第4話  夏の終わり


 夏の終わり



       ※


 八月三十一日、金曜日。

 佐々原(ささはら)尚子(なおこ)。二十三歳。薄緑色の病院服に身を包み、病室のベッドの上で文庫本を読んでいる。恋愛小説。

「…………」

 病室は個室だった。窓の近くに尚子が今いるベッドが設置されているが、直接は日差しが当たらないようになっている。向日葵のカレンダーが壁にはかけられており、その横には正方形の時計があり、午後三時を少し回っていた。ベッド正面の台にはテレビがあるが、廊下の自動販売機で売っているコインを入れないと観ることができない。一応コインはテレビの横に積まれてはいるものの、この時間帯は観たい番組がないため、消してあった。

 長い髪を今は後ろで縛っている。こうして入院している以上、頻繁には髪を洗うことができない。そのため触れる度に油っぽいのがいやで、なるべく触れなくてもいいように後ろで縛っていた。

 すでに一か月以上、尚子はこうして入院している。その分、会社を休んでいることとなる。秋には退社する予定だったので、このままいくともう出社することなく退職となってしまうかもしれない。それは少し寂しい気もしていたが、こういう状態になったので『仕方がない』と自身ではすでに処理していた。

 ベッドの枕の傍には近くにはスケッチブックとペンがある。その近くに呼び出しブザーがあるが、今はこれといって用はない。最近は点滴もしないし、今日の問診はもう終わっている。

 退屈だった。

「…………」

 文庫本は主人公とその友人が冬の夜の海にやって来ていた。これといった会話があるわけでなく、ただ二人とも真っ暗のために音しか聞こえない海の方に顔を向け、湯気が立つ缶コーヒーを持っているところ。

 主人公は友人の恋人と深い関係となっていた。それを告白するためにこのようなシチュエーションとなのだが、ここにきて打ち明けることを臆しているのか、なかなか切り出すことができずに、ただ男二人で真っ暗な海を見つめている。

 遠くの方から汽笛が響いてきた。それを合図にするように、主人公は缶コーヒーを一気に飲み干し、重たかった口を開ける。

「…………」

 尚子はページを捲る。

 と、その時、病室の扉がノックされた。

「…………」

「……あの」

 引き戸の扉はゆっくりというか、遠慮がちに小さく開かれた。そうしてそこから日焼けした少女が顔を出すこととなる。

「……こんにちは。今いいですか? お邪魔します」

 病室に入ってきた少女は、ベッドの尚子が栞を文庫本に挟んでいるのを目に、どこか力のはいった、ぎこちない笑みを携えながら近づいていく。

 少女は白いシャツに赤いリボン、チェックのスカート姿。それは学校帰りに寄ったというわけではなく、少女にとっての正装がそれしかなかったので、こうして制服を着てきたもの。学校のない今日。八月三十一日。夏休み最終日ではあるものの、明日は土曜日である。

「その、お体はいかがですか?」

「…………」

 かけられた声に、尚子はにっこり。

 嬉しかった。尚子にとって、その少女は命を救ってくれた恩人だった。それは決して比喩なんかではなく、本当に目の前にいる少女が自分の命を救ってくれていたのである。でなければ、今頃尚子はこの世にはいなかっただろう。そう思うと、もう感謝してもしきれないほどだった。

 けれど、先月下旬に一度顔を見て以来、音沙汰がなかった。とても寂しい気持ちがした。できることなら、もう一度会いたかった。会って礼を伝えたかった。だから今日こうして会いにきてくれたこと、とってもとっても嬉しかった。

 尚子はベッドから下りようとする。お茶の準備をするため。

「…………」

「ああ、いいですいいです。あたし、やりますから。尚子さんは座っててください」

「…………」

 尚子の視界、制服姿の少女は電気ポットの前に立っている。そういったことに慣れていないらしく、随分がちゃがちゃっ音を立てながらも、お茶を淹れた。

 尚子は湯飲みを受け取る。夏だが、病室は冷房がきいているため、実に快適である。湯気が出ている緑茶を啜った。喉も渇いていたこともあり、とてもおいしかった。

 尚子は近くにあるスケッチブックを手にする。表紙を捲ってペンを握った。

「…………」

「あの、尚子さん」

 ベッド横に設置したパイプ椅子に座っている少女は、自分で淹れたお茶に口をつけていなかった。湯飲みを近くの台に置いたまま、膝の上で組んだ手に力を入れながら、顔を上げることなく口を動かしていく。

「あの、その……きょ、今日は、聞いてもらいたいことがあって、きました」

「…………」

「あの……」

 少女は、相手から何の返答もないことに強く胸を痛めながらも、決して視線を上げることはない。

「あの日、のこと、です……」

 七月二十八日のこと。

「あの日、その……あ、あたし、その、尚子さんの部屋にいって、それで……」

 七月二十八日、夜、少女は尚子の部屋にいき、そこで大量の血を流して倒れている尚子を発見した。救急車を呼び、一緒にこの病院までやって来た。翌朝まで手術の無事を祈って。

「あの日、その、なんであたし、尚子さんの部屋にいったかっていうと」

「…………」

「あたし、その……和兄(かずにい)に告白しにいったんです」

 少女の心臓が大きく脈打つ。とても苦しくなってきた。

「あたし、ずっと、和兄のことが好きで、それで……」

 小野田(おのだ)和人(かずひと)は、少女の気持ちも知らないままに尚子と婚約していた。秋には結婚式が控えている。

「そんなのいやで……その、ろくに気持ちも伝えられないまま終わっちゃうのがいやで、だから」

 あの日、午後十時という遅い時間だったにもかかわらず、少女は尚子の家を訪れた。翌日には少女にとってとても大事な試合が控えていたのに。

「あたし、尚子さんを発見して、救急車呼んでって……その、尚子さんの命を救ったってことになってますけど……」

「…………」

「本当は違うんです。そんなんじゃないんです」

 首を振る。唇を噛みしめて、まだ上げられない視線のまま、言葉をつなげていく。

 ここまで、ずっと相手から言葉を返してもらえないことに、とても気まずい思いを抱きながら。

「あたし、は……尚子さんのこと……」

 ごくりっと少女の喉が鳴る。視線はまだ上がらない。

「死んじゃえばいい、って思ってました」

「…………」

「尚子さんが死ねば、和兄は結婚しなくてもよくなる。そうすればもしかしたらあたしと結婚してくれるかもしれない。それぐらい和兄のこと好きだったから……だから、尚子さんのこと、死んじゃえばいいって思ってました」

「…………」

「部屋で見つけたとき、血がいっぱい出てました。絨毯なんかべとべとで。だから、そのままそうやって放置しておけば、絶対死ぬって思いました……いえ、それだけじゃないんです……」

 強く歯噛みして顔を強張らせながら、膝の上で組んでいる手がおかしくなるほど、力が入っていった。

「あたし、尚子さんの首を、絞めたんです」

 その両手で、尚子を殺すために、首を絞めていた。力を込めて、自分の得のために、その手を使った。

「首を絞めて殺そうとしました……でも、結局、そんなことできなくて……実際は首に触れただけで……あたし、そんな殺せるような勇気なかったし……」

 首を絞めて窒息させなかったからこそ、目の前のベッドの上にいる尚子の姿がある。今の少女にはとても目を合わせることができはしないが。

「……放っておいても死ぬのに、わざわざ自分がする必要もないと思ってたし……」

 病院に着くのが少しでも遅かったから、命はなかったであろう。そう医師は診断していた。それを少女は知っていた。『もう少し遅かったら』だけではなく、『もう少し早かったら』も聞いていた。

「だから、尚子さんのこと、何もせずに見てたんです」

 尚子が死んでいく姿を。すぐ前で、見下ろしながら。

「……あたし、ひどいんです。こんなにひどい人間なんです」

 強く組んでいた膝の上の手、そこから少しずつ力が抜けていく。それはまるで、一山越えたかのごとく。

「だから、あたし、尚子さんの恩人じゃないんです。そんなんじゃないんです。だって、あたし、尚子さんのこと、見捨てようとしたから」

「…………」

「殺そうとしたから」

 クリーム色のリノリウムの床を映す少女の目は、ゆらゆらっととても儚いように揺れていく。

「……でも、血でいっぱいの尚子さんのこと見てたら、不意に和兄の顔が思い浮かんだんです。いつも見てた和兄の顔。あたしがずっと追いかけてきた和兄の顔」

 最高の笑顔。

「そしたら、あたしは和兄のこと、好きだから、その……和兄に辛い思いさせたくないな、って。和兄に不幸になってもらいたくないな、って」

 少女は、その思いを貫くために、救急車を呼んだ。

「尚子さんのためじゃないんです。あれは、和兄のためにしたことなんです」

 和人のために尚子のことを助けた。それは決して尚子のためではない。

「ごめんなさい」

 少女は、鼻の頭の方が熱を持ってくるのを感じた。抑えようとしていた感情が込み上げてきたからである。

「ごめんなさい……」

 恥辱と思えるほど震えてしまった。そんなことしたからってどうにもなることではないのに、少女の声は大きく震える。

 感情が防波堤を破壊して世界に満ち溢れていった。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

 震える震える。少女の声が、少女の体が、少女の感情が、少女の心が、少女の存在すべてが震えていく。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

 少女は分かっている。ちゃんと分かっている。そんな言葉では、断じて犯した罪を消すことなどできない。けれど、その言葉以外に口に出せる言葉が見つけられなかった。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

 瞳が輝いている。溢れ出る涙は頬を伝わり、雫となって落ちていった。

「あたしが!」

 その責任を、少女はすべて背負い込んでいる。

「あたしがもっと早く通報していれば!」

 少女は、その業を一生抱えていく覚悟があった。

「尚子さんを救うことができたのに!」

 見下ろしているのではなく、もっと早く通報できていれば!

「尚子さん、声を失うことなんてなかったっていうのに!」

「…………」

「あたしのせいで!」

 座っていた椅子から泣き崩れていく少女。ばたんっと椅子が後ろに倒れていくのと同時に床に膝をつき、両手で顔を覆って嗚咽を漏らしていく。

「あたしが!」

「…………」

「あたしが!」

「…………」

 尚子は見つめる。床に崩れていった少女を見つめる。

「…………」

 目の前の光景、尚子の瞳には、か弱い少女が、ただ悲しみに暮れるように泣きじゃくっているように見えた。

 ただただ絶頂たる深い苦しみを自身に抱え込んで。

「…………」

 尚子は、声を失った。頭部に受けたあの日の衝撃により大脳が損傷し、失語症となっていた。相手の言葉ははっきり聞き取ることができるが、自ら発することができなくなっていたのである。

「…………」

 胸の前にあるスケッチブックには、『ありがとう』とある。さきほど尚子が書いた言葉が、それ。おいしいお茶を淹れてくれた少女に対するお礼の言葉。

 しかし、尚子はそれを胸に抱えたまま、ベッドの上で、ただただ泣きじゃくる少女の姿を見つめるのみ。

「…………」

 尚子は、もう少し遅く病院に運ばれていれば命はなかったとされていた。しかし、もっと早く治療を受けていれば、言葉を失うこともなかったかもしれないという診断も受けていた。

「…………」

 目の前で泣きじゃくる少女は、きっと今日までこの事実を一人で抱え込んできたのだろう。誰にも相談することもできず、ただ日々を自らの行いに対する罪悪に潰されそうになっていたに違いない。そう目の前の少女から感じられた。

「…………」

 尚子は、胸にずきっと痛みが走る。自分のせいで目の前の少女をこのような姿にしてしまったと感じた。

「…………」

 尚子はスケッチブックにペンを走らせる。その言葉をそこに記すことが、ここに尚子が存在する使命であるように。

「…………」

 スケッチブックをベッドに置き、尚子はベッドから下りる。そして、そこにうずくまっている少女のことを両腕で力いっぱい抱きしめた。

 まるで、寒さで震えている少女を温かく包み込むようにして。

 大切に大切に抱きしめていく。

 そうして、夏という季節がこの大名希市を通り過ぎていくこととなる。

 世界に吹いてきた涼しい風は、新たな季節をこの地に運んでくるのだった。


『ありがとう』

『ごめんね、好きな人取っちゃって』

『絶対、幸せになるからね』

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恋のみごろし @miumiumiumiu

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