かな成長を感じさせた。

 姉が刀となり、花絵が懐いていた辰也が死地に赴いたことで、内面に著しい変化が訪れたのは間違いがない。それを嬉しく思うべきなのか、悲しく思うべきなのか。長い年月をかけて積み重ねた経験を持つ錬太郎にも分からない。

 花絵の大きな瞳は真っ直ぐ錬太郎を射抜き、まるでまやかしに誑かせられたかのように、自然と首を縦に振っていた。

「ありがとうございます、お祖父様」

 花絵は彼女らしい溌剌とした笑顔を浮かべた。そこには些かの恐れも迷いもない。己が生き延びることができる確信を抱いている。実の祖父と辰也の兄が絶対に守ってくれるのだと信頼しきっているのである。


 先ほどまでの喧騒が静まり返っていた。

 桜花一刀流の門下生たちが広場で人並みを制御し、護衛も勤めている。

 何事かと集まった群衆は、輪をなしてその中央に注目していた。

 彼らが見ているのは小袖姿の花絵である。本来なら巫女装束に着替えるところだが、一刻の猶予もない。露天で買った白地に桜の花が描かれた扇子を手にしているぐらい。

 花絵は目を瞑って集中している。笛の音も、太鼓の拍子すらもない中で舞ったことはない。ましてや群衆の中で舞を披露したことも。そう言うことはいつも姉である花奈の役目だったから。花絵はいつも笛を吹きながらその姿を見つめていた。

 どくんどくんと心臓が脈打っている。

 緊張している。死の恐怖もあった。

 もちろん錬太郎たちが守ってくれると確信している。けれどそれでも万が一ということがある。

 その事を思うとやはり怖い。だけどそれよりも怖いのは、島が黒蛇に犯されて、荒廃して、それを帰ってきた辰也を見せてしまう事態を想像することだ。

 さぞかし悲嘆することだろう。もっと早くジャジャを討伐できていればと己を責めることだろう。

 それが花絵には怖かった。

 だから今ここで舞を舞う。

 深呼吸を一度する。

 右腕を水平に上げて、目を開いた。

 一歩踏み出す。

 大丈夫。音は頭の中で鳴っている。拍子は体が覚えている。

 ただいつも通り舞を舞えば良い。

 そうして花絵は舞い始めた。


 周囲を囲む群衆は早々に見惚れてしまった。

 花奈の優美な舞とは違う。技術はまだまだ拙く優雅さには欠けている。だがそれらを補って余るほど、力強く迫力がある演舞で、何よりも彼女の想いがひしひしと伝わってくる。彼女が誰のために舞っているのか分かるほどに。

 もちろん最初はあまり期待していなかった。姉である花奈の舞があまりに美しすぎた。妹の花絵はいつも笛を吹いていて、舞っている姿を見たことがなかった。おまけに笛も太鼓もない。衣服も小袖で巫女装束を着ていない。それで期待しようにも無理がある。

 なのに始まってしまえば評価はあっけなく覆った。音楽がないこともまるで気にならない。彼女は舞一つでこの場の空気を支配していた。

 

 花絵は舞いながらも黒い気配を探知し続けている。

 気配は目論み通り近くに来ていた。しかし襲ってくる様子はない。

 恐らく見つかるのを警戒しているのだろう。そういう知恵のある黒蛇だ。一人でも多くの巫女を殺害するために、なるべく見つからないようにするのが重要なのは花絵にも理解できる事。

 けれどその知恵は花絵たちにとっても都合がいい。

 予め取り決めた通りに花絵は扇子を投げた。その方向に黒蛇がいると伝えるために。

 そうして舞は終わった。

 群衆は一斉に拍手をして、汗だくになった花絵を称賛する。

 手を振って応える花絵は、呼吸を整えながら笑顔を振りまいた。

 錬太郎の指示で桜花一刀流の門下生たちが動いているのを横目で見ながら、花絵は歩いていく。

 後ろを振り返ると誰もついて来ていない。門下生たちが上手く誘導してくれているのだ。

 花絵は前を向き直して路地に入る。

 進むにつれて喧騒が遠くなっていく。

 足を止めた。

 前に人が一人いる。

 男性だ。蛇のような目。ふらついた体。青白い肌。口元から涎が一筋垂れている。

「きしゃあっ!」

 奇怪な叫び声を上げて、男性は花絵に襲いかかった。

 花絵は前を見続けている。

 彼女の後ろから人影が躍り出た。人影は刀が入ったままの鞘で、男性が振りかぶった手を止める。

「儂の孫に邪悪な手で触るなっ!」

 人影は錬太郎であった。蛇に取り憑かれた男性の人並み外れた力を見事に受け止めている。

 そうして錬太郎は前蹴りで相手の腹を蹴り飛ばす。ざっ、と音を立てて男性は後ろに飛び退った。

「ふしゅるるるる」

 男性は刀を持った男たち、すなわち桜花一刀流の門下生たちが花絵の背後を固めているのに気づいた。さらに自分と対峙している錬太郎はすさまじい力量を感じさせる。

 圧倒的な不利を悟った男性はすぐさま踵を返す。

 だがそこにもまた一人陣取っていた。

 剣宮敬也である。武器らしき物は持っていない。素手である。

 男性は後ろを一瞥した。多くの人がいる後方よりも、この得物を持たぬ男一人の方が逃げ出しやすい。そう判断して、男性は敬也に飛びかかった。

 しかし敬也は簡単にいなし、男性をうつ伏せに倒す。何をどうやったのか、花絵に分からぬほど一瞬の早業。さらに右腕を捻り上げて、動きを封じる。

 男性は凄まじい力を発揮してもがく。まるで子供が駄々をこねるようにじたばたと。

 だが敬也は涼しい顔で身動きを封じている。一見してそれは子供と大人。けれど男性の力は常人を圧倒する異常な力を発揮している。にも関わらず敬也は簡単に抑えてしまっている。

 その凄まじい力量に錬太郎はため息を漏らした。

 敬也は何食わぬ顔で掌を男性の背中に当てる。

「……取り憑かれた時点でこの男は事切れたか。これが、黒蛇の祝福か」

 敬也は呟いた。あの優しい弟が戦っているのは、このような敵なのかと。

「辰也よ」と敬也は続けて言う。「お主の重荷、少しは俺にも担がせてもらおうぞ。……剣宮流錬気法、花冷え」

 刹那、男性は静かになった。まるで暖かい日が続く中で、唐突に冷え込むように。

 ごばり。

 気色の悪い音を立てて、男性の口から真黒い蛇が勢いよく飛び出た。胃液にまみれた黒蛇は口から血反吐を吐き出して、びくりびくりと震えて身をよじり、やがて動かなくなった。

 敬也は体を離して立ち上がった。

 剣宮流錬気法花冷え。己の気を相手の体内に浸透させ内部を破壊する技である。敬也ほどの使い手となれば、自分の思い通りの場所を壊すことができる。敬也は黒蛇のみに気を当てたのである。

「さすが……」

 と錬太郎は戦慄と共に呟いた。

 花絵はしかし、その一部始終を見ていなかった。錬太郎に目を塞がれてしまっていたからだ。

「片付けよ」

 錬太郎が命じると、はっとした門下生たちがてぴぱきと動き出した。死体となった男の体を担ぎ、連れ出す。彼らの顔は青ざめている。仕方のないことではあるが、平和な桃源島にとってこのような有事は初めてなのだ。

 しかもその存在は知っていたが、一度として見たことのない剣宮流錬気法。その中でも特別に凄絶な技である花冷えを目の当たりにして、衝撃を受けていた。

 花絵の目から手を外された時には、死体も黒蛇もいなくなっていた。残っているのは錬太郎と敬也のみである。

「……黒い気配は消えました」

 と、花絵は言った。

 胃酸と血が混じった嫌な匂いを嗅いで、顔をしかめながら。

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