第2話  終焉へと向かう日々


 終焉へと向かう日々



       ※


 五月七日、月曜日。

 長いゴールデンウイークが明けた。世間にはまた日常という日々が溢れることとなる。今朝は随分と多くの人間が、やって来た今日という日を恨めしく感じたことだろう。

 先月の下旬から急に暑くなってきたこともあり、周囲には半袖シャツの姿が目立つようになっていた。まだ五月なのに、連日とろけそうな暑い日である。

 午後六時。

「…………」

 藤木ふじき陽一よういち。二十二歳。大名希だいなき大学四年生。これまで何度か危ないことはあったが、それでも今のところ留年していない。大学に進学するのに一年浪人しているため、今年の誕生日、七月二日で二十三歳。

「…………」

 陽一とともに横に動く目の前の窓。その外にある、まだまだ明るさを失わない空をぼんやり見つめる。とても寒さなど感じることのない茜色の空。コートを羽織って震えていた冬の日はもうどこにもない。

 高架を走る電車、時間帯の影響であろうが、制服姿の高校生とスーツ姿のサラリーマンの姿がよく目立つ。陽一はそこにいた。

 今は着慣れないリクルートスーツ姿でありながら、ネクタイはすでに外している。その外したネクタイをしまっている茶色の鞄を肩からかけ、出入口近くの手摺に掴まっていた。

 車内は混雑とまではいかないまでも、座席は全部埋まっているため、陽一のように立っている乗客は多い。しかし、それはラッシュ時に比べれば大したことはなかった。立っている人と人との間には充分なスペースがあり、息苦しさがまるでないのだから。

「はあぁー……」

 陽一は視線を下げたかと思うと、無意識下で特大の溜め息を吐き出していた。ほぼ同時に、肩を大きく落としている。がっくりと落胆するような仕草。

(駄目だったー……)

 今日は大手電機機器メーカーの面接だった。陽一が現在大学四年生である以上、進学するつもりがなく、かつ、留年するつもりがないのなら、いやでも就職活動をしなくてはならない。そのために似合いもしない真新しいリクルートスーツに身を包んでいるのだが……溜め息が漏れていくばかり。それはもうやる瀬ないほど。

(絶対、駄目なんだろうなー……)

 陽一はすでに十社以上受けていた。筆記試験はどうにかパスするものの、面接がうまくいかない。これまで、まだ一度として第二次面接に進むことができていないのである。それほど『面接』という試験に苦戦しているというか、単純に合わないのである。人前で喋るということが。

(あーあ、なんで駄目なんだろう。毎回毎回、まったく……)

 がっくりと肩を落とす。その影響で随分と猫背になった。身長が十センチは縮んでいる。

 本日の面接を思い返してみても、反省する以前にどうしたらいいか分からなかった。長所なんてうまく説明できやしない。自分の駄目なところならいくつも挙げられるが、いいところなどなかなか思い浮かばない。ないところを無理して口にしたところで、そこを突っ込まれればうまく返すことができず、黙ることとなる。当たり前である。嘘なのだから。そうなると、面接官は苦笑しながら決まって『はい、もういいですよ』と口にする。

 結果、不合格。

 考えろと言われても、会社で何をしたいかなど考えられるわけがない。バイトならともかく、これまで陽一は一度も就職したことがないのだから。就職したら何をしたいか以前に、何があるのかすら分からない。予習というか、会社のパンフレットを見たところで、具体的な仕事の内容までは書かれていない。だからいまいち仕事に対するイメージができず、それでも形のない漠然としたことを口にすると、詳細を追及されてしまう。もちろんどんなものなのか具体的に分かるはずもなく、返す言葉を失う。すると『はい、もういいですよ』がやって来る。

 結果、不合格。

『はい、もういいですよ』

 不合格。

『はい、もういいですよ』

 不合格。

『はい、もういいですよ』

 不合格。

 さんざんだった。

 その度、深い溜め息が漏れていく。

「はあぁー……」

 世間ではゴールデンウイークが明けたばかりの、どこか落ち着かない日々なのだろうが、陽一はそんなことを感じているような余裕はない。暇もなければゆとりもない。なんといっても就職しなければならない。内定をもらわなければならない。そのために就職活動をしなければならない。試験を受けなければならない。苦手な面接をしなければならない。

 しかし、まったくうまくいかない。それはもう哀れなほどに。

 結果、不合格。不合格。不合格。不合格。不合格。

「はあぁー……」

 陽一の近くには背広を着込んだたくさんのサラリーマンと思われる人間がいる。それが今年になってやけに気になるようになった。どことなく疲れた表情で、ぼぉーと虚空を見つめている様子。

 そんな姿、陽一は不思議に思えて仕方がなかった。仕事で疲れているということは、ここにいる全員が、現在陽一が苦労して苦労してそれでも掴むことのできない就職活動の成功者であるはず。なのに、その疲れた姿からは到底そうは見えなかった。自分の方が遙かに優秀な人材のように思えて仕方ないのである。だからきっと、世の中には陽一の知らない就職必勝法が存在し、大部分の人間がそうやって楽して勤めているに違いないと、歪曲した考えがすぐ頭にぽんっと浮かんでしまうほど、今の陽一は腐りきっていた。

「はあぁー……」

 後日郵送されるのでまだ結果は届いていないが、きっと今回も駄目だろう。この前のも駄目だった。その前のも駄目だった。その前のも……そうやって何度も不合格を繰り返していると、まるで社会にまるっきり受け入れてもらえないような、生きているだけで駄目な烙印を押されている気がして、なかなか次の一歩を踏み出すことに躊躇するというか、頑張ろうという気力が湧いてこなくなる。

 少しずつ頑張ろうとする心を削り取られているみたいに。

 気持ちはめげる一方である。

「はあぁー……」

 走行する車内にオルゴールのような音楽とともにアナウンスが流れてきた。もうすぐ次の駅に到着することを知らせるものである。

 次は千根井ちねい駅。まだ陽一が下車する駅ではない。まだまだこの電車に乗っていなければならない。今はそれだけのことで溜め息が漏れていた。

「…………」

 電車はゆっくりと減速していき、多くの看板が設置しているホームへと入っていく。ゆっくりと停車して、ぷしゅーっとエアーの抜ける音ともに進行方向に対して左側の扉が一斉に開いていく。車内にいた一部の人間が降りていって、ホームで待っていた数人が車両に乗り込んできた。

 陽一はその人の流れを目にしながらも、その場から動くことはない。扉が開いた方とは反対側の出入口付近の手摺に掴まっている。

 もうすぐ扉が閉まり、電車は一度振動した。次の駅を目指してレールの上を加速していく。

(……っ……)

 それはまだ扉が閉まる前のこと。

 視界に映った光景に、陽一は意識的に瞬きをした。目に映ったものが頭に引っかかり、その引っかかりを決して軽視することなく、よーく目を凝らして確認してみることに。

(……あっ)

 引っかかりはすぐに解消された。視界には見覚えのある女性が立っていたのである。その存在に、陽一そのものが惹かれていた。

(…………)

 視界に映る女性。前に流れている髪は胸まで届いており、化粧はあまり濃くなくナチュラルなもので、着こなした黒色スーツ姿で今は手摺に掴まっている。ハイヒールはそれほど高いものでなく、吊り革の高さに頭があった。

(……佐々原ささはら……)

 姿を見るのは久し振りのことではあったが、その名前がすぐ思い浮かんだ。佐々原ささはら尚子なおこ

 四年振りの姿。

(…………)

 陽一の高校の同級生、尚子が一つ向こうの出入口付近に立っていたのである。今までそれに気づかなかったのは、きっと千根井駅から乗り込んできたからだろう。でなければ、陽一が気づかないわけがない。

(…………)

(……働いてるんだ……)

 視界にいる女性は同い年なのに、陽一よりもずっと大人に見えた。自分が知っているときよりも、また、今の自分と比較しても、尚子はずっと大人の雰囲気を醸し出していたのである。

(……凄い、な……)

 自分はまだ親の脛を齧っている学生で、就職もろくに決められない子供だというのに、視界にいる尚子の姿は、随分年上の女性に思えて仕方なかった。それぐらい、久し振りに見た尚子の姿は驚くほどの成長を遂げていたのである。しかし、それでもそれは尚子で間違いなかった。

(…………)

 とても懐かしい気持ちと、知っている人間が知らない大人になっている妙な驚きと、不意に訪れた偶然における戸惑い、それらを抱えた陽一を乗せた電車は、南北に敷かれたレールの上を走っていく。そうして三つの駅を通り過ぎていったとき、陽一が見つめていた尚子はこの車両を後にしていった。

(……ぁ……)

 北曽根きたぞね駅。そこで尚子は下車していったのである。

 ここはまだ陽一の降りる駅ではない。陽一はこの先の味米駅あじこめで下車するからである。だというのに、陽一は周囲の人間と同じようにホームに降りていった。そうすることが今の自分がすべきことであるみたいに。

 陽一は見知らぬホームに降り立ち、そのまま人がどんどん吸い込まれていく下りのエスカレーターに向かっていく。

(…………)

 ホームは高架の上にある。下りのエスカレーターを降りていくと、改札はすぐそこで、尚子が通り抜けていく姿が見えた。

(…………)

 陽一もエスカレーターを降りて、尚子が通り抜けていった改札の手前までやって来る。背伸びをして周囲に目を配ると、かろうじて尚子の背中を見ることができた。しかし、その姿は、改札の向こう側でどんどん遠くにいってしまう。どんどん小さくなっていってしまう。

 陽一はこの駅の改札を通るわけにはいかない。ここから五つ先が家からの最寄り駅だから。改札の手前で、常に動いている周囲の人の流れに抗うように立ち尽くすしかない。

 その目から小さくなった尚子の背中が消えていた。建物の陰に消えていってしまったのである。

(…………)

 周囲には人が大勢いるのだ、それ相当の喧騒があるはすなのに、陽一には世界がとても静かなものに感じていた。

 ただただ静かな場所で、自分がそうして立っていることも忘れ、改札の向こう側を見つめていて……そして、ゆっくりと後ろを振り返る。その足で上りのエスカレーターへと向かっていった。その時すでに、周囲の喧騒は蘇っていたのである。

(…………)

 エスカレーターを経て高架上のホームに到着。これは当たり前の話だが、さきほど陽一が乗っていた電車はもうホームからいなくなっている。他の客と一緒に次の電車を待つこととなった。

(…………)

 ここまでの行動、振り返ってみると自分でも不思議でしょうがなかった。なぜこの駅に降り立ったのか? そして、なぜあの背中を追いかけていったのか? 説明しようにも、自分ですら理解できていない。だからこその疑問である。

 さきほど、電車がこの北曽根駅に到着した。開いた扉から尚子が電車を降りていった。その瞬間、さもそうすることが当たり前のことのように、陽一は追いかけるようにして電車から降りていった。

 その説明がうまくつかない。考えてみたところで導かれるとも思えない。なぜ陽一はあんな行動を取ったのか?

 もしかすると、久し振りの再会をもう少し味わっていたかったかもしれない。追いかけていけばそこで何か起きるのではないかと期待したのかもしれない。けれど、さきほどの行動を説明するのに、どれも陽一にはぴんっとくるものはなかった。

(…………)

 電車はまだやって来ない。ホームで、正面にある薬局の派手は看板を見つめる。それは次の電車がやって来るまでのこと。電車さえきてしまえば、もうこれまで通り。あとは電車に乗って家に帰るだけである。

 見つめる。薬局の看板を見つめる。次の電車がくるまでは。

(…………)

 陽一は、尚子とは高校一年生のときに同じクラスだった。当時は『かわいい子だな』と思う程度で、そんなことよりも学校生活に慣れるので精一杯。そうしてあっという間に一年が過ぎていった。

 二度目の春となり、二年生になったとき、クラスが別れた。男子ならともかく、女子とクラスが別れると、交流がなくなる。『ああ、これで佐々原とも話すこともなくなっちゃったな』そう思った。そう思ったときに、尚子のことが気になっていたことに気づく。その日以来、強く意識するようになっていたからである。『誰かと誰かが付き合っているらしい』そんな噂を耳にすると、女性の方が尚子ではないことにほっと胸を撫で下ろしている陽一がいるのだった。

 なんとなく尚子に対する気持ちをうまく整理できないままに二年生の一学期を終えた。学校を失った生活では、すっかり尚子の姿を見ることがなくなり、そうして二学期を迎える。夏休みが明けてみると、尚子は別の男子と付き合うようになっていた。それがクラスの違う陽一の耳にも届いてきた。楽しそうに会話している二人を目撃すると、ショックだった。がっくりだった。心のとても大切な部分にぽっかりと大きな穴が空いたような気がした。喪失感はとてつもなく大きなものだった。

 陽一は、自分の気持ちもろくに伝えられないまま、退くしかなかった。そんな不完全燃焼のままに、とても大きかった気持ちに蓋をする。

 その後、三年生の二学期ぐらいに尚子が別れたという噂を耳にしたのだが、その時はもう受験生として勉強に忙しく、それどころではない。

 今にして思えば、陽一は結局現役では合格することができず、一年浪人したので、三年生の一年間を好きに使えばよかったと後悔していた。

 尚子に告白しておけばよかったと強く悔やんでもいた。

 しかし、当時は結局気持ちを伝えられないままに、気がつけば高校を卒業した。それから陽一は浪人生として予備校に通うことになる。尚子は短大生として新たな一歩を踏み出していた。

 卒業と同時に道をたがえたのだ、もう二度と交わることがないと思っていた。クラスが違ったから、同窓会にも参加することはできないのだから。

 それに、陽一が高校生のときに抱いていた尚子に対する淡い気持ちは、すでに奥底にしっかり閉じ込めていた。もう二度とそれを感じることがないだろうという寂しい気持ちを抱きながら。

 陽一にとって、尚子は、もう過去でしかなかった。過去で少しだけ擦れ違うことができた女の子としか。

(…………)

 ホームにアナウンスが流れ、陽一の前に赤色の電車が到着した。それにより目の前にあった薬局の看板が見えなくなる。これでもう、陽一はこの場所に立ち止まっている意味をなくした。

 出てくる人間と入れ代わるようにして車内に入っていく。空席が目についた。足早に向かって腰かける。

(…………)

 首だけ振り返って窓の外を見つめてみると、知らぬ間に薄暗くなっていた。さきほどまでは茜色が世界を染めていたのに、空には数少ない星が見えるほどである。

(…………)

 電車は動きだす。揺れる。揺れる。揺れる。揺れる。陽一を乗せた電車は小刻みな振動を繰り返していき、次の駅に到着する。また動きだして、次の駅に到着する。そうしていつくかの駅を通り抜けていき、ようやく味米駅に到着した。陽一の家の最寄り駅である。扉が開くと車両を後にして、高架上のホームから下りのエスカレーターを経て、改札に向かう。

(…………)

 なんとなく、気持ちが軽かった。今日も就職試験の面接がうまくいかず、もう立ち直れないほど深く沈んでいたのに、なぜだかそのときの足取りは軽く、どこか弾むようですらあったのだ。

(佐々原か)

 陽一の心には、燻るだけで終わった淡い気持ちが、あった。確かにそこにあったのである。もう二度と感じることのないものだと思っていたものが、いつの間にかその胸に蘇っていた。

 けれど、そんなもの、その時だけの刹那的なものだと思われたが……その気持ちこそが、その後の陽一の人生を大きく変えることとなる。

 そんなこと、この時の陽一には、まだ知る由もないこと。


       ※


 五月十四日、月曜日。

 ゴールデンウイークから先週にかけては、異常気象としか思えない気温の上昇が確認されたが、一昨日ぐらいからは随分落ち着きを取り戻していた。もう生活している分には汗が出ることはない。とても過ごしやすい季節である。

 午後六時。

「…………」

 今日の就職活動はなく、ずっと大学にいた。学校で卒業実験に必要は結晶を作る準備をしていたのである。結晶は今日から三週間遠心分離機にかけて作りだす。うまくいけば実験に移ることができるが、うまくいかなければまたやり直さなければならない。当たり前である、実験に使用するサンプルが作れないのだから、実験なんてできるわけがない。陽一がこの作業をやるのは二度目のことだった。

「…………」

 空はすっかり茜色。陽一はすでに帰りの電車に乗っている。今日は運よく席に座ることができた。ちょっとラッキーな気分。水色のシャツに茶色の肩かけ鞄を膝の上に置き、ぼんやりと向かいの窓の外を眺めている。というよりは、頭を空っぽにして視線を虚空に彷徨わせていた。

「…………」

 卒業実験をすることはとても大事なことで、実験に必要な結晶を作りだすことはとてつもなく大事なことである。それをしないと実験データを取ることができず、データがないと論文を書くことができず、論文が完成しなければ単位をもらうことができず、単位をもらえなければ卒業できなくなってしまう。

 しかし、今の陽一にはそんなことよりも、卒業後のことが心配で仕方なかった。結局、先週受けた会社も駄目だった。今週も一社受ける予定だが、とても受かるような感じがしなかった。

 吐息。

 最近、ただただ無駄に時間を浪費しているような気がして、就職活動そのものに辟易していたのが本音である。

 一社目の面接を受けるまでは、こんなはずではなかったのに。

 気がつくと、すべてがうまくはいかなかった。それは、現役で大学に合格できなかったときのよう。

「…………」

 陽一を乗せた電車は高架の上を北方に向かって走っている。太陽はようやく西の空に顔を傾けて、空は色濃い茜色を有している。ほんの二か月前なら真っ暗でとても寒い時間帯だったのに、あの頃が嘘みたいに今は明るさと暖かさを有していた。

 車内には、陽一がいつも耳にしているオルゴールの音楽とともにアナウンスが流れてきた。それは次の駅を告げるものである。電車は少しずつ減速しはじめていた。次の駅は千根井駅。

(…………)

 駅名を聞いて、陽一の頭は先週の月曜日のことを思い出した。

 先週も月曜日はこの時間にこの電車に乗っていて、しかも前から四両目のこの車両。この車両が降りる味米駅ではエスカレーターに近いから、陽一はいつもここに乗ることにしている。

 そうして先週は、高校の同級生、佐々原尚子と再会することができた。再会といっても、ただ見つけただけで、話しかけてもいなければ、向こうからは認識されたわけでもない。けれど、それでも陽一はあれを再会と思いたかった。

(…………)

 急に胸が疼いてきた。電車が減速していくうちに、千根井駅が近づいてくると『もしかしたら、また会えるんじゃ』と思ってしまう。『そんな偶然、もうあるはずないよ』と思うのが、けれど、どうしても期待してしまうから仕方がない。その目はつい乗客のなかに尚子の姿を探してしまう。

 結局あの日以来、姿を見ることはなかった。期待したところで、そんな偶然、そうそう起きるものではない。当然である、高校を卒業してから四年とちょっと、まだ一度しか起きていないことなのだから。そうそう何度も起きるはずがない。そんなこと、起きるわけがない。

(…………)

 陽一を乗せた電車は千根井駅のホームへと入っていく。駅には煙草やら清涼飲料水やらスポーツジムやら薬局やらの看板が立ち並んでいる。

 エアー音とともに、進行方向に対して左側の扉が開いていく。車内に小さな人ん流れが生まれ、乗車していた数人が降りていく。その後、ホームで待っていた数人が乗り込んでくることとなる。陽一のいるこの車両にも何人か乗り込んできた。その大半が背広姿か学校の制服姿。

(……ぁ……)

 目を見張る。実際にやることはないが、陽一は我が目を幾度となく着ているシャツの袖で乱暴に擦りたくなった。とても信じられない偶然がそこには待ち受けていたからである。

(佐々原!)

 いた! 尚子がいた! 先週と同じく、尚子がこの千根井駅から陽一のいる電車のこの車両に乗り込んできたのだ!

 今はこちらに背中を向けて扉近くの手摺に掴まっている。小さな鞄を肩からかけ、今日も黒色のスーツ姿。髪はやはり長く、背中まで達していた。

(凄い……)

 凄い凄い凄い凄い。

 あまりの偶然に、実際に目の前で起きた出来事に、呆気に取られたというか、思わず惚けてしまっている。衝撃のあまり、ぽかーんと開けられた口を閉じることは困難なほどに。

(……奇跡、だ)

 そう思った。これはもう奇跡としか思えない。会いたいと願っていたら、本当に会うことができた。こうして、この電車で、このようにして。この大名希市には何十万人という人間が暮らしている。そこで偶然尚子と会う確率など、あってないようなもののはずなのに、起きてしまった。これはもう奇跡としか言い様がない。

 またこうして会うことができた。

 奇跡が起きてしまった。

(…………)

 どくどくどくどく。心臓が破裂せんばかりに跳ねている。どくどくどくどく。それはまるで子供の頃、楽しみで楽しみで仕方のない遠足の前日のように、心臓が高鳴って仕方なかった。

(…………)

 嬉しい。嬉しくて嬉しくて、その感情が次から次へと陽一のなかに湧いてきて、もう他のことを考えられずに、膨大な歓喜の気持ちに包まれている。

 こんな気持ち、いったいいつ以来だろうかと思い返そうとしても、該当するものがすぐには思いつけない。それほどまでに嬉しくて堪らない。今というこの瞬間が。

(…………)

 今陽一の頭にあるのは、突如として目の前に現れた尚子のことだけ。会えた。会うことができた。願っていたら、こうしてまた会うことができた。普段はそんなことしないのに、今は漠然とした神という存在に感謝していた。『ありがとう! 神様!』感謝してもしきれないほどである。

(…………)

 もう一度目を向けてみる。間違いない。そこにいる。尚子がこうして同じ車両に立っている。今は窓の外を見つめながら、電車の振動に髪を小さく揺らしながら手摺に掴まっていた。

 前回も感じたことだが、その姿、陽一にはやはり随分と大人に見えてしまう。高校生の頃を幼いと思ったことはないが、あの頃からは比べものにならないほど今はぐっと大人びていた。化粧をしていることもあるのだろうが、それはもう見違えっていた。とても同一人物とは思えないほどに。しかし、あれは間違いなくそれは尚子である。それが陽一には分かる。分かってしまう。あれは尚子に間違いない。

(…………)

 陽一の顔にはうっすらと汗が滲んでいる。嬉しい。嬉しい。気持ちは強い熱を持ち、興奮という神経の高ぶりへとつながっていく。体から大量に発汗していた。

(…………)

 ただただその目に尚子の姿を映す、もうそれだけのためにこの電車に乗っているように。

(…………)

 奇跡を目の当たりに、とても興奮を抑えることのできない陽一を乗せた電車は、それからいくつかの駅を通過していき、北曽根駅に到着した。ここは前回尚子が下車していった駅である。

 エアー音とともに扉が開いていく。車内に人の動きが生まれ、流れができていた。その流れに従うように尚子は下車していく。ここまで一度も陽一の方を振り返ることなく、そのまま下車していってしまう。

(っ)

 陽一が次の行動に移るのに、悩む間もなければ、判断するという瞬間すらなかった。陽一は座席から飛び上がるように立ったかと思うと、出口に向かってまっしぐらである。本来であれば、まだ降りる駅ではないのに、尚子を追いかけるようにしてホームに降り立っていた。

 それは前回同様、考えてのことではない。水が高い場所から低い場所へ落ちるように、そうなることがさも自然のごとく体が動いていた。

(早く)

 ホームでは、同じ電車から降りた大勢が下りのエスカレーターに呑み込まれていく。尚子の姿もそこに消えていった。陽一も急いでエスカレーターに向かう。列の最後部に並ばなければならないことが焦れったいが、押し退けていくわけにはいかないので仕方がない。列の最後部に並ぶと、三十秒という僅かであり永遠のような時間を経てエスカレーターに乗ることができた。

 エスカレーターは下りで、少し視線を下げるだけで前方の様子を確認することができる。数えて九人向こうに尚子の頭を見ることができた。

 見つけた。ただそれだけのことでほっと胸を撫で下ろす。今はそれがなんだかおかしかった。

(…………)

 エスカレーターは、乗っている人間が足を動かさなくても自動で下まで運んでくれるもので、それは動くことが禁止されていることを意味する。である以上、前にいる人を追い抜くことが叶わない。九人という尚子との距離にやきもきした気持ちを抱きながら、下に着くのを待つことに気持ちがやけに急いていた。

 下方では、エスカレーターから降りた人間が、次々に改札へと向かっていく。きっと尚子も同様にエスカレーターから降りると、ああして他を見向きすることなく改札にいってしまうだろう。

 陽一から九人前、尚子がエスカレーターから降りた。やはりそのまま改札の方へ向かっていく。しかし、陽一はまだエスカレーターから降りることができない。そうこうしているうちに、尚子との距離が段々に開いていってしまう。尚子がエスカレーターに乗っている間はそんなことなかったのに、今はどんどんどんどん二人の距離が開いていく。

(早く! 早く!)

 焦る焦る。視界にいる尚子が徐々に徐々に小さくなっていく。たった三十秒、四十秒のことが、陽一には物凄く長い時間のように思えた。陽一もようやくエスカレーターを降りると、早足で改札へと向かっていく。前方の背広を追い抜き、髪の毛を弄りながらゆっくりとしたスピードで歩いている女子高生に並ぶ。さらに前へ。

 だがしかし、その時すでに、尚子の背中は改札を通り抜けていた。それが陽一の目に映ったのである。

(ぁ……)

 瞬間、静かに足を止まっていた。

(…………)

 改札の手前、ぼんやりと立ち止まる陽一。

 そんな陽一を、後ろからくる人がどんどん追い抜いていく。さきほどの女子高生も相変わらず髪の毛を弄ったまま改札を通り抜けていった。

(…………)

 まだ尚子の姿は見えているが、それでもすぐにその背中は駅前の喧騒に消えていくことだろう。

 陽一は、こうして改札の手前で、それを見ていることしかできない。遠ざかっていく尚子の姿を。

 まだまだずっと見ていたいのに。

(……ぁ)

 次の瞬間には、もう尚子の姿が見えなくなった。

(……っ)

 と、ほぼ同時に、陽一の頭がある事実に気づく。その閃きと連動するように、陽一は止めていた足を動かしていた。それはもちろん前に向かってである。

(…………)

 すぐ前に改札がある。尚子が通り抜けていった改札。周囲の人間も次々に通り抜けていく。

 改札の手前、陽一は財布にしまっていた定期券を取り出した。そしてそのまま歩を止めることなく、障害となっていた改札にも止められることなく、無事通り抜けることができたのである。

 ここは家と大学の間にある駅である。であれば、四月に購入した半年分の定期券で抜けることができるのだ。そんなこと、気づかない方がどうかしている。だから、これまでの陽一がどうかしていたに違いない。

(どこだ?)

 焦る。焦る。焦る。焦る。

 改札の手前で立ち止まっていたせいで、一度尚子の姿を見失っていた。北曽根駅はJRと私鉄のある大きな駅であるため、人通りは多い。午後六時三十分という時間帯も影響して、行き交う人が次々と陽一の前に現れては消えていく。

 柱の近くではギターを構えた男性がチューニングを行っている。女子高生二人が大げさに手を叩いて笑い合っている。本屋から出てきた背広姿と入っていこうとしていた男子高校生がうまく擦れ違えずにぶつかりそうになっている。背後の改札からはまたぞくぞくと人が出てくる。

 しかし、陽一がここでどれだけ大勢の姿を見たところで、肝心の尚子を見つけることができなかった。

 ないないないない。尚子の姿がどこにもない。

(どこだよ!?)

 下唇を強く噛みしめる。

 黒色のスーツ。背中までの長い髪。肩からかけた小さな鞄。それほど高さのないヒール。佐々原尚子。陽一は今、その姿のみを探す。

 探して探して探して探して……その目、その思想は、その存在は、『佐々原尚子を探すこと』のみに支配されていた。

(…………)

 見回す。辺りを見回す。鶏のように首を小刻みにかくかくっ動かしながら、周辺を忙しなく見回していく。

 明かりの点いている駅前の交番があって、よく待ち合わせに利用されるだろう犬の銅像があって、書店があって、喫茶店があって、コンビニエンスストアがあって、そこには雑誌を立ち読みしている人間が三、四人いて……この場所には、大勢の人間が溢れんばかりに存在しているのに、肝心の尚子の姿がない。

 見つからない。

 見つけられない。

 いないいないいないいない。

 ないないないない。

 ぐっと力を入れて歯噛みする。歯が砕けてしまいそうなほどに強く。

(…………)

 見渡して、見渡して、見渡して、見渡して、幾度となく、挫けることなく、諦めることなく、何度も何度も辺りを見渡して、見渡して、見渡して、見渡して、見渡して、そうして、

(……っ!?)

 見つけた。尚子。佐々原尚子。見つけた。見つけることができた。

 尚子!

(やっ!)

 瞬間、大きく口元が緩むと同時に、陽一はすでに足を踏み出している。早足。早足。早足。早足。

 交差点がある。片側三車線の大きな国道で、そこに尚子の姿があった。すでに交差点の向こう側に渡っていて、今は南北の信号が青になるのを待っている様子。その体は北側に向けられている。

(ちっ!)

 陽一も同じように交差点の向こう側へ渡りたいが、今まで青だった東西の信号が赤になってしまった。これでは向こう側に移動することができない。そうこうしているうちに、南北の信号が青となる。向こう側にいる尚子が交差点を渡っていく。陽一もこちら側から交差点を北側へ渡っていく。

(向こうか……)

 尚子はそのまま国道を北方に向かって歩いていく。ただし、速度はそれほど速くない。その姿をもう二度と見失わないように目で追いながら、まず尚子と同じ国道の東側にいくために交差点に残って信号待ちをする。

 信号待ちをしている間、もちろんその目には尚子の背中がある。尚子は国道沿いを真っ直ぐどんどん歩いていく。ひたすら北方に向けて歩いていく。きっとそちらに目的地があるのだろう。

(よし)

 視界の隅、今まで赤だった東西の信号が青となった。陽一は急いで国道の東側に渡ると、小走りで北方へと駆けていって……二分もしないうちに尚子の背中をはっきりその視界に捉えることができた。これでもう大丈夫。

 そして、そのままのスピードを保っていれば、一分もしないうちに尚子に並ぶことができるだろう。

(…………)

 瞬間、陽一の歩む速度が落ちていった。せっかく背中が見えたのに、走ってきた勢いのまま追いつけばいいものを、その背中が眼前に迫ると陽一はわざわざ速度を落として、三十メートル先にある背中と同じスピードで国道沿いを歩いていく。

(…………)

 この時、なぜ陽一は尚子の背中に追いつこうとしなかったのか? それは陽一でも分からなかった。追いついてみても、もしかしたら相手が自分のことを覚えていないかもしれないことを恐れたのかもしれない。いきなり声をかけることに躊躇したのかもしれない。顔を合わせるのが恥ずかしかったのかもしれない。ともあれ、陽一は声をかけることなく、後ろについて歩くことを選択していた。

 それが、この時尚子の背中に追いつかなかったことが、今後の陽一の人生を大きく変える要因になるとも知らずに。

(…………)

 駅から十分も歩いていなかったと思う。大きな橋が見えてきた。石分いしわけ橋。その橋が架かっているのが喜多きた川。この大名希市は太平洋に面しているため、この場所はとても河口が近く、川幅は百メートル以上ある。である以上、その大きな川に架かる石分橋は優に全長百五十メートル以上あった。

 尚子は国道となっている石分橋をさらに北上していく。陽一も一定の距離を保ちながらついていく。

 石分橋の中央辺りにベンチが設置されていた。とても大きな橋なので、途中で歩き疲れたら人が休憩するために設置してあるのか、はたまたそこからの眺めを楽しむためにあるのか、ともあれそこにはベンチが設置されている。今は誰も腰かけてはいないが、近くの街灯はそのベンチを煌々と照らすように点けられていた。

 西の空にはすでに太陽が姿を消している。橋のすぐ横を走っていく乗用車が、ヘッドライトの筋を残すようにして橋を越えていった。

(…………)

 陽一が歩いているのは石分橋の東側で、川上となる。水が流れてくる方に顔を向けると、多くの住宅の明かりが満天の星のように存在していた。そして、そこに真っ黒な一本の線を引くようにして喜多川が上流に向けて伸びている。川はなだらかな曲線を描くように、大きく左に曲がっていた。

(……っ)

 強い風が吹く。陽一は暴れようとする髪の毛を気にしていた尚子につづいて、橋を渡り切った。

 橋を渡ったすぐのところに外観の緑色が目につくコンビニエンスストアがある。前を歩いていた尚子はそこに入っていく。それを確認した上で、陽一も店の前までやって来た。

「……ふぅー……」

 無意識に大きな息がその口から吐き出されていく。

 コンビニはガラス張りだが、設置されている棚のせいか外から店内の様子があまりよく見ることができない。

(うーん……?)

 ここで選択を余儀なくされた。ここに残るか? はたまた店内に入っていくか? 大きな息を吐き出す。もう一回吐き出す。もう一回。もう一回……そうして、陽一も店内へと入っていくことに決めた。

「っ!」

 入って正面奥には惣菜コーナーがあり、そこに尚子の姿があった。瞬間的に陽一の体は縦に大きく揺れていた。慌てて顔を横に向けたかと思うと、陽一は近くの雑誌コーナーで立ち読みをする振りをして背中を向ける。

 どくどくどくどく! 鼓動が強くなっていく。

 急に体が熱くなってきた。

 じっとりと額に汗が滲む。

(…………)

 店内には女性シンガーのバラード曲が流れていた。そんなもの、今の陽一には興味のないことだし、歌手の名前すら分からない。最近、ヒットチャートに名を連ねている歌はおろか歌手すら分からなくなっていることに、以前なら焦燥感を得ていたのだが、今はもうなんとも思わなくなっていた。それはとても寂しいことのような、本当にどうでもいいようなことのような、陽一にはうまく処理することができずにいた。

(…………)

 正面にあったまったく興味のないバイクの雑誌を手に取って、尚子に背中を向けている。だからもう気になって気になって、一瞬、後ろを振り返ってみた。

 すると、さきほどまでいた尚子がいなくなっており、慌てて店内を見渡すと、その姿は奥の方のドリンクコーナーにあった。

 ほっと一息。

 再びろくに読むこともできないバイク雑誌に目を戻していく。

(…………)

 ふと思う。学校の教室ほどの狭い店内なのだ、声をかける絶好のチャンスかもしれない。物色している振りをして近づいていって、あたかも偶然を装って声をかけ、再会を喜んで、そのまま近況について話し合っていく……それはごく自然の流れのような気がする。

 だがしかし、陽一のどこかでは、こちら側からではなく、向こうから自分のことを見つけてくれることを期待していた。こちらから声をかけると、ここまで後をつけてきたことが露呈してしまうようで、それはとてつもなく気まずいものがある……あくまで偶然、同じ店内に居合わせた雰囲気がよかった。まるで、女子中学生が偶然を装い、帰り道で好きな男子を待ち伏せするかのごとく。

(…………)

 どくどくどくどくどくどくどくどく! 鼓動が勢いを増していく。額に浮かぶ汗を無意識に袖で拭っていた。

 雑誌から顔を離し、なるべく向こう側から自分の顔が見えるように意識して……いつ声をかけられるか、もう気が気でない。かけられたとき、変に声が裏返ってしまわないように注意が必要である。第一声は、ごく自然に。落ち着いて。落ち着いて。

 どくどくどくどくどくどくどくどく!

(…………)

 また少しだけ振り返る。尚子はレジに立っていた。会計を済ませれば、すぐ陽一の近くを通るはずである。そうすればいよいよ声がかけられることに。

 どくどくどくどくどくどくどくどく!

(…………)

『八百五十円、ちょうどいただきます。ありがとうございました』

 陽一の耳まで届いてきたその店員の声により、尚子が会計を済ませたことを知る。もうすぐ。もうすぐ尚子がすぐ横を通る。

 どくどくどくどくどくどくどくどく!

(…………)

 意識を背中に集中させる。

 気配を感じる。背中に、尚子がこちらに歩いてくるのを感じる。

 どくどくどくどくどくどくどくどく!

(…………)

 すぐ横。すぐ横に尚子の姿がある。背中まである長い髪を揺らしながら、腕にビニール袋を持って歩いていく。ハイヒールは次の一歩を踏み出した。

 どくどくどくどくどくどくどくどく!

(……ぁ)

 あっという間の出来事。声をかけられて、そこからはじまるハッピーな時間を心待ちにしていた陽一の期待とは裏腹に、陽一の視界には、すでに尚子の後ろ姿が映っていた。それもガラス越しに、である。

 尚子はすでに、出口の自動ドアから外に出ていた。

(…………)

 こうして出てしまった結果というか、置かれている現状に、唖然というか、拍子抜けするほどにあっさりと尚子に素通りされたことにがっかりしたような、けれど、見つからなかったことをどこかほっとしているような、なんとも複雑な思いに駆られている。

 陽一は手にしていたまったく興味のないバイク雑誌を元に戻し、尚子追いかけるように外に出た。

 気がつくと、両脇には大量の汗が出ていた。それがつつぅーと糸を引くように脇の下に流れていくのを感じ気持ち悪く感じながら、その顔にはしたくもない苦笑いが浮かんでいた。

(…………)

 コンビニを後にすると、尚子の背中はすぐの道を右折した。国道から狭い路地へと入っていったのである。それは全国チェーンの薬局の手前の道。きっとそちらに向かっている場所があるのだろう。

 ここから先もついていくことに一切の迷いはない。陽一もつづいて薬局の手前の道を右折していく。

(…………)

 曲がったところは、閑静な住宅街だった。辺りがすっかり暗くなっているためか、路地には人通りが少なく、一台の無灯火な自転車と擦れ違った以外誰の姿もなかった。

 そのまま十分ほど東方に歩いていって……そうして行き当たることになる。

(……ここ)

 着いた先はアパートだった。二階建てのアパート。

 尚子は慣れた様子で猫の額ほどある庭を抜けていくと、建物南側にある階段へ向かっていく。そのままかつんかつんっハイヒールの音を響かせながら二階へ上がっていく。階段を上がったところから通路を奥まで歩いていき、一番北側の部屋に入っていった。

(……へー、ここに住んでるんだ)

 二階の通路にある手摺越しに見えた尚子の姿。入っていったのは一番奥の部屋。手摺には多くの住居紹介会社の看板が貼られていたので見づらくはあったが、それでも尚子が二階の一番奥の部屋に入っていったのは間違いない。

 尚子が部屋に入っていったきり出てこないことを約五分かけて確認した上で、陽一も建物南の階段へ移動していく。

 壁に『メゾン古橋ふるはし』とある、このアパートの名前であろう。階段近くに八個の郵便受けが上下に二列あった。きっと一階と二階の郵便受けがアパートの部屋の配置と同様に分けられているからだと推測される。事実、上の段は201から208という表記があり、下の段は101から108の表記がされている。

(どこだろ?)

 尚子は二階の部屋のため、さっき入っていったのは201から208のどれかだろうが、どの郵便受けにも名前が表示されていないので分からない。

 陽一の足は郵便受けを前にしたところで、決して後ろに下がることはない。どころか、さらに前へと進んでいく。まだ止まることがない。『部屋番号を確認するため』というふと頭に浮かんだ名目のために、階段に足を踏み入れていく。

(うわっ)

 ぎぎぎぃ。階段に足を踏み入れると、思いの外大きな音が出た。尚子のときは履いていたのがハイヒールのせいかもっと高い音だった気がするが、陽一の場合は聞いているだけで『この分じゃ、すぐ崩れちゃうんじゃないの!?』と不安で仕方のない低く鈍い音が響いていた。

 さらには、その階段の大きな音に、思わず体がびくっとしてしまう。北曽根駅からここで尚子の後ろをつけてきたという後ろめたさが大きく、階段の音にこれほど過敏になってしまうのだ。

(…………)

 なぜだかこのとき、陽一には自分の姿を誰にも見られてはいけない気がした。そんな状況からすると、なるべく音を立てないように慎重に足を運びながら階段を上がっていく必要がある。夜中、トイレにいくときに誰も起こさないように廊下を忍び足で移動していく。

 一段。二段。三段。四段。

 ぎぎぎぃ。ぎぎぃ。ぎぎぎぎぃ。ぎぎぎぃ。

 細心の注意を払いながら足取りをどれほど慎重にしたところで、踏み出す度に階段は大きな音を立ててしまう。車があまり通らない静かな場所だけに、いやでも音が大きく響いてしまった。その度、誰かアパートの住人が出てこないか、ひやひやした。

 しかし、冷静になって現状を考えてみると、ただ階段を上がっているだけのこと。本来であれば住人が出てきたところでどうということはないのだが、なんだか今の陽一の心がとても繊細というか、随分と臆病なものとなっているため、こうも踏み出す度に出る音に怯える結果となっていた。

(…………)

 階段の音に歯を食いしばってびくびくっしながらも、どうにか二階に到着できた。上がったすぐの部屋には『201』とある。だとすると、下の郵便受けの表示から推測するに、きっと一番奥は208号室に違いない。

 推測を立証するため、その目でしっかりと確かめるために、陽一は通路を奥に進んでいく。

 右手側の各部屋の方にはガスメーターが出っ張るように設置されているため、反対側の手摺までは人が擦れ違うには横を向かないといけないぐらい通路は狭いもの。ただし、洗濯機のような大きなものは置かれておらず、足元にも何も置かれていないため、躓いて転んでしまう心配はなさそうである。

 向かいには外観が焦げ茶色の立派なマンションが建てられている。十階建てで、遠目ではあるが照明の明るい玄関の様子からすると、入口はオートロックに違いない。陽一には、尚子ならこんな古いアパートではなく正面にあるようなマンションに暮らしているようなイメージなのだが、どうやら経済的な理由は尚子のイメージとはマッチするものではなさそうである。

(……ここ)

 少しペンキの剥げかけた灰色の扉。そこには『208』とある。下にあった郵便受け同様に表札に名前が記されてないが、さきほど尚子が入っていったのだ、ここが尚子の暮らす部屋なのだろう。

 顔を横に向け、そっと扉に寄せてみる。澄ました耳には空気が流れるような音がするのみで、中からは何の音も聞こえてこない。

(……ここに)

 どきどきどきどき。強くなる鼓動を意識するようになる。

 走ってきたわけでもないのに、呼吸は少し乱れていた。

(……佐々原が)

 扉を一枚隔てたそこに、尚子がいる。高校生のとき、ずっと追いかけてきた憧れの女性。最後まで告白できなかった愛しい存在。そして、今でも頭から消えることのない意中の人。

 佐々原尚子。

 どきどきどきどきどきどきどきどき。

(…………)

 喉が大きく鳴る。ごくりっ。

 まるで真夏の太陽に照らされているかのごとく、額に滲んだ汗が玉となり、顔に跡を残すように頬まで伝わっていく。

 扉の右側にはインターホンがある。そこにある丸いボタンを押しさえすれば、陽一がここにいることを部屋にいる尚子に知らせることができる。電車でも途中立ち寄ったコンビニでもここまでの道路でも気づいてもらえなかった陽一という存在を、ようやく知らせることができる。

 どきどきどきどきどきどきどきどき。

 丸いボタンを見つめる。見つめる見つめる。そこでそうして立ったまま、ボタンを見つめつづける。

(…………)

 陽一の右腕がゆっくりと上がった。

 どきどきどきどきどきどきどきどき。

 軽く握っていた拳から、人差し指を伸ばしていく。

 どきどきどきどきどきどきどきどき。

 勢いよく伸びた人差し指は、インターホンに向かって真っ直ぐ伸びる。

 どきどきどきどきどきどきどきどき。

 丸いボタン。そこに指が触れた。

 次の瞬間!

(っ!?)

 ぴろぴろろーんっ。ぴろぴろろーんっ。

 陽一の人差し指がボタンに触れたと思ったときはもう、扉の向こうから電子音が響いてきたではないか。

(うわっ!)

 自分がインターホンのボタンを押したのだ、聞こえてきたチャイムに驚くのは不自然なことだが、しかし、陽一は響いてきたチャイムに、もう尋常とは思えないほど焦っていた。そして、どうかしてしまいそうなほど慌てたのである。

(うわうわうわうわうわ!)

 今はとにかくおろおろと狼狽することしかできない。

(どうしようどうしようどうしようどうしよう!?)

 思考回路はあらゆる箇所で派手に火花を上げながらショートしまくっている。陽一は動揺に動揺してさらに動揺の動揺による動揺をエンドレスで繰り返していき、胸の前という半端な位置にある両腕は意味なくぶるぶるぶるぶるっ! 震えていた。視界は急激に狭くなり、まるで水中に潜ったときのように音がぼやけて聞こえるようになる。

(どうしようどうしようどうしようどうしよう!?)

 このままここに立っていると、すぐにでも目の前の扉が開いて、尚子と顔を合わせることとなる。こんな『なんでもない平日の夜に、高校の卒業以来まったく接点のなかった尚子の家に訪れている』という物凄く不自然なロケーションにおいて。

(うわあああぁ!)

 もう現状にどうしたらいいか分からず、とにかくパニックで、パニックでパニックでパニックでパニックで、その行動を思考して導くことはなく、陽一は前のめりになりながら駆けだしていた。狭い通路を全速で駆けていくと、階段では激しく音を立てていることに気づくことすらなく、ひたすら一階に向けて駆け下りていき、最後は体操の鉄棒選手が着地するように飛び下りていた。

 そうして、すぐに、誰にも見つからないように、小さく身を屈めたかと思うと、顔を伏せて、目をぎゅっと瞑り、体を硬直させて、あとはもう神に祈るしかない。全身には不必要に力が入っていて、ただただ力いっぱい歯を食いしばっている。それはもう砕けてしまいそうなほどに。

(ああ、あああ、ああああ、あああああ、ああああああ)

 どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどく!

(あああーっ!)

 がちゃりっ! 音がした。扉が開いた音である。陽一の斜め上の方から響いてきた。タイミングといい、それは間違いなく、陽一がインターホンを押した208号室のものであろう。

(ああーっ! ああーっ! ああーっ! ああーっ!)

 どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどく!

 跳ねる跳ねる跳ねる跳ねる。もう胸から飛び出るほど、心臓は激しく脈打っている。

(頼む頼む頼む頼む!)

 ただただ念じていく。瞼をぎゅっと閉じて、全身に意味のない力を込めながら、『どうか見つかりませんように! お願いです! お願いします! どうか見つかりませんように!』ただただ祈るばかりだった。

 どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどく!

(お願いお願いお願いお願い!)

 そんな陽一の渾身であり全身全霊の願いが天に届いたかは定かでないが……上の方から扉が閉じる音がした。

 閉じる音がして、それから暫く何の音も聞こえてこない静寂に包まれる……扉を開けた人間の通路を歩く音が聞こえてこない。それはきっと、尚子が外に出てきたのではなく、インターホンが鳴ったにもかかわらず、誰もいないことを不思議に思いながら部屋に戻っていったからであろう。

 それはつまり、陽一は気づかれずに済んだことを意味する。陽一の体に強く張っていたものが、風船から空気が抜けるようにすーと消えていった。

(わああああああー……)

 陽一は、全身から力という力すべてが抜けていく思いがした。実際、その場でしゃがんでいることすらできずに、ぺたんっと地面に尻餅をついてしまう。

 顔面には、尋常とは思えない分泌された汗の量。それが目に入ったために、陽一は手で乱暴に拭っていた。

 そうして自然と頬が緩んでいく。

(よかったー……)

 見つからなくてよかった。

(……えっと……)

 ほっとして、壊れそうなほど不規則だった鼓動が落ち着きを取り戻していき……そうして少しだけ考えられるようになっていって、だから考えてみると、おかしかった。現状はおかしくておかしくて仕方がなかった。

 陽一は一週間前と同様に、尚子と会いたいために電車では願っていて、千根井駅で実際に会うことができて、コンビニでは自分のことを見つけてほしくて、でも、見つけてもらえずに、後を追うようにこうして家までついてきて、部屋の扉を前にして、思わず目に映るインターホンを押したのに、それで『見つからなくてよかった』と安どしているなんて、もうおかしくて仕方ない。

(……っ)

 ふと目に映ったもの。それは階段の近くにある銀色の郵便受け。101号室から208号室の分、十六個が並んでいる。どれも名前が記されていないためにさきほど部屋の番号は分からなかったが、今はちゃんと確認したので分かる。208号室。それが尚子の部屋。

(……あれ?)

 南京錠がつけられているものがあるが、208号室のはつけられていなかった。そして、中に何か入っているのが見えた。広告のようなものが口からはみ出していたからである。

(確認していかなかったんだ……)

 陽一は実家にいるので、自分で郵便受けを見ることはあまりないが、独り暮らしをしている人間は帰ってきたとき必ず自分でチェックするものだと思っていた。けれど、さっき着いたばかりの尚子の部屋の分は取り出されていない。きっと毎日チェックするような習慣がないのだろう。

(……ふーん……)

 特に意味はなかった。そこに手を伸ばしたのは、ただ『なんとなく』だった。南京錠がつけられていないということは、開けることができ、そうすることができるのであれば、という気軽な感じで開けてみた。

 中には、ピザやマンションの広告が溢れていて、そこから電話会社からの封筒が出てきた。

「……っ!?」

 と、突然、上で音がした。誰か出てきたのかもしれない。

(わっ!)

 陽一は今、他人の郵便受けを開けている。しかも、その中身を手に取った状態で。とても誰かに見られていいシチュエーションではない。

(わわわわっ!)

 慌てる。きょろきょろを首を動かす。右を見て、左を見て、また右を見て、左を見て……意味がない。

(まずいよ!)

 そう思ったのが早いか、陽一は208号室の郵便受けに入っていたものすべてを手にしたまま、そそくさと夜の住宅街に紛れていく。

 その手に、尚子の貴重な個人情報を手にしたまま。

(わわわわっ!)

 小走りで駆けていく。大きく息を弾ませながら。


       ※


 六月十一日、月曜日。

 藤木陽一が暮らす大名希市はすでに梅雨入りをしていた。今日はまだ雨粒が落ちてきてはいないものの、上空には朝からずっと分厚い雨雲が覆っていた。今日はずっと太陽も月も顔を出すことはないだろう。

「…………」

 午後六時。陽一は千根井駅のホームにいた。この駅は、陽一の家と通う大名希大学の間に位置する駅。

 陽一の前、赤い外観の電車が止まっており、乗客の出入りが行われているが、ホームにいる陽一が電車に乗り込むことはない。今は改札からつづくエスカレーターの方に顔を向けているのみ。

 そこにいつ現れても、見逃さないように。

 陽一の両目が、佐々原尚子という大切な存在を。

「…………」

 今日は大学にはいっていなかった。就職活動もしていない。なのに、今日はずっと背広に身を包んでいる。それも、胸に黒いネクタイをして。

「…………」

 先週の木曜日、伯父が死んだ。今日はその葬儀が執り行われたのである。


 陽一の実家近くのアパートに伯父は暮らしていた。陽一は小さい頃よく、遊園地や映画化に連れていってもらっていた。親戚のなかでは、断トツで好きな伯父である。いつでもおもしろいし、お菓子もたくさん買ってくれるし、いつだって好きなところに遊びに連れていってもらえるし。

 けれど、死んでしまった。その日まで元気だったのに、突如として交通事故の被害者となり、嘘みたいにあっさりとこの世から去っていった。

 伯父は四十代半ばであるが、結婚していなかった。事故に遭うまでずっと独身のまま、アパートで独り暮らし。陽一の見ていた伯父はいつも明るい人だったので、本人からは微塵もそんなこと感じ取れなかったが、日々の生活がとても寂しいものだったに違いない。だからこそ、近所に住む陽一のことをあれほどよく構ってくれていたのだろう。

 交通事故によって伯父が死んだ。もちろん陽一は悲しかった。大好きな伯父が死んでしまったのだ、悲しくないわけがなかった。けれど、不思議と涙は流れなかった。通夜も葬儀も、今も。

 遺影の写真はとても若々しく、屈託のない笑顔だった。いつも陽一が見ていた伯父の表情そのもの。あまりおもしろくない冗談を言った直後に恥ずかしそうに小さく笑う、その表情にとてもよく似ていた。

 火葬場で遺体を火葬している間、親戚中が一つの部屋に集まって談笑する。親戚中といっても、伯父が結婚していないため、人数はせいぜい十五人ほど。

 前日の通夜、そして葬式のとき、みんな式場を包む独特の雰囲気に流されてか声を殺すように泣いていたのに、火葬を待つ間はお茶を飲みながら楽しそうに談笑していた。最近の子供の様子だったり、会社の話だったり。

 そんなみんなの姿、陽一にはちょっとおかしく見えた。さっきまであんなに伯父の死を惜しんで泣いていたのに、今は楽しそうにお喋りに興じていられるだなんて……けれど、陽一は泣いてすらいなかったので、それを冷たいとか薄情といった表現をするわけにはいかなかった。

 待っている間、陽一はうまくいっていない学校のことや就職活動のことをかれるのがいやで、部屋の隅の方で目を閉じて、いかにも疲れて眠っているような振りをしながら考えていた。ずっと考え込んでいた。

『伯父さんは幸せだったのだろうか?』

 重たい病気にかかっていて、それで徐々に体が病魔に蝕まれていく過程があれば、伯父は死を覚悟する時間と、それまでの人生について振り返ることができたかもしれない。しかし、事故に遭う直前までは健康そのもので、一度だって突然目の前に死神がやって来て、その鎌で首を切り取られるなんてこと、考えもしなかっただろう。

 だからこそ、交通事故という突発的な死は、伯父に死を覚悟させる時間も与えることなく、これまでの人生を振り返ることすらなく、ただ残酷までに容赦なくすべてを奪っていた。

 伯父は、少なくとも陽一の前ではいつも笑顔で、いつも楽しそうで、寂しいようなこと困っているようなこと考え込んでいるようなこと思い悩んでいるようこと、そういったことがまったくないようだった……けれど、考えてみれば、独り暮らしをしている以上、家に帰れば常に一人。きっと仕事で疲れた体のまま、明かりのない真っ暗な部屋に帰ってきて、スーパーで買った惣菜をテーブルに並べて、寂しく食事をして、洗濯をして、風呂の準備をして、布団を敷いて、寝る。朝も誰もいない静かな部屋で目覚めて、一人で朝食を食べて、仕事に出かけて、会社で仕事を頑張って、また明かりのない部屋に帰ってくる。陽一にはそれがとても寂しいことなのではないかと思えた。やはり見えていないところではきっと日々の生活に寂しさを感じていたに違いない。

 そういう状況に置かれれば、陽一はきっと寂しい気持ちになるであろうから。

 伯父にはこれといった趣味もなさそうだったし、毎日変わらない孤独な日々を過ごしていって、死を覚悟する間もなく他界した。なんとも社会に生きる人間としては呆気ない死。そうなることが伯父の人生だったかと、考えれば考えるほど、陽一はただただ切ない思いに駆られていく。

 火葬が終了した。棺に入っていたときは確かに人間の姿をしていたのに、ちょっとの間で、伯父は燃えかすとなっていた。それを陽一は長い箸のようなもので運び、骨壺に入れていく。

 無償にやり切れない思いがした。

 こんな終焉、できることなら味わいたくない。


「…………」

 陽一の前、また赤い電車が到着した。車内から乗客を吐き出し、ホームに待っていた客を乗せていく。

 それを陽一はホームに設置されたベンチに座りながら見送るのみ。

 そこから一歩として動くことはない。その口は喋るどころか動くことすらない。今はただそこに座って、エスカレーターの方を見つめている。

「…………」

 慣れない背広を着ているせいもあるのだろうが、上空の分厚い雨雲を見ると雨が近いのか、今日はやけに蒸し暑かった。手の甲で額に浮かぶ汗を拭う。

 暑い。

 現在、陽一はまだ就職の内定を得ることができていなかった。そればかりか、大学の卒業実験もろくに進めることができていない。電圧変化や温度変化における状態を観察するのに必要な結晶が、うまく作れずにいたから。先週分のも結局失敗していた。そのため、また遠心分離機にセットして、三週間待たなくてはならない状態にある。

 どの会社からも内定は取れず、大学での実験もうまくいかない……なんだか最近、妙に自分だけが世間に取り残されているような気がして、胸の奥が大きくざわついていることを自覚する。惨めな思いをして、無償にいらいらして、むしゃくしゃして、自身の奥底にどんどん溜まっていく不快なものをどうにもうまく発散することができずに、心をより不安定なものにすることしかできていなかった。この頃は夜もなかなか寝つくことができず、しかも朝まで何度か目が覚めるようになっていたのだ。『情緒不安定』というのは、こういうものを言うのかもしれない。

「……っ」

 もう一度額の汗を手の甲で拭った。小さく息を吐き出す……次の瞬間、陽一の目が見開かれることとなる。エスカレーターから黒色のスーツに身を包んだ佐々原尚子が現れたからである。

 ようやくやって来た尚子は、ずっとベンチで待っていた陽一のことに気づいた様子もなく、背中まである長い髪を左右に揺らしながらホームの白線の手前まで歩いていき、そこで電車を待っている。

 陽一は、そっとその後ろ姿を見つめる。にやにやと、口元を緩めながら。不思議なことに、その瞬間はもう、それまで渦巻いていたいやな気持ちがきれいになくなっていた。

「…………」

 陽一は見つめている背中に、満足そうに頷く。

 予想した通り、月曜日は午後六時前後にこの千根井駅に現れた。データとしてはあまり多いものではないが、それでも今日までの統計で分かっていた。陽一はまだ働いたことはないが、自分の父親や伯父がそうだったように、会社はだいたい午後五時が定時であることは知っている。そのため、きっと週のはじまりの月曜日は定時の午後五時で残業なく帰宅するように会社が義務づけているのか、はたまた尚子がそうするように心がけているのか。

 ホームにアナウンスが流れる。右から赤色の電車がホームに滑り込んでくるようにしてやって来る。尚子は他の客とともに乗車していく。陽一は、同じ車両の一つ隣の扉から車内に入っていった。

「…………」

 長袖を着ているのはせいぜいサラリーマンの背広ぐらいで、車内にいる大半が半袖であり、いつの間にか高校の制服の白い半袖のシャツとなっていた。

 初めてこの電車で尚子の姿を見かけたときから、季節は確実に移ろっている。しかし、世界は春から夏を迎えようとしているのに、陽一はまだ変わることなく背広に身を包んでいる。今日は黒いネクタイを締めているが、どうにかして内定を得るために、明日からも息苦しいこの背広に身を包まなければならない。

「…………」

 電車は高架上を北方に走っていき、千根井駅から三つ目の駅、北曽根駅に到着した。エアー音とともに扉が開くと、陽一の視界にいる尚子が下車していく。追いかけるように陽一も降りていく。

 エスカレーターでは、前をいく尚子との間に十人ほど挟むこととなり、随分と距離が開いてしまった。だがしかし、そんなことをいちいち気にかける必要はない。少しぐらい距離が開いたところで、尚子の行き先は分かっている。そればかりかそこまでの道順すら把握できているのだ。である以上、ちょっとの間姿を見失ったところで、どうということはない。今はのんびりとエスカレーターから人の行き交う改札の様子を眺めていた。口元を小さく緩めながら。

「…………」

 エスカレーターで一階に到着した。陽一は四月に買った半年分の定期券で改札を通り抜けていく。そのまま歩みを止めることなく南北に走る国道へと向かっていく。交差点を渡り、そこからは北方へ。

 それは常に、三十メートルほど前にいる尚子の背中を見つめながら。

「…………」

 五分ほどして全長が百五十メートル以上ある大きな石分橋に辿り着いた。いつもこの場所はそうだが、今日はさらに風の強かった。前にいる尚子は暴れようとする長い髪を片手で押さながら歩いている。その仕草、後ろから見えている陽一には微笑ましく思えていた。

 石分橋を渡った直後のコンビニに尚子は入っていく。陽一は手前で足を止め、今日は店の外で待つことに。

「…………」

 十分後、尚子が出てきた。薄茶色の袋をぶら下げていたので、きっと今日も弁当を購入したに違いない。そう思うと、急に陽一は尚子の体調というか、偏っているだろう食生活が心配になった。

 陽一は自分でそういったことを気にかけたことがないのであまりよくは分からないが、けれど、もう少し栄養のバランスを考えた方がいいと思う。テレビで得た知識ではあるが、そういったことに手を抜いていると病気になり、入院する恐れだってあるかもしれないのだから。

 死んでしまうことだって。

「……っ……」

 ふとその頭に、今日参列した伯父の葬式のことが過っていた。たくさんの白い花に囲まれた遺影の笑顔。この前会ったときは元気だったのに、突如としてこの世を去った伯父。

 陽一は力いっぱい首を横に振る。何度だって、幾度も首を振りつづける。想像は、とてつもなく縁起悪いものだったから。『少し栄養が偏ったところで、そんなことで死ぬわけがない。そもそも伯父は健康管理を怠って病気になったわけじゃなく、交通事故で死んだのだから』そう自分に言い聞かせて、全国チェーン店の薬局の手前を右折していった。

 そうして、まだ太陽が姿を隠すことのない時間、尚子が暮らしているメゾン古橋に着くことができていた。尚子がちゃんと208号室に部屋に入っていくのを、道路からしっかり見守りながら。

(……なんか……)

 陽一のなかにおかしな意識が芽生えているというか、こうして尚子のことを見守っていると、ナイトになった気分だった。いつどこから不逞の輩が現れてもおかしくないこの時代、尚子のことを無事に家まで送り届ける。そう考えてみると、今の自分がちょっと格好いい気がした。『尚子のために、自分は何の見返りも求めずに陰からそっと見守っている』そう思うと、毎日とてもいいことをしている気がした。

 その胸は、久し振りに充実した気持ちで溢れている。

 気分がいい。

(……にしても……)

 建物の反対側に回ってみると、そこは鉄棒と砂場とベンチしかない小さな公園がある。西城せいじょう公園。そこからならメゾン古橋のベランダを眺めることができた。アパート全体の八割ほど明かりが点けられており、尚子のいる二階の一番北側の208号室にも明かりが灯っている。

(……ご飯、もうちょっとならないかな?)

 頭には、さきほど心配になったことが過っていた。尚子はだいたいいつもコンビニ。弁当だったり、サンドイッチだったり……これは余計な世話かもしれないが、尚子は女性なのだし、残業で夜遅くなるならともかく、今日みたいに仕事から早く帰ってくる日もあるので、いつもコンビニではなく、少しは自炊を心がけた方がいいような気がした。

(……そうだよね、倒れちゃってからじゃ、遅いもんね)

 そんなことないとは思うが、そんなことないと思っていたのに伯父が突然事故に遭って他界した。そういったことが実際に起きるのだ、それがどういった形であれ、尚子に訪れるかもしれない。である以上、できればそういった危険性がある芽は少しでも早く摘んでおくに限る。

 陽一は行動に出ることにした。

 それは尚子のことを思って。

 心から。

 純粋に。

「…………」

 陽一は急いで国道まで戻る。そして国道沿いのコンビニに設置されている公衆電話の受話器を手にした。以前伯父にもらった港に停泊するフェリーのテレホンカードを挿入する。度数は『四十二』だった。相手の電話番号は以前郵便受けで入手していた電話会社からの領収書で分かっている。今では空で言えるようになっていた。ボタンの上を動く人差し指には一切の迷いがない。

 陽一はこれからいいことをしようとしている。なら、躊躇する意味などない。かけらも。まったく。

「…………」

 コール。コール。コール。コール。コール。コール。

「…………」

『はい、もしもし、佐々原ですが』

(うわぁ!)

 どきっ! とした。電話をしているのだから、相手の声が聞こえるのは当たり前なのに、実際に相手の声を聞いてみると、どきっ! とした。ここのとこ姿は見ているものの、声を聞いたのは本当に久し振りのこと。高校の卒業式ですら話してはいないので、もしかすると同じクラスだった一年生のとき以来かもしれない。だから、それは本当の本当に久し振りの声で、それはもう陽一には天にも昇りそうなほど胸がときめくものだった。世界がぱぁーっと華やいだみたいに。

(さ、さ、さ、さ、佐々原だぁ!)

『……あのー、もしもし?』

「……あ、あの」

 喋られなくては。電話をしているのだ、何か喋られなくては。早く。早く。

「あの、その……」

『はい?』

「あのね、あの……」

 言葉にならない。思っていることがうまく言葉になってくれない。早くしないと、尚子に不審がられてしまう。早く喋らなければ。早く。早く。

 あたふた。

「あの、あの……」

『切りますよ』

「あの、さ、佐々原だよね?」

『……そうですが?』

「あんまり、その……弁当ばっかじゃ、栄養とか、バランスが悪くなるから、やめた方がいいと思う、よ。その、えーと……えっ」

 回線が切れた。陽一の耳にはもう尚子の声は聞こえてこない。不通となった電子音のみが支配している。

「…………」

 もうそうする意味がなくなっているのに、陽一はなかなか耳から受話器を離すことができずにいた。

(……話しちゃった)

 話した。会話した。とても短い時間で、ほとんど内容なんてあってないようなものではあったが、それでも尚子の声を聞き、こちらの声を相手に届けた。今まではただその姿を見守ることしかできなかったのに、電話線によってようやく尚子とつながれた気がした。

 長く厳しい時期を乗り越えて、ようやく心の桜が一斉に開花したような気分である。

(やった)

 やった! やったよ!

 よかった! 本当によかった!

『尚子と電話で会話した』ただそれだけのことで、陽一の心にある『嬉』のメーターはレッドゾーンを振り切り、今にも壊れてしまいそうである。

(やった)

 やった!

(やった)

 やった!

「はははははっ」

 どう制御しようとも口元が大きく緩まるのを止めることはできない。

 そんな陽一の視界では、『40』という数字が見える。テレホンカードの残りの度数。『42』から『40』までのたった『2』分の時間だったが、大満足だった。興奮を抑えられない。

「はははははっ」

 通話が切れてから、時間にして十回分の呼吸はすでに行っている思う……ここでようやく受話器を戻し、陽一の奥底から込み上げてくる激情を噛みしめるように、両の拳を力いっぱい握りしめていた。

「…………」

 嬉しかった。嬉しくて嬉しくて仕方なかった。これぞ天にも昇る気分である。込み上げてくるその嬉しい感情をどうにも止めることができず、陽一は再びメゾン古橋へと向かっていく。

 隣接する公園のベンチ前に立ち、208号室の明かりを見上げる。

(……っ)

 ベランダから漏れてくる明かり。今そこに、影が動いたような気がした。そんなことまず起きることがないというのに、それが目の前で起きたのである。

 たったそれだけのことで、陽一はこの世界に選ばれたような気がしたし、ここに立つ権利を得た気がした。

 陽一は自分の居場所を見つけていた。

(またね)

 実際に胸の前で右手を振って、満足そうに後ろを振り返る。

(また明日)

 今日はここで家に帰る。

 振り返ってみると、今日は伯父の葬式で、なんとも気の重い一日だったのに、最後の最後でそんなこと吹き飛ばすほどの嬉しいことがあった。それはもう最高にハッピーな気分。

 高揚する気持ちのまま、陽一はすっかり暗くなった世界に歩を進めていく。足取りを弾ませるようにして。

(尚ちゃん)

 そしてその瞬間から、陽一は尚子のことを名字の『佐々原』ではなく、『尚ちゃん』と呼ぶようになっていた。


       ※


 七月二日、月曜日。


 午後の授業がはじまってすでに一時間が経過している。時刻は午後二時。

 世界は灼熱の炎に覆われているとさえ錯覚しそうなほど、猛烈な日差しに見舞われていた。

「…………」

 大学の実験室の扉の前、藤木陽一はそこに入ろうとしていて、けれど、中から漏れてきた声に足を止めてしまう。仕方なく立ち尽くすこととなり、暫くそうして中から漏れてくる声を耳にして、その影響でこれ以上前に進むことができなくなり、そのまま後ろを振り返って通路を歩いていくことに。

 今日も昨日同様に実験室に入って装置を作るつもりだった。だが、もう帰る。駅にいって電車に乗って、そのまま千根井駅へ向かった。


「駄目だろ、あいつ」

「あいつって、藤木のことか?」

「また失敗したんだってよ。一所懸命設備清掃して、遠心分離機にセットしてたぞ。もう泣きそうな感じでさ」

「そりゃ、できないと論文書けないからな。泣きたくもあるだろうけど……にしても、またかよ?」

「駄目なんだような、あいつ」

「でも、そうそう作れるもんじゃないだろ。何回もチャレンジしてみたいと駄目なんじゃない」

「いやいや、あいつはそれだけじゃないって。仮にこれからどうにか実験がうまくいって、論文書いて単位が取れたとしてもさ、卒業しても仕事がないからねー。残念なことに」

「あれ、もしかして、また駄目だったの?」

「ここまで全部、全敗らしいよ。ずっと。いくら就職難っていってもさ、ちょっとひど過ぎるだろ? ホント、分かってねーんだろうな、世の中の渡り方っていうのかさ。そのこつを」

「あいつ、何が駄目なんだろ? まっ、考えてみても、あいつのいいとこなんて挙げられないけどさ」

「いや、あいつ、だいたいいつも筆記は通るらしいんだよ。だけど、面接はいつも一次で落ちちゃうんだって。多分、うまく自己アピールができねーんだろうな。知識はあっても、それをうまく活用できてないって感じじゃない?」

「そうだな、あいつ暗いしな。あんま付き合いもよくないし。ああいうところが駄目なんだろうな」

「だろだろ? あいつ、そういうとこが駄目なんだよ。根本的に人としてさ。はははっ。そういうオーラが出てるんだよ、きっと。少なくともオレには見えるね。それが面接官にも分かっちゃうんだろうね。はー、かわいそうに」

「そうか、実験もうまくいかない、就職も駄目。そりゃ、踏んだり蹴ったりっていうよりは、駄目だわな、人として」

「人としてな。ははははっ」

「はははっ」


 太陽はとっくに西の空に顔を隠していた。千根井駅のホームに設置されているベンチが近くに設置された街灯に照らされている。そこに藤木陽一は腰かけていた。今日の午後三時から、現在の午後九時まで、六時間、ずっと。

 ベンチに座って、ただ呆然とエスカレーターの方を見つめている。その目には何百人という人の姿が映っていたが、どれも陽一の目が止まる対象ではなかった。

 時間帯の影響からであろうが、今はホームで電車を待っている人は疎らであり、電車の本数も少ない。その分、夕方と比べるとホームが静かである。

 漂う空気には、なんだか日常から取り残されたような、なんとも寂しい感じが含まれていた。

「…………」

 今日の昼過ぎ、午後から大学の実験室にいこうとして、廊下から扉を開けようとしたとき、中から自分の名前が聞こえてきた。陽一が立っていた廊下まで、同じ研究室で卒業実験を行っている同級生の会話が漏れてきたのだ。

 内容は、陽一を貶しつづけるものばかり。もちろんそんな所にのこのこと顔が出せるほど、陽一の神経は図太くない。だから開けるはずだった扉を前にして、足を止めてしまった。

 今日は実験装置がちゃんと稼働するかを確認する予定だったのに。それは実験を進めていく上では欠かせないこと。だったのに、扉越しに聞こえてきた同級生の言葉に、おめおめと引き返してしまった。

 大学を後にし、電車に乗って、千根井駅で下車。ここまでずっとベンチに座っている。ずっと。六時間も。

「…………」

 本日は七月二日、陽一の二十三回目の誕生日だった。

 二十三歳。幼い頃に見上げていた二十三歳は、今の陽一からは比べものにならないぐらい大人だった気がする。結婚していて、漫画なんて読まずにいつも朝食の前には新聞に目を通していて、当たり前のように家族がいて、マイホームを持っていて、玄関で小さな子供に見送られながら仕事にいくような、まるで自分がいつも見ていた父親のような存在であると思っていた。

 それが、小学生のとき想像していた二十歳を過ぎた人間だった気がする。

「…………」

 本日で二十三歳になった陽一。見上げていた二十三歳にはなれていなかった。結婚などしておらず、そればかり就職もできていない。いや、それ以前に就職することもできない。何度挑もうとも、不採用の通知を突きつけられてばかり。

『誠に残念ですが、今回は採用を見合わせていただきます』

 いつもそう。いつだってそう。何社受けても、どれだけ頑張っても、通知はいつも不採用。

 もう疲れてしまった。

 頑張ろうとする気が削り取られてしまった。

 もう立ち向かえない。

「…………」

 二十三歳の誕生日。この暗い時間まで、特にこれといった用があるわけでもないこの千根井駅のホームのベンチに腰かけ、ただただ無意味に時間を潰すことしかできない自分を、過去の自分が想像できたであろうか? そう考えると、ただただ惨めになるばかり。

 気持ちの落ち込みは、地面に穴を空けて地中深くまで至っていた。

「…………」

 陽一はここまでの人生を振り返ると、高校を卒業するまでは順調だった気がする。当時はそんなこと考えてもいなかったが、今振り返ると日々の生活が眩いばかりに輝いていた。

 小学校から中学校を卒業するまでは何の苦労もすることがなく、高校受験は第一志望の学校に入ることができた。高校生活は些細な悩みもあることはあったが、それでも迷うことなく順調に人生という道を歩んでいた気がする。

 陽一が歩んできた人生は、まったく障害のなく順調に流れていた。けれど、今はもう順調と呼べるものではない。そこからはみ出してしまったのは、高校を卒業した後からかもしれない。

 十九歳。陽一は現役では大学に合格することができず、浪人生となった。予備校の雰囲気は高校のそれと似ていたが、けれど、他の連中とは違って、自分にはあまり余裕がなかった。『一度失敗しているのである、もう同じ失敗を繰り返すわけにはいかない』その思いが誰よりも強く陽一の心に渦巻いていて、流れていく日々が少しずつ心を圧迫し、苦しい思いを感じていた。

 陽一には兄がいた。どこに出しても恥ずかしくないような、とても優秀な兄。一流と呼ばれる大学を出て、一流企業に就職して、今はもう家を出ている。もちろん陽一と違って、大学は現役で合格していた。就職内定も四年生の春には決まっていた気がする。それも一つだけではなかった気がする。現在結婚もしていた。マイホームを手に入れていた。

 父親はそんなでもなかったが、母親はよく陽一のことを優秀な兄と比べていた気がする。

『ほら、陽一、見てごらん。お兄ちゃん、またテストで百点取ったんですって』

『お兄ちゃんはもっといい高校だったんだけどね』

『駄目だよ、陽一。お兄ちゃんは今の陽一みたいなこと、言わなかったんだよ』

『陽一はもっとお兄ちゃんを見習って、しっかり勉強しなきゃ駄目だよ』

『お兄ちゃん、就職が決まったよ。次は陽一の番だからね。頑張ってね』

『お兄ちゃん、結婚するんだって。陽一にもいい人が見つかるといいわね』

『ねぇねぇ、陽一。お兄ちゃん、今度ちょっと出世するんだって』

 いつもそう。いつもいつも比較されて、だからといってどんなに陽一が陽一なりに懸命になったところで優秀な兄の足元にも及ばなくて、ただただそんな自分を卑屈に感じることしかできない。

 今日だってそう。実験室では同級生が自分の陰口を叩いていた。物凄く腹が立ったし、それ以上に心が傷ついたが、それは陽一だからこそ言われることであって、もし陽一の兄だったら絶対言われなかったに違いない。

 陽一だから陰口を叩かれるのだ。

 陽一だから駄目なのだ。

 陽一では。

 兄と違って。

 駄目なのだ。


「…………」

 気がつくと、ホームに設置されている時計は午後十時を回っていた。千根井駅は夕方のラッシュ時からは信じられないほど、まるで水を打ったかのようにしーんっと静まり返っている。

 座っているベンチからは、まだ月曜日なのに酔っぱらったサラリーマンが、柱を背にして眠っている姿が見えた。

「…………」

 頭上にあるスピーカーからオルゴールのような音が聞こえたと思うと、ホームにアナウンスが流れてきた。もうすぐこのホームに電車がやって来る。

 今日はなんとしても尚子に会いたかった。陽一の誕生日でもあったし、そんなことよりも、同級生の言葉に沈痛した心を癒したかった。

 けれど、いくら待ってもやって来ないし、その姿を見ることすらできていない。いくらなんでもこれはあまりにも遅過ぎる。そんなことないとは思うのだが、もしかしたら陽一が尚子のことを見逃していたのかもしれない。いや、そればかりか、もしかしたら、尚子の身に何かあったのかもしれない。

 そう思うと、もう居ても立ってもいられなかった。急いで到着したばかりの電車に乗り込み、三つ先の北曽根駅で下車する。駅前にある国道を北上していき、石分橋を渡ってコンビニを横目に薬局の手前の道を右折して、メゾン古橋に到着した。

「はぁはぁはぁはぁ」

 ここまで走ってくることはなったが、それでも気持ちが急いていたこともあり、息が上がってしまった。今は肩を大きく上下させる。

 メゾン古橋の東側にある小さな公園、そのベンチの前に立つ。そこから見上げる208号室には、明かりが点けられていた。

(あー、よかったー)

 安心した。尚子は家にいる。途中で何かトラブルに巻き込まれたわけではなく、こうしてちゃんと家に帰っている。たったそれだけのことで、胸を撫で下ろしていた。

(…………)

 公園の茂みからは姿の見えない虫の声。この不快でしかない蒸し暑い夜において、どこか清涼感を感じられた。

 公園のベンチの前に立ち、部屋の明かりを見つめる陽一。そうしていることが、至福のように。

(…………)

 三十分。

(…………)

 一時間。

(…………)

 二時間。

(……ぁ……)

 今、ずっと見上げていた部屋の明かりが消えた。もうすぐ日付が変わろうという時間帯である。

 この時間でも、外はとてつもなく蒸し暑かった。もう何日つづいているか分からない熱帯夜である。

 けれど、外気に関係なく、陽一の心にはとても穏やかで心地よい気持ちで満たされた。『ああ、よかった。今日も無事に尚ちゃんの一日が終わってくれて』今はそれがとても大切なことであり、それをその目でしっかり確認することができてとても嬉しい。

(……また、明日……)

 そうして陽一は、もう一度暗くなった208号室のベランダを眺めてから、帰路につくこととなる。

 こんなに遅くまでここにいたのは初めてのことだった。この時間なのだ、もしかしたら、終電には間に合わないかもしれない。けれど、そんなことは些細なことである。大切なことは、尚子が今日も生きているということ。この世界に佐々原尚子が存在してくれていること。

 ただそれだけのことで、陽一は満たされた気持ちでいた。

(尚子)

 そしてその瞬間から、呼び方が『尚ちゃん』から『尚子』に変わっていた。

 大名希市には梅雨明けの兆しが感じられて、いよいよ多くの生命が活発的になる夏を迎えようとしている。


 七月二日の誕生日を境に、陽一は背広を着ることがなくなった。まだどこの会社からも内定をもらっていないのに、それをしようとする気を放棄してしまったからである。

 七月二日の誕生日を境に、陽一は大学にいかなくなった。まだ卒業実験は準備段階であり、はじまってもいないというのに、それをしようとする気を放棄してしまったから。

 陽一が日々やっていることといえば、千根井駅のホームにいること。

 やって来る佐々原尚子を見つめること。

 いつしか、それが陽一のすべてとなっていった。

 そして世界は夏という季節を迎えることとなる。その季節、陽一にとってこれまで想像だにしなかった、それはもう取り返しのつかないほどの凄絶な瞬間を迎えてしまうのだった。


       ※


 七月二十八日、金曜日。

「ぎぎぎぎぎぎぃぃ」

 午後八時三十分。

 北曽根駅から徒歩二十分の場所に位置するメゾン古橋。部屋数は全部で十六あり、部屋の向きはすべて東向きとなっている。そんなメゾン古橋の東側には西城公園があり、そこに設置されたベンチの前で、この上ないほど力を入れて歯噛みしている藤木陽一がいた。

 全身に絶頂の憎しみに抱いて。

 爆発せんばかりの感情を自身の内側に押し殺しながら。

「いぎぎぎぎぎぎぃぃ」

 鋭く睨みつけるように見上げているのは、ベランダから漏れてくる208号室の部屋の明かり。

 ここのところずっと熱帯夜がつづいており、今夜もとても蒸し暑い。陽一はこうして外にいるのである、着ているTシャツはびっしょりと汗で滲んでいた。それは、普段生活している分には不快なものでしかない。すぐ家に帰って頭からシャワーを浴びたいぐらいである。

 けれど、そんなことは関係ない。Tシャツの汗など、今の陽一に感じるべき対象ではない。世界がどれだけ暑かろうが不快だろうが息苦しいものだろうが、関係ない。憎悪が渦巻くその内側で、ただひたすらに208号室を睨みつづけていく。

「いぎぎぎぎぎぎぃぃ」

 時間の経過とともに、内側に増殖する憎しみに身を浸しながら。

 208号室を睨みつけていく。


 陽一は今日もいつものように千根井駅のホームで、仕事帰りの尚子のことを待っていた。今ではそれこそが陽一の使命であるように。

 待っていて、ホームのエスカレーターから尚子が姿を見せて……だがしかし、今日はいつもとは違う異質なことが起きた。

 現れた尚子。あろうことか、尚子は見知らぬ男性と一緒だったのである。

 ホームで電車を待っている間、揺れる電車に乗っている間、二人はとても仲よさそうに見つめ合いながら話している。そればかりか、一緒に北曽根駅で下車したではないが。

 それだけではない。そうして二人して駅前から南北に伸びる国道を北上していき、尚子の部屋であるメゾン208号室へと入っていったのである。二人が、二人とも、同じ部屋に。

 陽一は慌てた。物凄く取り乱し、激しくパニック状態。もうなにがなんだか分からない。尚子が男と一緒に部屋に入っていくなんて、とても信じられることではない。現実に起きたこと、それはどうあっても信じられないこと……だからこそ、『騙されている』と思った。あの男に。

 だとすると、こうしている間にも、あの男の魔手が尚子に伸びているかもしれない。そんなの断じて許されることではない。

 陽一は急いで国道沿いのコンビニまで戻り、公衆電話の受話器を手にした。急いでボタンをプッシュしていく。

「尚子か?」

『はぁ!? もしもーし!?』

「誰だ、お前!? 尚子を出せ!?」

『いや、出せって……ああ、なるほど。なるほどね。そうか、あんた尚子のストーカーってやつか?』

「わけ分かんないこと言ってじゃねーよ。いいから、早く尚子を出せ。さっさと尚子を出せってんだよ」

『あのさ、いい加減にしてくれるか。こっちは迷惑してるんだ。尚子のやつ、お前のせいでな、最近あんまり眠れてないんだからな』

「うるさい! 早く尚子を出せ!」

『やめてくれって言ってるの。これ以上やると、警察に通報するからな。そうはしてほしくないだろ、お前だってさ。だから、もうやめてくれ』

「うるさいうるさいうるさいうるさい! お前なんかどうでもいいんだ! 尚子を出せ! さっさと尚子に代われってんだよ!」

『まったくさ……お前、ちゃんと忠告はしたからな』

「黙れって言ってんだよ!」

『もう次はないからな』

「おい!? おいってば!?」

 通話は切れた。

 こっちの要求がまるで満たされることなく、一方的に切られてしまった。

「…………」

 受話器を手にしたまま、呆然と立ち尽くすしかない陽一。時も場所も関係ない、ただ現実に起きたことに、すっかり放心してしまい、そうやって立ち尽くすことしかできなかった。

「…………」


 ただただ虚ろな視線をどこでもない虚空に漂わせ、現実に起きたことがまるで受け入れられないことのように愕然としてしまう。

 陽一がそうしてショックで思考回路を停止している間も、周囲の時間は一定のスピードで通り過ぎていく。

『騙されている』

 その結論に辿り着くまで、そう時間はかからなかった。やはりその結論はあの男を見たときの第一印象と変わることはない。純真無垢な尚子は、あの残虐たる悪魔にまとわりつかれている。

 このままでは、尚子があの男の毒牙に蝕まれてしまう。

 あの男によって何もかも目茶苦茶にされてしまう。

 そんなの駄目だ。

 神聖たる尚子という存在を守ってあげなくてはならない。

 自分こそが尚子のことを守ってあげなくてはならない。

 この世界中で、尚子のことを守ってあげられるのは自分だけ。

 自分しか守ることができないのだ。

 だから。

 だから、陽一は溢れる憎悪に身を包み、夜の帳に身を置いた。

 その手を闇に染めるために。

 すべては尚子のために。


 そうして全身に憎しみの力を込めながら、ただひたすらに208号室を見上げている陽一。

「ぎぎぎぎぎぃぃ」

 歯ぎしりは、今にも自身の歯を砕いてしまいそうなほど強く。

 憎い。憎い。憎い。憎い。

 陽一は尚子のナイトである。である以上、その身に代えても尚子のことを守らなければならない。それができるのは、自分しかいないのだから。

「いぎぎぎぎぎぃぃ」

 握りしめる拳をふるふるっと震わせ、今はただ部屋の明かりを睨みつけている。

 憎しみに憎しみを重ねて、さらなる憎悪の炎をその背中に激しく燃やしつづけ、その体に煮えたぎる激情は、すでに殺意の域まで達していた。

「ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぃぃぃ!」

 憎い。憎い。憎い。憎い。


 午後九時三十分。

(…………)

 中央に設置されている街灯では、公園の隅々を照らすには役者不足であり、そんな暗い西城公園にあるベンチの前でベランダを見上げている陽一の視界。そこにはここにやって来てから一時も変わることなくベランダから漏れる208号室の明かりを映している。

(……っ!?)

 と、次の瞬間、視界の場景に変化が生まれた。部屋から漏れている明かりに、さっと人の影が動いたのだ。

 見上げていた部屋の様子に変化があった。陽一は慌てて建物の反対側まで回ると、尚子と男が道路まで出てきているところではないか。

「…………」

 息を殺して、遠目で二人の様子を見つめる陽一。

 そんな陽一の視界、二人はその場で少し話し込んでいる様子。男はここにやって来るとき同様に背広を着ていたが、尚子は帰ってきたときのスーツではなく、ラフな半袖のシャツとジーンズを穿いていた。

「っ!?」

 目を見張る。あまりの光景に瞼が引き裂かれたみたいに大きく見開かれていた。それはもう目を疑うなんてレベルではない、とても現実で起きたことだとは信じられない光景が陽一の前で展開されたのだ。

(あの野郎ぅ!)

 握る握る。拳を握る。握る握る。強く握りしめる。爪が皮膚に強く食い込んで痛みを感じるのだが、そんなの関係ない。今はもうそんなことをいちいち気にしている必要もない。ただ込み上げてくる激情をそこで押し潰しているかのように、全力で拳を握りしめていく。

(殺す!)

 殺す! 殺す! 殺す! 殺す!

 視界にはもう尚子の姿はない。すでにアパートに戻っている。さきほど階段を上がっていく音がした。もう部屋に戻っている頃であろう。

 一方、男の姿もすでにない。さきほど街灯が照らす夜道を歩いていってしまった。方角からして、北曽根駅に向かっているものと思われる。

(殺してやる!)

 問題とすべきは、あの男が陽一の前で行ったこと。

 さきほど、陽一の目の前で、二人の顔が交錯したかと思うと、キスをした。

 あの男、あろうことか尚子の唇を奪っていったのである。

 汚れなき神聖な領域を、土足で踏みにじったのだ。

 罪は万死に値する。

 死刑。

(ぶっ殺してやるぅ!)

 キスをした。あの尚子にキスをした。そんなこと、到底許されることではない。あろうことか、あの尚子にキスをするだなんて。日本が崩壊しようとも、断じて許されることではない。

(殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!)

 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!

(殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!)

 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!

(殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!)

 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!

(ぶっ殺す!)

 足を前に踏み出していく。

 陽一には、そちらが前であることが分かっている。

 だからこそ、踏み出していく。

(がああああああああああああああああああああっ!)

 次の瞬間、不気味なまでに大きく頬が緩んだかと思うと、陽一は夜の闇夜に溶けていった。


 背中がある。背広が見える。追いつくことができた。決して声をかけることはない。ただ、すぐ後ろで、西城公園にあった、ごみについての注意書きが記載された看板を振り上げて、男の頭部目がけて振り下ろす。

 渾身の力を込めて。

 その身に強大な残虐性を宿しながら。

(ぎゃはははははははははははははははははははっ!)

 殴りつける。殴りつける。殴りつける。殴りつける。

(ぎゃはははははははははははははははははははっ!)

 殴りつけていく。殴りつけていく。殴りつけていく。殴りつけていく。

(ぎゃはははははははははははははははははははっ!)

 陽一の視界、路面に丸まった背広の姿。それはすでにぴくりっとも動かない。さきほどまでは『うっ』とか『がはっ』とか呻いていたが、もはやその口を動かすこともできないように、発声器官から音という音が出せなくなったかのごとく、背広の男はそこに横たわっていた。

(ぎゃはははははははははははははははははははっ!)

 息を激しく弾ませながら肩を大きく上下させて見下ろす陽一。そこに満面の笑みを浮かべて。

(ぎゃはははははははははははははははははははっ!)

 これでいい。これでこの男から尚子は解放された。

 これで尚子には平穏なときが訪れることとなる。

 よかった!

 よかった! よかった! よかった! よかった!

 これで世界が救われた。

(ぎゃはははははははははははははははははははっ!)

 ずるずると、引きずっていく。その男のためなんかに、わざわざ持ち上げるような労力をかける必要はない。この道路からまるで汚いものを除去するように、ずるずると、引きずっていく。

 今ではすっかり動かなくなった背広を引きずっていって、そのまま近くにある駐車場の端に放置した。

 これでよし。

「やったよ、尚子」

 身動きせずに、ただただ横たわっている背広に唾を吐き出すと、陽一は踵返していた。

 そうして再び闇へと消えていく。

 さらには闇と一体化していく。

 次は、メゾン古橋の208号室。

 目指すは、尚子の祝福の笑み。

 その心を陽一のすべて満たしてあげるために。

 陽一は、また足を前に踏み出した。


 二階の通路にある電灯がぱっと点いたと思ったら、すぐ消える。暫くちかちかっと点滅したかと思うと、また点いて、すぐ消えた。また暫く点滅。その繰り返し。蛍光灯の寿命であろう、もう数日もしないうちに切れるに違いない。

「はぁはぁはぁはぁ」

 メゾン古橋。二階。陽一は208号室の扉の前に立っている。通路の照明が不安定のため、とても薄暗い。しかし、そんなこと今の陽一には関係ない。不安定な明かりによる暗さなど、どうということはない。これから眩いばかりの至福のときが訪れるのだから。

 目の前、そこにはこれまで決してそこを越えることのなかった扉がある。陽一と尚子の壁。

 扉の右側にある表札には名前が表記されておらず、すぐ下にインターホンのボタンがある。丸いボタン。押す。以前と違って、その行為に一切の迷いもなければ微塵の躊躇もない。伸ばした右手の人差し指が、部屋の内と外をつなげるインターホンのスイッチを押した。

 ぴろぴろろーんっ。ぴろぴろろーんっ。

 扉の内側から電子音が聞こえてきた。陽一がインターホンのボタンを押したからである。それが外にいる陽一の耳にもしっかり確認することができた。であるならば、すぐにでも目の前を閉ざしている扉が開くだろう。

 胸の鼓動は高まるばかり。

 ようやくこのときが訪れた。

「はぁはぁはぁはぁ」

 荒い呼吸のまま、肩の上下運動を止めることができない。それ以上に、自身に渦巻く興奮が静まることはない。もうこんな場所でじっとしていられない気分。扉を破壊して飛び込んでいきたい気持ち。

 ばくばくばくばくばくばくばくばくっ。

 飛び出しそうな心臓の暴走が、なぜだかとても心地よかった。

「はぁはぁはぁはぁ」

「……どうしたの、忘れ物ぉ?」

「はぁはぁはぁはぁ」

 静かな空間に響くがちゃりっの音ととも、ずっと閉ざされていた扉が半分ほど開いた。

 扉の内側から現れたのは陽一がいつも見ていたスーツ姿ではなく、半袖のシャツにジーンズというラフな格好の尚子。その尚子が目の前にいる。それはもう、まさしく手を伸ばせば届く距離。

 さらに勢い増していく胸の鼓動。どきどきどきどきどきどきどきどき!

 とてつもなく気持ちがいい。

「はぁはぁはぁはぁ」

「あの……」

「はぁはぁ……やったよ」

「はい……?」

「やったよ、尚子」

「あの……」

「やったんだよ!」

 言うが早いか、陽一は半分しか開けられていなかった扉に素早く左足を突っ込んだ。チェーンロックは外されている。そのまま相手の抵抗をもろともせず、扉の内側に陽一は体を強引に擦り込ませていった。それは、これまで何度も練習してきたみたいに流れるような動作である。

「尚子!」

「ちょ、ちょっと!」

「ははっ、やったんだって!」

 抵抗する相手を押し込むようにして体ごと玄関へと進入していく。もうその進行は止められない。

 その陽一に押される形で、尚子は『きゃっ』と小さな悲鳴を上げながら玄関で尻餅をついた。

 陽一は変わらぬにこやかな笑みを携えたままに、今は床に座っている尚子の姿を目に映す。

 その目で、その存在のすべてをやさしく包み込むようにして。

「尚子、おれがさっき、あの男、ぶっ殺してやったからな」

「ちょっと! やめてください。警察呼びますよ」

「お前を困らせてたあの男、殺してきてやったからさ」

 陽一は顔の前にやった両手を見つめる。その手で成し遂げた。

 唇を大きく歪めて、さきほど自分がした行為を思い出しては気持ちが高揚するように、極限まで力の入った両手をふるふるふるふるっ震わせている。

 絶頂たる興奮状態はまだまだ冷めることはない。

「これでもう大丈夫だからな。これでもう」

「もう出ていってください。警察呼びますよ」

「もう安心だ。安心だからな」

「出ていってって言ってるでしょ!」

「っ!?」

 その耳に大きな声がした。それは思いもしなかった声。

 声は前から聞こえた。前を見つめると、そこにいる尚子は睨みつけるように陽一のことを見つめている。そこにある口がさきほどの大きな声を出していた。

 陽一にはそうされる理由が分からない。

 ただただ現状を不可思議に思う。

「おい、どうしたの?」

 おかしかった。雰囲気がおかしい。尚子に付きまとう害虫を駆除してきてやったのだ。感謝こそされ、睨まれている意味が分からない。ただただ疑問である。

「おい、尚子?」

「ひぃ!」

「っ!?」

 おかしい。これはおかしい。一歩前に出た。相手を安心させられるように手を伸ばした。すると、尚子は恐怖に顔を歪めるように、倒れたまま後退りするではないか。

 なぜそんなことをするという? 分からない。そんなことをすると、距離が開いてしまうのに。

「どうしたんだよ、尚子?」

「来ないで。来ないで」

「尚子?」

 おかしい。おかしい。おかしい。おかしい。

 これはおかしい。

 陽一にはさっぱり状況が理解できない。理解不能。理解不能。理解不能。理解不能。なぜ尚子が自分と距離を取ろうとしているのかが分からない。

「尚子ってば……?」

 陽一の視界、尚子の姿が玄関前の台所から奥の部屋へと消えていく。それも歩いていくのではなく、手を床に、這いずり回るかのように。

 その姿、まるで恐怖から逃れたいかのごとく。

 少しでも早く、少しでも遠くへ。

「尚子……?」

 やはり陽一の頭から疑問符が消えることはない。

 逃げる必要などない。なぜなら、尚子にとっては、陽一が逃げられるような存在ではないからである。いや、そればかりか、陽一は尚子のことを助けてあげたのだ。変な男から守ってあげたのである。

 そんな、逃げられるようなこと、ない。

 恐れられるような存在では、ない。

 断じて、ない。

 ない。

 ないはずなのに!

「おい、尚子!」

 目の前で展開されている状況のおかしさに、陽一の声は思わず大きなものとなっていた。分からない分からない分からない分からない。尚子の行動が分からない。まったくもって理解できない。

 突きつけられた現実に、思わず靴を脱ぐという当たり前の行為も忘れてしまった。土足のまま尚子を追いかけるようにして部屋へ踏み込んでいく。

「っ!?」

 がくがくがくがくっ。尚子は震えていた。その姿、極寒の地で歯をがちがちっ震わせて寒さに耐えているようだった。もちろんそれは決して冷房による寒さで震えているわけではない。得体の知れない漠然とした恐怖に怯えるように、体を縮め込ませて震えている。

 そして尚子は、陽一が部屋に入ると同時に小さな悲鳴を出して、壁際まで移動していた。そうしてまたそこで全身を震わせている。まるでそこが陽一から一番遠い場所であると同時に、それが行き止まりでどこにも逃げ場がないかのごとく。震えている震えている震えている震えている。弱り切った小動物のように震えている。

 今はもう、そうやって震えることしかできないように。

「おい、もう安心しなって。もうあの男はこないから」

 ついさっき、殺してきたから。

 これでもう怖がる必要はない。

「おい、尚子ってば。もう大丈夫なんだってば」

「…………」

「ほら、落ち着けよ。もう安心だから」

「……や」

「尚子……?」

「や、だ……やだ!」

「尚子?」

「こっち来ないでってば!」

「っ!?」

 悪魔にでも呪われているかのごとく、狂気を思わせるほど尚子は声を裏返らせて叫び声を上げたかと思うと、近くにあった文庫本を握っていた。と思ったら、尚子はそれを大きく振り上げて、陽一に投げつけてくるではないか。

 空間を渡る文庫本は、相手のおかしな様子に目を見開いている陽一の額に当たる。そのまま陽一の足元に落ちていく。

 痛みがあった。

 陽一は、足元に落ちてカバーが外れかかっている文庫本を見つめてから、その視線を再び尚子に向ける。

 やはり現実は、陽一の理解できるものではない。

「……お前、なにしてんだよ?」

「来ないでよ来ないでよ来ないでよ来ないでよ」

「なにそんな怯えてんだよ?」

「やめてよぉ!」

「…………」

 おかしい。おかしい。おかしい。おかしい。やはりおかしい。こんなのおかしい。おかしいに決まっている。自分は英雄なのだ。姫を陥れようとしていた不埒な輩を退治した英雄なのだ。もっと感謝されて、感激されて、超絶な愛を持って快く迎え入れられるはずなのに。

 なのに、なんだこれは!?

 尚子がおかしくなってしまっている?

 拒絶されている?

「…………」

 尚子は怯えている?

 尚子が自分に怯えている?

 そんな馬鹿な話があっていいはずがない。怯える必要などない、陽一は一切危害を加えようとしているわけではないのだから。

 いつもそう。陽一は尚子のために力になってあげている。尚子のことを苦しめる存在は断じて許さない。

 それなのに。

 尚子は、陽一を、恐れている。

 ああして、今も、恐怖に顔を歪めて。

「…………」

 この構図、これではまるで陽一こそが害を成す存在ではないか。

 違う違う。陽一が悪のわけがない。そんなわけがない。

「…………」

 眼前、尚子が恐怖に顔を歪めている。全身を激しく震わせいる。

 陽一は、尚子に、疎まれてしまっている。

 せっかくその手を闇に染めてあの男を退治してきたのに、その行為が意味を成さなくなってしまう。

 そんなこと、あっていいわけがない。

 あっていいわけがない!

「……ぃ!」

 歯噛みする。ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりっ! 音を立てながら歯噛みする。力いっぱい、溢れ出る感情を込めて、食いしばっていく。

 刹那には、かっ! と双眸に力が入ったかと思うと、尚子に向かってもう一歩踏み込む。

 そうしてさらにもう一歩、もう一歩、もう一歩、尚子に近づいていく。

「…………」

 目の前の尚子は、両腕で保護するかのように自分自身のことを抱きしめていた。

 すぐ前にいる、陽一のことを見ようともしないで。

 膝に顔を埋めて震えている。

「…………」

 陽一がせっかく悪を退治して、ここまでやって来たというのに、尚子は現実に恐怖して震えている。

「…………」

 変わらない。陽一が近づいたところで、尚子から恐怖の色が消えることはない。

 そればかりか、その色は増していくばかり。

 陽一は、尚子にとって、恐れるべき存在として捉えられていた。

 陽一は、尚子にとって、害を成す存在であるように。

「…………」

 そんな、馬鹿な!

 馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な!

 そんな馬鹿な話あっていいはずがない!

 そんなこと、あっていいはずがない!

 自分は尚子を守ったのだ!

 尚子のナイトなのだ!

 自分がいるからこそ、尚子はこうして生きていけるのだ!

 それなのに!

 これではあまりにも!

「があああああああああぁ!」

 咆哮。

 その理由が自分でもよく分からない。ただ、力が次々と溢れてくる。そうして、湧いてくる泥水を吐き出すように、陽一という存在の隅々に力が入っていく。

 入る。入る。入る。入る。力が入る。全身全霊の力をもうすぐにでも破裂させんばかりに。

 力が入る。

 陽一の腕に力が入る。

 入る入る入る入る。

 力が入る。

 漲っていく。

「馬鹿なこと言ってんじゃねーよおおおおおおおぉぉぉ!」

 絶叫するように言い放つと、陽一は尚子の細い首を掴んでいた。さきほどあの男を襲ったその両手で、がっちりと。

 次の瞬間、掴んだその首を力いっぱい壁に打ちつけていた。どんごんどんごんっ! 打ちつけていく。

 何度も。

 何十回も。

 打ちつけていく。

 どんごんどんごんどんごんどんごんどんごんどんごんっ!

「おれはずっと、お前のことを守ってきてやったんだよおおおおおおおおおぉぉぉ!」

 壁に、尚子を、打ちつける。

 力いっぱい打ちつける。

 打ちつける。打ちつける。打ちつける。打ちつける。尚子を壁に打ちつけていく。

 そこに、その行為に、陽一の奥底から溢れ出る感情をそのままぶつけるようにして。

 どんごんどんごんどんごんどんごんどんごんどんごんっ!


「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ!」

 呼吸はとても荒かった。まるでマラソン大会で完走したときのように、呼吸そのものがじゃじゃ馬のように暴れて制御できない。

 熱い。全身が物凄く熱い。まるで燃え上がるかのよう。

 熱い。熱い。熱い。熱い。

 心臓は今にも爆発せんばかりに、激しく狂うほど脈打っていた。どくどくどくどくどくどくどくどくっ!

 乱れる息によって両肩どころか全身を大きく上下させながら、陽一はその存在をそこに立たせている。倒れてしまいそうな意識を気力だけで保ち、崩れてしまいそうな存在をぐっと力を入れて踏ん張って。

 立っている。立って目の前にある光景を見つめている。

「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ!」

 その目に、絨毯の上で横たわる尚子の姿があった。

 ぐったりと、力なく。

「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ!」

 横たわっている尚子の頭部の方は、どす黒く気持ちの悪い液体で溢れている。それが絨毯をぎとぎとに染め上げていた。

 血液。

「はぁはぁはぁはぁ……はぁはぁはぁはぁ……はぁはぁ……」

 そんな、馬鹿な。

「はぁはぁはぁはぁ……はぁはぁ……」

 こんな馬鹿なこと、起きるわけが、ない。

「はぁはぁ……」

 こんなの、信じられるわけがない。

「…………」

 嘘に決まっている。

「…………」

 陽一のすぐ前、尚子が身動きすることなく横たわっている。頭部から大量の血を流しながら。

 長い髪は放射線状に広がっており、そこに満ちている液体を吸い込んでいるみたいに。

「……ち……」

 違う。

「……違う……」

 こんなの、違う。

「おれ、は……」

 揺れる。陽一が揺れる。精神が揺れる。心が揺れる。全身が揺れる。揺れる揺れる揺れる揺れる。藤木陽一という存在そのものが揺れていく。

 その存在、今は小さな風にすら倒されそうなほど。

「おれは、尚子を、幸せに、するんだ……」

 だから、目の前の光景は、違う。これは違う。こんなではない。

 違う違う違う違う。

 これは、違う。

「おれは……」

 瞬間、まるで電気ショックを受けたかのごとく、全身が大きく縦に痙攣した。それほど心臓が強く脈打ったのだ。

 どっくんっ!

「おれはあああぁぁぁ!」

 視界が赤い。赤。赤。赤。赤。真っ赤。見るものすべてが赤色。どこをどう見ても赤色。赤。赤。赤。赤。

 赤。

「だああああああああああああああああああああぁぁぁ!」

 全身の力という力が、この場にいることを拒絶していた。陽一のありとあらゆるものが、この世界を全否定していた。

 すでに走り出している。踵を返したかと思うと、まるで扉に体ごと飛び込んでいくように玄関から飛び出していき、狭い通路を駆け抜けていく。途中、何かにぶつかったような気がしたが、そんなことはどうでもいい。

 駆ける駆ける駆ける駆ける。夜の闇を駆け抜けていく。

「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!」

 もはやどこに向かっているかなど意味がない。ただあの場所から逃れるために、陽一はすべての力を振り絞ってその存在を動かしていた。

 あの場所から逃れるように。


       ※


 その場所はとても風が強かった。

「はぁはぁはぁはぁ!」

 辿り着いた場所。すぐ横に街灯がある。点灯しており、陽一のことを照らしてくれていた。

 目の前にベンチがある。座ることなく、中腰になって吐き出していた。内臓からくる気持ち悪いものすべてを。

「がばばばっ!」

 胃酸やら唾液やらが付着した口元を手の甲で乱暴に拭う。吐き出しては、拭う。吐き出しては、また拭う。だからといって、一向に気持ちの悪さが和らぐことはない。そういう間にも、また吐き出されていく。

 歯止めのきかない気持ち悪さは、存在が粘性の強く汚染されたへどろに犯されているよう。

「はぁはぁはぁはぁ!」

 荒い。あまりにも荒い息。その全身は、血液が沸騰しそうなほどの強烈な熱を有している。熱い。そして気持ちが悪い。苦しい。喉が焼けるよう。頭が押し潰されるように。

「はぁはぁはぁはぁ!」

 風が吹く。とても強い風。全長百五十メートル以上ある巨大な石分橋の上。中央部分に設置されているベンチの横。気がつくと、陽一はそこにいた。

 この場所で、自身を覆い尽くす超絶な苦悶に襲われていた。もう耐えられないほど強烈に。

「はぁはぁはぁはぁ!」

 脳裏には、赤く染まった尚子の姿がある。その姿が一瞬たりとも消えることがない。頭部から大量の血を流し、陽一のすぐ前で横たわっている。

 身動き一つすることなく。

 次々と血液を放出して。

 尚子が横たわっている。

 ぐったりと。

 ただそこに。

 とても小さな灯火で。

 今にも消えてしまいそうな。

「がばばばっ!」

 尚子をそうしてしまったのは、紛れもなく陽一だった。その手で尚子をあのような姿に変えてしまったのだ。それはとても罪深いものでしかない。

 そんなつもりはなかった。陽一の願いは、尚子の幸せ。ただそれだけを一途に願っている。そのために、あの下衆野郎に手をかけたのだ。だというのに、あろうことか、尚子をあの姿にしてしまった。

 こんなの、この世界そのものが到底信じられることではない。

 これはもう、世界そのものが狂ったとしか思えない。

 こんな世界、間違っている。

 すべてが間違っている。

「がばばばっ!」

 次から次に溢れ出る嘔吐物。陽一の心の奥底に積もり、溜まりに溜まった混沌が次々と噴き出していくかのごとく。

 血反吐は足元にびちゃびちゃっと落ちていった。

「がばばばっ!」

「……すみません、大丈夫ですか?」

「っ!?」

 突如として空間に湧いて出た声。陽一にかけられた声。自身の存在を保つことで精一杯の状態である陽一には、他なんて気にしている余裕はない。

 だというのに、こんな窮地にある状態で声をかけられた。

 そんなの、とても対応していられるだけの余裕がないというのに。

 心で舌打ちをする。

「ぐがあぁ」

 こんなすぐにでも倒れそうなほど不安定であり、物凄く脆くなってしまった存在だというのに、それでも声をかけられてしまったのだとすれば、とても無視できるようなものではない。

 苦悶の表情のまま、ゆっくりと視線を動かしてみると、そこには自転車を押している警察官がいた。こちらを心配そうに覗き込んでいる。

(っ!?)

 そこに立っていた人物の職業に、後頭部が烙印を押されたような焼ける衝撃を受けていた。

 その痛みに、襲われる多大なショック、とてもこの世のこととは思えない現状に、どうにかして耐えるよう、耐えるように歯を食いしばる。

 血が唇に滲んでいった。

「ぎいいいいぃ」

「あの、随分と顔色優れないみたいですが、大丈夫ですか?」

「がはああ!」

 目の前にいるのは、決して出会っていい人間ではない。

 目の前にいるのは、決して見られていい人間ではない。

 目の前にいるのは、決して知られていい人間ではない。

(だあぁ!)

 現状の陽一、残された選択肢は一つしかない。

 逃走。

 しかし、だからといって陽一には逃げられるほどの体力はとてもではないが残されていなかった。

 ただ今は、そこに存在していることしかできやしない。それだって今にもふっと消え去ってしまいそうなほどか細いものだというのに。意識は今にも混濁のなかに溶けていってしまいそう。

(ぎぃ!)

 陽一の目の前、柵がある。周囲が暗いためと、まともに瞳を開けていられないため、その色まではよく分からないが、自分の胸の高さまである柵がある。

 ここは橋の上なのだ、柵の向こう側には何もない。

 陽一のすぐ後ろには、今にも自分に触れようとする警察官がいる。

 まずい!

 まずい! まずい! まずい! まずい!

(ああああ)

 最後の力を振り絞る。もうこれ以上立っていられなくなったとしても関係ない。もうこの先存在を保てなくなったとしても関係ない。今こそ残された力を出すしかない。それしか術がないのだから。

 また後ろから声がした。力を出そうとする陽一に声がかけられた。

 関係ない。振り返ることすらしない。もう自分には前しかない。

 足を前に踏み出す。

(だはあぁ!)

 陽一は、自分の胸ほどある柵を乗り越えた。

 そこが唯一の前であると信じて。他に道がないと疑うことなく。

 前へ。

(はああぁ)

 僅かに残された搾りかすのような力を出し切って、陽一は橋の上にあった柵を乗り越えていった。柵の向こう側には足の踏み場どころか、何もない。ただただ闇のみが支配している。

 水面からの高さは十メートルほど。陽一の全身に一気に襲いくる重力に抗うことなく、そのまま落下していく。

 落ちていく先は光の存在しない漆黒の闇。

 闇。闇。闇。闇。

 その全身は、これまで感じたことのない浮遊感に包まれている。ぷかぷかっとプールに浮かんでいるようでありながらも、ぐしゃっ! と強烈な力によって水面に叩きつけられるような衝撃を受ける。

 落ちていく。落ちていく。落ちていく。落ちていく。ただ今は重力に従って下に落ちていく。そうすることしかできないように、陽一は落ちていく。

 闇へ向かって。

 落ちていく。


 地に足のつけられない不気味な恐怖心がある。

 全身を万力のような力で押しつけられる圧迫感がある。

 強烈な津波に押し流されるような絶対的な絶望に支配される。

 もはや、現状は陽一の意識でどうこうできるものではない。

 すでに、陽一の自由は奪われていた。

 その意識はもはや風前の灯火。

 苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。

 痛い。痛い。痛い。痛い。

 辛い。辛い。辛い。辛い。

 今や、もがいたところでどうこうなる問題ではない。

 今や、足掻いたところで助かる見込みなどない。

 今や、諦めたところで少しも楽になることすらない。

 陽一は闇に包まれる。光のない漆黒の闇に包まれる。

 そうして、闇そのものへと変貌する。

(…………)

 目の前に尚子がいる。その幻がこちらをじっと見つめて、頭部から大量の血を流している。血は頬に流れて、床に落ちていく。床が血で溢れていく。どんどんどんどん溢れてくる。あっという間に空間を支配したその血は、陽一の視界すべてをそのどす黒い色に変え、世界すべてに満たされていく。

(…………)

 痛い痛い。痛い痛い。頭が痛い。腹が痛い。腕が痛い。膝が痛い。目が痛い。耳が痛い。胃が痛い。腎臓が痛い。心臓が痛い。心が痛い。痛い痛い。痛い痛い。

(…………)

 溶けていく。陽一のすべてが闇に溶けていく。頭が溶けていく。腹が溶けていく。腕が溶けていく。膝が溶けていく。目が溶けていく。耳が溶けていく。胃が溶けていく。腎臓が溶けていく。心臓が溶けていく。心が溶けていく。溶けていく溶けていく。あらゆるすべてが溶けていく。

(……  )

 一切の光が存在しない。そこにはもう黒色すら存在しない。闇。そこは闇。

 闇。闇。闇。闇。

 闇色が陽一を覆い尽くし、そのまま取り込んでいく。

(    )

 闇だけが残されていた。

 真闇。


       ※


 七月二十九日、土曜日。

 早朝。喜多川の河口付近で藤木陽一の水死体が発見された。

 その表情は、不幸のどん底へと陥れてしまう悪魔を目の当たりにしたように、醜く歪んでいるのだった。

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