恋のみごろし

@miumiumiumiu

第1話  終焉のその後


 終焉のその後



       ※


 七月二十九日、土曜日。

「…………」

 井上いのうえとも大名希だいなき北高等学校三年生。サッカー部員。短い髪に、男としては大きい瞳。今は公園のベンチに座り、目の前にある噴水を眺めている。

 噴水は中央部分が大きく上に向かって噴き上がっていた。

「…………」

 まるで激しく迫ってくるかのように、周囲の蝉の声が騒々しかった。もう太陽は西の空に傾きつつあるのに、物凄く蒸し暑く感じる。額に浮かぶじっとりとする汗を深いに思いつつ、前ボタンのシャツの胸元をぱたぱたっさせながら、智は正面で噴き上がっている水の舞いを目にしていた。

「…………」

 とくとくっ。とくとくっ。鼓動は、普段と比較して随分速いもの。これからこの場所で普段ではないことが起きる。その意識から、智の脈動の周期が狂いつつあった。

「…………」

 噴水近くには子供の姿はない。昼間ならともかく、この時間ではもう家に帰っているのか、一人として子供の姿を見ることはなかった。

 その代わりに、カップルの姿がちらほらと目につく。学校の制服を着ていたり、一緒にアイスクリームを食べていたり。どれも楽しそうである。

 そんなカップルの姿、智には居心地の悪いものでしかない。

「…………」

 智は待っている。ここに座って、ある人物を待っている。

 それは、ここで、今日こそ、すべての決着をつけるために。

「…………」

「ごめーん、待たせちゃったかな?」

「っ!?」

 全身がびくんっと縦に大きく揺れると同時に、心臓が大きく跳ねた。一気に上昇する体温を意識しつつ、その心情を相手に悟られないように、ゆっくりと右斜め上に顔を上げていく。

 上がった智の視線の先、そこには白シャツにチェックのスカートという大名希北高等学校の制服に身を包んだ少女が立っていた。髪は肩までかかり、百六十五センチメートルと女子としてはやや高い身長。肩からは大きなスポーツバッグをかけている。どうやら部活帰りのようである。

「……十分遅刻」

 近くにある時計は六時を十分ほど回っている。

 これは決して智の口から出ることのないことだが、智は四十分前にここに座っていた。大きな覚悟を胸に。

「……そっちが呼んでおいて」

「ごめん、ってさっき謝ったじゃん。でも、ごめん。ごめんなさい。ほんとのほんとにごめんなさい。よし、謝った。それもとっても素直に。うんうん。だから智もそんな細かいこと気にしないでね。はい、お詫びってわけじゃないけど、智が大好きで大好きでそれがないと蕁麻疹じんましんが出ちゃうっていうオレンジジュース」

「出ないよ、んなもん。でも、いいのか? ありがと」

 近くの自動販売機で買ったばかりのようで、缶はとても冷えていた。高鳴る心臓に周囲の気温もあり、智はさっそく喉を潤していく。オレンジの甘味と僅かな酸味が口に広がっていき、一度で缶の半分ほど智の喉を通過していった。

 意識して息を吐き出す。

「……で?」

「今日ね、勝ったよ」

「部活? そっか、試合だったんだ。よかったな」

「うん、よかったよ。なんたって勝ったんだからね。ビクトリー。にしても、かなりの辛勝だったけどね。たははっ。でもでも、あたしはばっちしヒット三本打ったし、エラーだってしなかったんだよ。今日はちょっとひめぇが調子悪かったけど、でも勝てたからよかったよ。うんうん。でもって、明日はもう大丈夫。うん、明日はもう大丈夫なんだよ。だから明日もばっちり勝っちゃうもんね。ビクトリービクトリー」

「意味がよく分からんが、凄い自信なんだな? うーん、明日か? おれは練習があるから応援にはいけないけど、でも、うん、応援してるよ」

 智が所存するサッカー部は、夏の大会が迫っていた。

「明日の相手は強そうなのか?」

「ううん。普段のあたしたちなら楽勝、とまでは言わないけど、でも、大丈夫。ってより、今日の相手もコールドしてもおかしくない相手だったんだけどね。いやー、まさかあそこまで苦戦するとは思わなかったわー」

「コールドしてもおかしくない相手に、まさかの一点差?」

「まあね……」

 少女はゆっくりと息を吐き出す。と同時にぼそっと。

「……今日は普段じゃなかったからね」

「うん……?」

「ううん、別に」

 にっこり笑顔。少女は茜色に染まりつつある上空に向かって組んだ手を伸ばしていき、伸ばしていき伸ばしていき、一気に脱力した。それはとても気持ちよく。

 吹いてきた風に、少女は嬉しそうに目を細める。

「あたしたち、この大会で引退しちゃうからね。だから、みんなと一試合でも多くやりたいわけよ。ってより、はっきり言って優勝狙ってます。ってのか、毎回優勝は狙ってるんだけどね」

「やっぱり自信満々だな」

「自信だけなら誰にも負けないよ。えっへんっ」

「んなことで胸張られても」

 大粒の汗が智の額に浮かぶ。

 握っている缶。それを口元に運ぶ。その二口目ですべて飲みきっていた。

 空になった缶をベンチに置く。水滴が小さな染みを作る。今日も物凄く暑い日だった。

「……で?」

「で?」

「返されても……」

 困ってしまう。

「今日呼んだのは、その勝利報告のため? だったら、おめでとう。よかったな、引退にならなくて」

 どきどきどきどきっ。鼓動が速くなる。相手に聞こえるのではないかと不安になるほど智の心臓がおかしくなっていく。どきどきどきどきっ。それは言葉を吐き出すごとにおかしくなっていく。けれど、口を止めるわけにはいかない。今日こそすべての決着をつけるのだから。

「それとも、その……」

「試合に勝ったことは大事だよ。だって、負けてたら引退だったからね。一回戦で負けちゃって、そのまま引退なんてとっても悲しいじゃん。『あたしたち、三年間何やってたんだよぉ!?』って感じになっちゃうからね。そうだったらさ、多分、こんなにこやかにはいられなかったよ。けどけど、もちろん今日のメインはこれからだけどね」

「そう……」

 智には、少女が今から口にしようとしているメインの内容が分かってしまう。だからこそ、全身は意味なく力んでしまった。

 どきどきどきどきどきどきどきどきっ。

「聞かせてくれるんだ、ようやく」

「うん」

「…………」

 相手に悟られないように小さく深呼吸。吸って、吐いて。覚悟を決めるように、腹部の中心に力を入れる。

 これで準備万端。これから先、少女から紡がれるどんな言葉だってしっかり受け止めてみせる。

「…………」

「暑いね、今日も」

「…………」

「この分だと、明日もきっと暑いだろうね」

「…………」

「だから、明日もあたし、大活躍しちゃいそうだよ。明日こそ、かきーんっとホームランだー」

「…………」

「たははっ」

 笑って笑って笑って笑って……そうして少女は深々と頭を下げた。

「ごめんなさい」

「…………」

「やっぱりあたし、智とは付き合えない」

「…………」

「ごめんなさい」

「…………」

「智ってさ、女の子に結構人気あるんだってね。これは驚いちゃったよ。びっくりした。だからね、あたしなんかじゃなくてさ、もっといい子にしときなよ。うん、それがいいよ。きっといい人がすぐ見つかるから。なんなら明日にでも、とか」

「…………」

「あたしは智のどこがいいのかよく分からないけど、でも、人気あるんでしょ? って、あんたにいてもしょうがないよね。『ああ、人気あるんだぜ!』なんてニヒルに言われたら張り倒すところだからね」

「…………」

「絶対、絶対、絶対、絶対、これはもう絶対に智にはあたしじゃなくて、智に合った人がいるはずだよ。いや、いるんだよ。絶対に。だからさ、あたしのことなんて好きになっちゃ駄目だよ」

「……好きなんだよ」

 智の本心。

 今月の上旬、放課後、理科準備室の前の廊下、智は告白した。

 それから期末テストがあったり、終業式を経て夏休みに入ったりと、今日までずっと返事を聞けず、それが影響してか、期末テストの成績は下がり、部活もあまり集中できていなかった。

 そのことについて、一度告げたことがある。『お前のせいで最近のおれは駄目なんだ。だから早く返事してくれ』思い返してみると、なんとも惨めというか、そんなこと言うべきではなかったと思っている。そもそも、少女が返事をくれそうなとき、あろうことか智が逃げてしまったのだ。そんなこと言えるような資格なんてあるわけなかったのに。

 だから待った。待つことにした。こちらからではなく、相手の方から返事してくれるのを待っていた。

 待って待って待って待って、そして今日だった。

 結果は……思わしくないようである。

「どうしても駄目なのか?」

「うん、ごめん……」

 少女は下を向く。けれど、吐き出す言葉に迷いはない。

「あたしね、好きな人がいたの」

 とてもにこやかで爽やかな表情。少女の笑み。

「あたしね、その人のこと、ずっと好きだったの。そりゃもう、ずっとずっと好きだったんだからね。もうその人のこと以外、考えられなかった」

 少女は顔を上げる。徐々に赤くなりつつある西の空を見つめる。その向こう側に、過去の自分を見つめるように、目を細めて。

「けど、駄目だった。駄目だったんだよ。はははっ。あたしじゃ駄目だった」

「…………」

「あたしの好きだった人には好きな人がいて、でね、今度その人と結婚しちゃうんだってさ」

 少女は、少女にとってとても大事なことなのに、まるで大した内容ではないような口調で、つづける。

「だから、駄目だったよ。とほほのほ。あー、恥ずかしい」

「……おれは、平気だぜ。おれだったら、平気だから」

「それも駄目」

 少女は手を横に振る。

「あー、っていうか、誤解しないでね? 智が駄目なわけじゃなくて、あたしが駄目なんだよ」

 手を叩く。ぱんっという音が出た。少女の頬は嬉しそうに緩んでいく。

「あたしね、とってもとってもひどい人間なんだよ。特にいざってとき、それはもう残酷なほどにね。もう自分で自分のこと、軽蔑しちゃったよ」

「いや、そんなことないだろ」

「あるんだよ」

 少女は相手を威圧するような不敵な笑みを浮かべる。

「智ってさ、きっとやさしいよね。うん、そうに違いない。だって、こんな哀れなあたしを好きになるぐらいだから。もう人類の救世主になれるぐらい、やさしいんだよ。うんうん」

「自分のこと、そうやってへりくだってるの、お前らしくない気がするけど」

「ううん、そんなことない。そんなことないって。だって、これがあたしなんだもん。ってより、遜るっていうか、あたしはあたしのこと、嫌いになっちゃったから」

「なんでそんな、自分のことを……別にそんなことする必要ないだろ? 誰だって悪いところの一つぐらい、あるもんだろ。どうせさ、些細なことでいじけたりしてるんじゃないのか?」

「だったらいいんだけどね……あたしのは本物だから」

 少女の目は真剣そのもの。

 自然と空気が張り詰めていく。

 空気を圧迫させる原因となっている少女の口は、止まらない。

「智さ、もし、もしだよ? もし、目の前で誰かが死にそうになってたら、どうする?」

「どうしたんだよ、突然?」

「どうする?」

「だから、どうしたんだってば?」

「どうするの?」

「んっ……まあ、それは……」

 今の少女には、決して抗うことのできない迫力というか、鬼気迫るほどの凄味があった。その真剣さが表情からもその全身からも、ひしひしと伝わってくる。

 相手が醸し出している雰囲気に、智は視線を逸らす。その強さが受け止められなくて。つい目を逸らしてしまった。である以上、もう相手に顔を向けることができなくなってしまう。

「そ、そりゃ、死にそうなんだから、死んでないんだろ? だったら、助けようとするけど。救急車呼ぶとかさ」

「目の前で、知ってる人がいっぱい血を流して倒れていたらどうする?」

「一緒だよ、やっぱり助けようとするよ。そんなの、知ってる人なら尚更じゃん。血を流してるわけだから、うまく止血できる自信はないけどさ、でも、やってみようと思うよ。漫画なんかでよくさ、袖破るのあるじゃん、あんな感じで。うまくできるかは、定かじゃないけど……」

「だったらさ」

 少女は一呼吸分の時間を置いて、質問をつづける。

「もし、目の前で死にそうな人が死んだ方が、自分のためになるとしたら?」

「んっ?」

 数秒間の間に、智の瞬きの回数が急増していく。

 変なことを言われた気がした。だから智の頭上には巨大なクェスチョンマークが乱舞する。

「えーと、目の前で死にそうな人が死んだ方が、自分のためになるのかよ?」

「うん」

「えーと、目の前の人が死んだ方が自分のためになる? うーん、そういうことってあるのかな……?」

 智は腕組みをしてまで真剣に考えてみるが、智にはそういったシチュエーションを思い描くことができない。

「うーん……やっぱり状況がよく分かんないけど、やっぱり助けようとするだろうな。そりゃ、自分のいないところでその人が死んじゃえば、ラッキーなんていやなことを考えちゃうかもしれないけど、でも、目の前にいるんだろ? だったら、とても平気ではいられないと思うけど」

「助けようとするんだね」

 相手の返答に、少女はとても満足そうに頷いていた。

「うん、やっぱり智だよ。これでこそ智だ。やさしいんだー。そういうところが女の子に好かれちゃうんだろうねー。って、あたしにはあんたのよさがさっぱりだけどね。なんでそんなに人気あるんだか?」

「こんなの当たり前のことだろ? そういう状況になれば、お前だってそうするだろうがよ」

「ううん」

 首を振る。少女は首を横に振る。何度も何度も横に振る。そうすることに一切の躊躇もなく。

「あたしは、そうじゃなかった」

 吐き出された言葉は『そうじゃない』ではなく『そうじゃなかった』と過去を示すもの。

「あたし、は、駄目。駄目なの。あたしは、その人のこと、平気で見捨てちゃうようなひどい人間だから」

 少女は視線を逸らす。暗くなりつつある公園の樹木を目にする。聞こえてくる蝉の声はとても大きい。

「あたしは、自分の得を考えて、それを優先して目の前の人を見捨てちゃうんだよ。死にそうになってるその人のこと、平気で見捨てられちゃうんだよ。ううん、そればかりか、自分の私欲のために、死にそうになってるその人の首、平気で絞めちゃおうとするだろうね」

「お、おい、お前さ、さっきから何言ってんだよ?」

「あたしね、自分のことをね、社会に生きてていけない人だって思ってる。それほど、あたしって冷酷な人間なんだよ。目の前で血を流している人がいて、それを目の当たりにして、その人が死んでくれた方が自分のためになると思ったら、その手で殺しちゃおうとするんだから。少なくとも、そういったことを考えちゃうだろうし、実行しちゃうんだろうね」

 少女は力を抜くように息を吐き出し、下唇を噛みしめる。

「……そりゃ、あたしだってね、智みたいにそういった状況になったら、それがどんな人であれ、助けてあげるんだろうなって思ってたよ。そういう風に思ってたんだよ。でも、違った。あたしはそんないい人間じゃない。平気で人を見捨てられるような残酷な人間なの」

 首を振る。首を振る。何度も振る。振りつづける。

「あたしは、本当に、駄目。駄目な人間なんだから、さ……」

 それは、人として体温が感じられないというのか、どういった感情も込められていないような、ただ言葉を吐き出すためだけにあるような淡々とした声。

 少女は、喜怒哀楽があまりにも乏しい、まるで能面のような表情を浮かべたまま、正面にある噴水のことを睨みつけるように見つめる。

「だからね、あたしは駄目だよ。あたしじゃ駄目なんだ」

「…………」

「智にはさ、もっといい人がいる。うん、絶対に」

「…………」

「智はあたしとじゃなくて、その人とうまくいくよ」

「…………」

「だからさ」

「…………」

「だから」

「…………」

「ごめんね」

「…………」

 相手が正面に顔を向けていて、だから少女が自分を見つめていないことで、ようやく智は隣人に顔を向けることができた。

 そこにあるのは、空からの光によって赤色に染まる少女の表情。どこか儚げで、現実味のない印象を受ける。

「…………」

 すでに智の頭が真っ白となっていた。ここまで伝えられた少女の言葉に、浮かべているその表情に、覆われる寂しそうなその雰囲気に、もはやどういったことも考えることができなくなってしまう。かけてあげられるような言葉を見つけることができず、ただただ薄暗くなった世界にいる少女のことを見つめるのみ。

「…………」

 ごくりっと大きく喉が鳴る。智は息を吐きだすように、無理してでも声を上げようとした。どんな言葉でも、それがどのような効果を導こうとも。 このまま黙っていたら、目の前の少女ともう二度と顔を合わせることができない気がして。

 どこか遠くにいってしまいそうだから。

「……あの、さ」

「さあ、明日もまた試合なんだよね。ばっちり勝って、次も勝って、勝って勝って勝って勝って、優勝までまっしぐらだよ。もしかしたら、あたしの活躍振りに地区選抜に選ばれちゃうかも? よーし、だったら明日のために早く帰って、ご飯食べて、お風呂入って、しっかり寝ないとね」

 智からかけられた声など関係なかった。少女はベンチから飛び跳ねた。兎のようにぴょんっ、と。

 これまでの漂わせていた静かで物悲しいような不可思議な雰囲気が、まるで最初からそんなものなかったように、明るく輝いた笑みを浮かべている。

「じゃあね、智も部活頑張ってね。ばいばーい」

「…………」

 智はベンチから立ち上がることができない。その視界には少女の姿がある。大きくこちらに手を振ったかと思うと、薄暗い世界へと、ととととっと小走りで走っていく。その姿、どんどんどんどん小さくなっていき、とうとう見えなくなった。

「…………」

 少女が消えていった公園の小道を未練がましいように目に映しながらも、今はもう無気力に呆然とするしかない智。

「…………」

 驚いた。驚かされた。

 今まで一緒にいた少女は、いつの間にか智の知る少女ではなくなっていた。そんな印象を受けたのである。

「…………」

 智が少女に最後に会ったのは、期末テストの最終日で、あれからまだ三週間も経っていない。だというのに、そのたった三週間という僅かな期間で、少女は智の知らない少女となっていた。少なくとも、これまで智に見えていた少女は、あのような冷淡な表情を浮かべることはなかった。

 あれは成長と呼べるものなのか? はたまた、もっと異質なものに変貌したというのか? そんなこと、ここに置き去りにされた智には知る由もないこと。

 ただ確実に言えることは、もう智の好きだった少女はどこにもいなくなったということ。

 少女は少女ではなくなっていたから。

「…………」

 やはり頭は考えてしまう。

『少女をあれほど劇的に変貌させてしまったものは何なのか?』

『三週間の間にいったい何が?』

 それらの疑問は問いかける相手もいなければ、いくら考えても答えを出せるものではない。それはちゃんと分かっている。

「…………」

 見上げてみる。太陽はすっかり西の空に顔を隠してしまっていた。目に映る茜色はすぐになくなることだろう。

 ベンチ横に設置されている公園の照明が、智に小さな影を作っていた。

「…………」

 あれほど賑やかだった蝉の声は、気がつくとすっかり聞こえなくなっている。

 風が吹く。智の短い髪が小さく揺れる。太陽が顔を隠しているのに、それは決して涼しいと感じるものではなかった。

 智の額に滲む汗は玉となり、頬へと流れていく。

「……どうなってんだか?」

 声に出してみたところで、どうにもなるものではない。知らない間に、智を残して世界のすべてがすっかり変わった気がした。

 胸には、一抹の寂しさと、大きな喪失感がある。

 吐息。

「…………」

 暗い公園。元気があるわけではないが、だからといって落ち込むこともない。智はただ真っ直ぐ前に向かって、帰路についていく。

 その日をしっかり踏み越えて。


 翌日、智はクラスメートの女の子に告白された。

 あの少女と別れた前日の夕方から、自分が自分でないような不思議な感覚に囚われていた。だから、あまり部活動にも身が入らずに、その胸にはぽっかりと大きな穴が空いたような無気力な状態にあった。心の大切な部分をうっかりどこかに落としてきてしまったような、空虚な存在。

 その大きな穴を、告白してくれたクラスメートの女の子が埋めてくれた。

 この夏休みは互いに部活動があり、この夏の大会で三年間つづけてきた部活が引退となる。だからそこにどういった後悔を残さないように、まずはそちらに専念することにして、二学期からちゃんと付き合うことに決めた。

 そして時間とともに夏という季節が通り抜けていくと、秋には体育祭や文化祭といった賑やかな行儀が待っている。と同時に、智には受験生としての日々がはじまっていて、あっという間に年が明ける。受験本番を迎え、智は志望校に無事合格していた。そして三月、大名希北高等学校を卒業する。

 次の春を迎えたときの智にとって、あの夏の日の夕暮れは、もう思い出すことのできない遙か遠い日のことに思えることだろう。けれど、意識下のどこかには常にぶら下がっているような、生涯忘れることのない不可思議な記憶となっていた。

 薄暗い夕闇。遠ざかっていく少女の姿。失った一つの心。

 高校三年生の夏の日。

 決して戻ることのできない時間。

 心に残る思い出。

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