第5話 高嶺の花

「いやあ、ついにセレブになった気分だね。中古マンションを検索するのに、間取りは3LDKを希望できるなんてさ」

 今日は、夫婦揃って割と早くに帰宅できた。

 透は、愛用のハンモックに仰向けとなりながら、スマホを操作していた。彼も私も医師専用のSNSに登録しており、彼は、そのSNSを通じて、近隣の物件情報を漁っているのだった。

 透は、奨学金という名の借金を背負っていたが、最近その返済を終えた。一方、私は、発症の可能性にただ怯えるよりはと、双極性障害を研究のテーマに選んで、大学院に進んだのだ。近く博士号を取得できる見込みで、その後は多少は収入が増加するだろう。

 何より、今現在の2LDKの職員用住宅に暮らせるのは、私が大学病院に勤務している間だけである。透の興味が、将来の住居に向くのも当然のことだった。

 見たところ、彼の機嫌は悪くはなさそうだ。

 あの夜の覚醒剤少女は、私が主治医を引き受けたが、ものの数日で大過無く退院に漕ぎつけた。

 しかし、父はそんな短期決戦が可能な症例ではない。そして、翠麗会宇治病院は、私立であるため、公立の大学病院のように明確な定年制ではないのだ。現状、高齢の医師たちの巣窟と化しており、透が最若手の医師なのだ。よって、体力をザリザリと削りにくる激しめの患者は、軒並み透が主治医を務めているらしい。父についてもまた然りだった。

 私は、父のように狡猾ではない。私の家系には双極性障害のリスクがあることや、事実、父や大伯母が発症していることは、結婚前に透に伝えはしたが……

「父が……迷惑掛けてるやんね?」

 私は、透のハンモックを覗き込んだ。

「え!?想定の範囲内だよ。保護室レベルの躁状態の患者さんなんて、大概あんなもんだろう」

 父の主治医は、私の質問こそが想定外であったかのように、大きく瞬きした。父は、未だ宇治病院の保護室に君臨しているのだ。

「それに、義実家との付き合いってやつだよ。今くらい調子の悪いお義父さんとでもやってゆけるんなら、お義父さんが落ち着いた暁なんて、余裕じゃないかと思ってるんだけど、甘い?」

 私は、ハンモックごと透を抱き締めた。彼は、ハンモック転覆の危機を察知したようで、「あわわ」と、いつになく慌てた。

「透……ありがとうな……」

「ごめんなさい」と「ありがとう」。その二つの言葉が同時に込み上げた時には、なるべく「ありがとう」と口に出すことにしていた。

 私は、職場に届いた私宛の葉書を、透に見せることにした。そこには、先日の同窓会で、私に会うことだけを楽しみにしていたのに残念だったと、達筆な文字で綴られていた。

「綺麗な和紙の葉書だね……なんか臭うけど」

「お香を染ませてあるんやろね。柑橘系のええ匂いやと思うけど?」

「僕は、こういう甘ったるいのはイマイチ……」

「差し出し人の住所を見てみ?」

「ヴェルサイユ宮殿」——と、透は言った。いや、そのくらいとんでもない住所であるかのように、「京洛きょうらくインペリアルヴィラ」と、震え声で読み上げたのである。

 透は、不動産の検索へと取って返した。売りに出てはいなくとも、どんなマンションかくらい調べられるのだ。

「やっぱり!余裕の4LDK超で、しかも、平安東へいあんひがしの学区内にある億ションじゃないか!」

 4LDK超とは、間取りの検索条件の最高ランクである。どうやら、付属のウォークインクローゼットだけでも、ワンルームマンションほどの面積を誇るようだった。


 京都市立平安東小学校——それは、京都市内では唯一、文部科学省のモデル校に指定されている、大人気の公立小学校なのだ。教師が通常の基準よりも多数配置されていたり、英語教育が充実していたりする。公立小学校だけに入試は無く、学区内に居住さえしていれば入学できる。一方で、学区内に居住することが必須であるため、該当する地域のマンションの価格が高騰する要因となっていた。ちょっとお高いマンションに暮らして、子供を平安東に通わせる——それが、この界隈でのステータスシンボルのようになっているのだ。

 ただし、京洛インペリアルヴィラともなると、どころではない。そして、平安東小学校は、私の母校である。


「ねえ、幸穂……この春山弥生さんて、何者なの?」

 透は、涙目となっていた。彼は、普段から情緒的に安定しており、精神科医には打って付けの人材だ。そんな透を、震え声だの涙目だのに陥らせるとは、さすが弥生はやり手である。

「えっと、専業主婦っていえばええんかな?石蕗つわぶきグループの前会長で、津和野つわの彬樹さんいう人の、内縁の奥さん。

 元は舞妓さんで、父がえらい迷惑を掛けた。その話は、透にもしたやんね?」

「あああああの心中騒ぎの話の舞妓さんかあ!」

 透は、「もはやこれまで」といわんばかりに、ハンモックからずり落ちた。そして、床の上で気が済むまでのたうち回ったのである。

 やがて落ち着いた彼に、私は、膝枕をさせた。

「仮に、舞妓さんが経済力だけを基準に旦那を選ぶなら、財閥の前会長一択だったろうね」

 石蕗グループは、西日本有数の企業グループである。医師ごときが共稼ぎしたところで、経済的には太刀打ちできようはずもない。

「幸穂……僕を選んでくれて、どうもありがとう」

 なんだか話が飛躍していたが、せっかく夫が礼を述べてくれたのだ。私は、「どういたしまして」と笑った。私は、改姓したいという彼の望みを叶えた以外にも、ちゃんと彼を幸せにできているのだろうか?かつてあまりにも多くを喪い、深く傷ついたこの人を……

 あの父の娘である私が……

 そうだ、弥生だって、父のことが未だ憎たらしく、だからこそ、私に会って面罵したいのではないだろうか……

 私は、軽い頭痛とともに、彼岸花が咲き乱れる予兆を感じた。

 しかし、ふと見やれば、透が、唇を尖らせて頭を揺すっていた。

 私は、体勢を変えて、そんなキスのおねだりに応じた。


 私は、平安東小学校に良い思い出など無い。

 母は当時、小学校から道路を一本隔てた場所に小児科クリニックを開業しており、その二階と三階が私たち家族の住居だった。

 母は誠心誠意仕事に打ち込んでいたが、「医者なんて、他人の不幸に付け込む汚い仕事だ」と、娘の私は虐めに遭ったのだ。

「医者なんて、他人の不幸に付け込む汚い仕事だ」——そんな言い回しは、誰か大人が作文したものではないかと、私は疑っていた。

 同級生の中にもう一人、親の職業を口実に虐められている児童がいた。それが春山弥生であり、彼女の母はスナックを経営していた。


 五年生だったとある放課後、私は、校内の廊下を一人で歩いていた。

「嫌や!痛い!放して!誰かあ!」

 甲高い悲鳴が、私の鼓膜を刺した。

 見れば、弥生が、髪と腕を掴まれて、男子トイレに引きずり込まれようとしていた。そして、そんな暴挙に及んでいるのは、私たちの担任教師である中川なかがわだった。

 私は迷わず、近くの非常ベルまで疾走して、それを拳で殴り付けて鳴らしたのだった。

「幸穂ちゃん!幸穂ちゃん!幸穂ちゃん!おおきに……」

 中川は、ベルにたじろいだらしい。彼を振り切った弥生は、私の姿を認めて、泣きながら駆け寄ってきたのだった。


「いやはや、非常ベルを鳴らす悪戯というのは、小学校ではそう珍しくありませんが、沢村さんほどの優等生がやらかすとは、思ってもみませんでしたよ」

 教頭は、笑い声を立てた。

 その日の夜、校内の会議室では、緊急ながら内密の話し合いが持たれた。集まったのは、中川と、その保護者であるかのような教頭、弥生とその母親、そして、私と母だった。

 小学五年生の私には、途轍も無い衝撃で、どうにも理解できなかった。話し合いの開始早々、教頭が、私こそが悪者で悪戯の犯人だと決め付けたことがである。

「まず申し上げますが、幸穂には、悪戯で他人様に迷惑を掛けることを楽しむ癖も、虚言癖もございません」

 母は、冷静な声で言ったが、眉間に深く皺を寄せることで強い不快感を表明した。

「まあまあ、沢村さん。こちらも、幸穂さんが悪意を持って非常ベルを鳴らしたとまで断じておるわけではないのですよ。ただ、どんなに優等生であっても子供だ。事情を勘違いすることくらいはあるでしょうよ」

 そして、中川が、教頭に促されて、説明を行った。

「私は放課後、本日の日直であった春山さんに、雑用を依頼しました。その後、尿意を催してトイレに入ったのですが、なぜか春山さんが、私の後に付いて来てしまったのです。

 私は、『ここは男子トイレだよ』と諌めて、春山さんをとしました。沢村さんが通り掛かったのは、その際のことだと思われます」

 それはそれは、酷い棒読みだった。

「沢村さん、君は勘違いをして、迷惑行為に及んだんだ。そして、春山さん、男性に興味が湧く年頃かもしれんが、世の中には、やって良いことと悪いことがある。ただまあ、今回に限っては、反省するなら許してあげましょう」

 教頭は、笑顔のまま強引な幕引きを目論んだのである。

 弥生の母が、小型の録音器を取り出して、再生ボタンを押したのは、その時だった。

『なあ、弥生ちゃぁん、先生とええことしよか!トイレの神様もビックリなデカブツを拝ませたるわ!』

 男の声と荒い息遣いが聞こえた。

 そして、拒絶する弥生の悲鳴と非常ベルの音……

「弥生は、担任の先生にいやらしいこと言われるいうて、母親の私に相談したんどす。けど、そのまま訴え出たところで、それこそ虚言癖だのなんだの言われて、相手にもされへんに決まってます。そやから、娘には、これを持たせたんどす。ほんの二日ほど前に買い与えたばっかりやのに、もう役に立ってしまうやなんて……」

「こ、こんな、学校生活に不必要な物を!」

 中川は、慌てふためいて、録音器を奪い取ろうとする。そんな咄嗟の行動こそが、何が真実なのかを何よりも雄弁に物語っていた。

「コピーくらいしてますえ?」

 弥生の母は、冷たく言い放った。

 文部科学省は、モデル校に対して、通常の基準以上の人員を配置するよう指示するが、人員の確保は学校任せである。教頭は、教師の不足に悩み、他の自治体の小学校で猥褻事件を起こして懲戒免職となった中川を、自身の遠戚という縁故によって採用したのだった。

 結局のところ、この一件は、表沙汰にはならなかった。弥生の母親が、教頭と中川が支払った口止め料に満足したからである。


「ごめんな、幸穂。お母さんは結局、あんたのことを利用してたんかもしれへん」

 母は、口止め料の受け取りを断固拒否した後、鬱々とした表情で言った。

「あんたが平安東に通ってくれたら、クリニックのイメージアップにもなると思い込んでた。けど、やっぱり私立がええな。中学からは私立に行こ?」

 平安東小学校は、小中一貫教育も特色としており、卒業生の大半は、そのまま平安東中学校へと進む。けれど私は、母の方針もあって、中学からは、医学部合格に定評のある私学へと移った。

 その私学には医師の子供が多く、親が医師だからという理由で虐められることは無かった。けれど結局、その程度のことだった。


 私は、小学校の卒業式を最後に、弥生とは顔を合わせていない。

 考えてみれば、小学五年生のあの日には、弥生は、涙ながらに私に礼を言ってくれた。

 けれど、舞妓となった後、父が仕掛けた心中騒ぎは、圧倒的にトラウマティックだったに違い無い。

 心中騒ぎの当時、花街相手の事後処理は、母が一手に引き受けた。蒼早登と私が顔を合わせる機会など無かったのである。

 私は、碌な思い出の無い小学校の同窓会になど、出席したことはなかった。しかし今回は、同窓会の幹事に、「とあるセレブが、沢村さんと会いたがってるんだ」と勧誘されたのだ。そのセレブとは、弥生のことだった。

 弥生は、父への怨みを、私にぶつけたいのだろうか?それとも、セレブ化したことを見せつけて、マウントを取りたいのだろうか?

 いいだろう。一度きりなら甘受してやる。

 私は、最初で最後のつもりで、同窓会への参加を決めたのだった。

 まさか、こんな時まで、父のお陰でキャンセルすることになろうとは思ってもみなかったのである。

 

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