第2話 カレーの冷めない距離


(やっぱり懐かれちゃったか……)


 わたしの人柄というよりは、料理のせいなんだろう。

 すごくおいしそうに食べていたから。


 とにかく先日のお礼にと、お土産持参で、わざわざ訪ねてきてくれたのだ。


「まぁ、上がりなよ」


 そういうと嬉しそうに靴を脱いで部屋の中に入ってくる。

 それから少し鼻をひくひくとさせ、何とも言えない笑顔を浮かべる。


 だろうね。

 部屋の中いっぱいにスパイスの香りが広がっているし。 


「今日はカレーを作ったんだよね。良かったら食べてかない?」


 ちょっとびっくりしたような表情。

 それからすごく内面で葛藤しているのか、やたらと足元と天井で視線を往復させている。


 その間にわたしはさっさとカレーの支度を開始する。


 そんなつもりで来た事じゃないのは分かってる。

 図々しいと思われるのが嫌なのも分かっている。


 でもカレーの誘惑に勝てる人間はそうそういない。


「実は作りすぎちゃってさ。口に合えばいいんだけど食べて行ってよ。それにさ、一人で食べるより二人で食べる方がもっとおいしいと思うんだよね」


 お腹がグーと鳴る音が『いただきます』の代わりだった……



  📞 📞 📞 📞



 とびらが開いたとたんにふしぎな匂いがぶわっとあふれてぼくをつつんだんだ。とおい異国の、熱気をはらんだ風が吹いたような気がした。

 その風にまじっていた匂いがいま、ぼくのまえに置かれたまっしろな皿からぷうんと鼻をつついている。

 魔法がかかっていそうな、魔訶まかふしぎな匂い。

 おもわず顔をあげると、むかいに座った男のひとと目が合った。

 おんなじしろい皿と、かたわらにはぼくが持ってきた古ぼけたワインのボトル。たまたま拾ったボトルで、いつもの店に持ちこんでなにか食べものと交換してもらおうと思ってたんだけど、いいんだ。どうせ店のおじさんはいつもみたいに足もと見て、たいしたものをくれやしない。このひとに飲んでもらったほうがよほどいい。


 男のひとの皿にもやっぱりおなじごはんが盛ってある。ぼくがいつまでも食べないでいると、手本を見せるようにスプーンでひとさじすくって食べた。

 それでぼくも意を決してスプーンをにぎったけども、やっぱりあやしい匂いなんだ。ぼくたち孤児は、野生のけものの勘で、本能的にきけんを嗅ぎとる。ほとんど黒にちかいこげ茶のシチューがとびきりきけんな信号を発して、いけない、とぼくをとめるんだ。

 なのに男のひとは平気でぱくぱく食べて、ときどきぼくのようすをぬすみ見ている。

 あやしいシチューに副えられたお米はほくほく湯気をたてている。ひとつぶひとつぶがつやつやひかって、悪魔じみた魅力でぼくを誘う。それにシチューのなかにごろごろ転がっているのは、まぎれもないお肉。これを食べないなんて法はない。そうだよ、このひとがぼくにわるい魔法かけたり毒を盛ったりするわけないし。この家にいると、ぼくのきけん察知の本能はどこか遠くへ飛んで行ってしまうみたいだ。


 こわごわひとくち口にいれると、いくつものスパイスが喉から鼻へととおった。ひさしぶりのお肉がやわらかくて美味しくて、言葉にならない。お米はなんてあまいんだろう。シチューは舌にぴりりと来たけど、そんなこと気にせずばくばく食べて、おかわりまでしてもらった。

 ところがおかわりを待つあいだ、急に口から舌から喉から、そこらじゅうがひりひり焼けるような痛みがやってきて、おもわずとび上がってしまった。あわててコップの水を飲みほしたけど、そんなものじゃ効きやしない。全身から汗がごんごん流れ出て、はなみずなんかもずびずば垂れてきた。からだがへんだ。全身がかっかして、視界がかすむ。

 目から涙がにじむのに気づいて、はっとした。涙なんかもうずっと流したことがなくって、ぼくのからだに涙は一滴ものこってないんだって思っていたのに、まだのこってたんだ。悲しくても悔しくても出なかった涙が、からだの調子がおかしいからって出てくるなんて、ふしぎだな。


 にじんだ視界のむこうで男のひとはあわてる様子もない。毒でも入れた? なんのために? 信じてたのに。

 とじた目から涙がこぼれるのがわかった。やっぱりおとななんて信じるもんじゃないやってつめたく笑おうとしたけど、でも信じてたいんだよってどこかから声がしてうまく笑えなかった。

 汗と涙と洟みずをぼろぼろ流して、ぼくはもう目をあけるもんかと思った。


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