創造の島(3)

 高塚が島へとやってくる当日、僕は寝不足だった。眠たい目を当然のように擦り、ソファーの上でイチを膝に抱え、欠伸をした。時計の秒針がカチカチと部屋全体に響く。時刻は八時三十分を指している。高塚を乗せた船は、九時頃にこの島へとやってくるそうだ。


どうやら高塚は、古い物にこだわりを持っているらしく、メールのやりとりは極力したくないそうだ。そのため高塚が原沢に口頭で伝えた後、原沢が僕へメールを送るというなんとも効率の悪い作業をしていた。そのため、僕は高塚という人物が一体どんな人間なのかほとんど把握していなかった。そのせいか昨夜は心配で眠ることが出来ず、朝からカフェインを摂取して誤魔化そうとしていたのだ。けれど呆然としている時間が長かったせいか、カップの底に少しだけ溜まっていたホットコーヒーは既に冷えていた。僕は残りのコーヒーを口の中へと流し込むと、自宅を出た。


季節は冬を迎えようとしており、ほとんどの植物は冷えた空気の中で眠っていたし、それまで香っていた草花の匂いもほとんど無くなり、冷えた空気ばかりが際立っていた。三月にこの島へやって来た時から、島の中でどんな植物が生えていて、どんな虫や動物が生息しているのかは調べており、大体把握できていた。そのほとんどは日本とそう遠くない場所のため、図鑑や街で見かけたことのある植物が多かった。その中でも見たことのない発光している不思議な植物も見かけ、その植物は一体どんな名前なのか気になっていた。


僕は黒いダッフルコートのポケットに両手を忍ばせて、肩を硬らせながら海岸までの道を歩く。海岸へとでると、穏やかな海が広がっていた。ゆっくりと登った太陽が水面に光の粒を与えている。砂浜を足でかき分け貝殻を探しながら、高塚を乗せた船がやってくるのを待った。


到着の予定時刻が近づくにつれ心臓の音が大きくなり、ソワソワと貝殻についた砂を指で払っていた。暫くすると、汽笛の音が聞こえ、ふと顔を上げると原沢の船が見えてきた。あまりに音を立てずに進んでくるので、近くまで来ていたことに気づかなかったのだ。僕の姿を捉えているのかも分からない船に向かって手を挙げた。すると、船が僕に返事をするかのように再び汽笛が鳴った。


 船着場に到着した原沢の船に駆け寄って行った。船の中からは原沢と共に高塚と思われる老人が顔を出した。老人は浅い茶色のニット帽を被り、よく分からない派手な茶色い柄のニットを着ていた。


「どうもどうも、入谷さん。高塚さんをお連れしましたよ」と、原沢が狐のように目を細め、口角を上げた。


「どうも、君が入谷さんかな。私は高塚だ。よろしく」


高塚が目元の深い皺をくしゃりと寄せながら僕に右手を差し出してきた。僕が彼の手を握ると、とても冷たく、シミと皺が目立つ皮膚は分厚いように感じた。


「入谷です。ようこそ機械仕掛けの島へ」そう言うと、緊張からか腋から汗が伝う感覚がしたが、僕は精一杯の笑顔をみせた。高塚の口の奥の方で銀歯がキラリと光った。


「いい島だ。いい匂いがする」と、高塚はにっこりと微笑み、島を見渡した。


「中の工事も進んでいますし、高塚さんの家もすぐに完成すると思います」


「後で島を案内してくれるかな」と言う高塚に、僕は二つ返事をした。

波風に揺れる木々を眺めながら話していると、高塚からほんのりと線香のような香りがした。今では中々嗅ぐことにない匂いだが、両親を亡くした時に嗅いだその匂いの記憶が目を覚ましたようだった。


 高塚のテントを張る手伝いを終えると、島の中をぐるりと案内した。高塚ははっきりと表情には出さないものの、小刻みに頷いたり、島の中をあちこちと見渡し、時々「今の技術はすごいな」と独り言を発していたため、感動してくれているように思え、僕は嬉しくなった。


島をぐるりと一周案内し終えると、高塚をテントまで見送った。

テントの中に入る前に、高塚は「新しい人生を始めたくてね」と言った。僕はそんな彼の言葉に、どこか自分自身を投影するような気持ちだった。


「これからもっと面白い島にしていくので、よろしくお願いします」僕は頭を下げて高塚に別れを言うと、自宅への道を歩き出した。手には汗が溜まっていた。


冷たい空気が走った。それは葉を一枚一枚すり抜けて、僕の体を纏っていく様だった。その時、直感的ではあったが、高塚と出会ったことは新しい風のようだと思った。そう感じると胸の中が騒ついた。それは小さくて黒い虫たちがざわざわと蠢く様な、そして胸の表面は大きく波打つように鼓動していた。


 早朝に読書をするのが僕の日課となっていた。冬の早朝は寒かったが、冷えた空気が肺に入っていくと体の中の粘膜が目を覚ますようで気持ち良い。自宅から図書館に向かう途中で高塚の家の建設予定地が見えた。ふらふらとする人影が見え、恐る恐る近づいていくと、そこにいたのは高塚だった。


頭では高塚がそこにいるのだろうと理解できていても、朝から自分以外の人間が島にいるのは奇妙で慣れない。呆然と立ち尽くし、彼の背中を見ていると、僕の気配に気づいたのか高塚は振り返り、僕を見て驚いていた。おはようさんと言う高塚に、おはようございますと返したが、朝から声を出していなかったため、しゃがれた声が出てきて思わず咳をした。それを誤魔化すように何をしているのかと尋ねた。


「この島にはどんな植物が育つのか見ていたんだ。どうせなら畑でも拵えたくてね」そう言いながら、目の前の土を触っていた。


「朝ごはんは食ったか」高塚の質問に僕は首を横に振った。高塚は、原沢から良い卵をもらったから食べようと言った。僕はただ頷いた。


高塚は強引なところがあるのか、僕の性格を何となく分かっているのか、僕に選択肢を与えるような発言はしなかった。テントに戻って簡易キッチンで目玉焼きや茹で卵を調理している時も、この醤油がうまいだとか、この塩もいいぞと言って、僕がどんな味を好んでいるかは気にせずに目玉焼きの上に醤油をかけた。


 僕は、仕事となると大体の注文は断ることなく請けるのにも関わらず、プライベートとなると、選択肢を提示されると拒否してしまう癖のようなものがあり、意味もなく断りがちだ。例えば、本土に住んでいた時も隣人がリンゴを多くもらったからいかが? と聞いてきたら、咄嗟に断ってしまうなんてことは日常茶飯事だった。僕の存在自体が何故か申し訳なく感じ、僕の行動一つが誰かに迷惑をかけていると考えたら、ものすごい息苦しさを感じる。僕はこの世に存在している価値があるのだろうか。それだけが幼い頃から疑問だった。だからこそ僕が持てるだけの技術を持って、少しでも周りの人の役に立ちたいと思っていた。それに付け加え、僕が作るおもちゃを評価されたいとも思っていた。誰かの心に届いてほしい。その迷惑をかけたくないという気持ちと、評価されたい、届けたいと思う気持ちのバランスを取ろうと、おもちゃ作り中は葛藤ばかりだ。そう気づいた時、日本で感じていた息苦しさの理由が分かった気がした。


僕は自分が生きていて良い存在に値する人間なのか分からないのだ。分からないからこうして自分の好きなことをして、仕事としてお金をもらって、そこでようやく自分という人間に価値が見出せる気がしていた。でもことプライベートの時間を誰かと過ごすとなると、本当に自分なんかのために相手の時間を使って良いのか、相手の心を使って良いのかという不安に駆られてしまう。だからなのか高塚の僕に有無を言わさない言動が、僕にとって心地が良い理由だったのかもしれない。



 高塚は僕の目の前にフライパンで焼いたパンと目玉焼き、それからゆで卵とトマトをスライスし、塩を振ったものを目の前に出してきた。テントの中は暖かったが、ふんわりと食事から湯気が上っている。


「今じゃ食事ってのは調理の手間もなく栄養を簡単に手に入れられる。美味しい美味しくないは完全に娯楽で、嗜好品になりつつある。それじゃあつまらねえよなあ」

高塚はそういうと、コーヒーミルにコーヒー豆を入れ始めた。


高塚が作ってくれた目玉焼きはとても美味しかった。フライパンに水を入れずに焼いたのか、ほんのり底がカリカリと焦げている部分も、醤油によく合う。黄身はとても濃厚で、パンとの相性も良かった。どんどんと口に入れて頬張ると「どうだ、美味しいだろ」と高塚は僕をみて笑った。


「それこそ包丁もない時代は、一日中石を石で削っていたんだ。今じゃ考えられないほど生産性もない時間を過ごしていた。でもどうだ。昔の壺だってお皿だって最初は歪なものから、装飾がついたり、綺麗な円になったりしていく。単純に面白かったんだと思うんだ。昔の人にとっちゃその一つ一つが娯楽であり生活だ」


「確かに、娯楽と言えば娯楽だったのかも知れませんね」


「昔は石油ストーブってのがあった。入谷さんは知らないかも知れないけどな。店を開くようになったら一台仕入れられるから見せてやる。その石油ストーブってのは部屋が温まるのに時間がものすごくかかる。今じゃ一日中勝手に家の中を適温にしてくれるエアコンとは全く違ってな。部屋が温まるまでに一時間はくだらない。そんな石油ストーブにも良さってのがあったんだ。火がつく時の音。奇妙な音だよ。笛とも違うし、何とも言い難い音が鳴る。それから火が灯って、石油の匂いがするんだ。手を近づけてもまだ温かくなりゃしない。しばらくそこで膝を抱えて座るんだ。石油ストーブの上は熱いから、そこにサツマイモやヤカンっていう、大きい急須みたいなもんだ。それを上に乗せてな、芋を焼いたり、お湯を沸かしたりしたんだよ」


「石油ストーブ、是非見てみたいです」


「仕入れたらすぐ見せてやる。まぁ、そのどれもがな、思い出なんだ。体に染みつくんだよ。俺は瞬時に温めてる今のエアコンよりも、あれが懐かしくて、あの臭いすら、また味わいたいと思い出すんだ。それが手間の良さや古いものの良さだよなぁ」


高塚はしみじみと言い終えると、僕の目の前にコーヒーを置いた。お礼をいうと、コーヒーを口に入れ、自分の息でコーヒーの水面がふるふると揺れるのを見つめた。


「でも便利になるほど自由時間も増えるし、娯楽に費やす時間も増えたのはきっと良いことなんですよね」

僕は生まれて初めて思ったことを声に出したように思った。いや、本当は初めてではないはずだが、発言したことによって高塚が不快な気持ちにならないか不安になり、顔色を伺った。


「入谷さんには分かるんじゃないか。本当の娯楽って何なのか」

そう言うと、何故か高塚は僕とは別のローテーブルの前にあぐらをかき、食事をとり始めた。高塚が目の前に座るのを予想し、身構えていた僕は拍子抜けしていた。


「どうして違うテーブルで?」僕がそういうと、高塚は笑った。


「昔な、妻に言われたんだよ。あんたは私以外とご飯を向かい合って食べちゃダメだ。威圧的な顔をしていて飯が不味くなるってな」

と、彼は楽しそうに笑った。その笑みはどこか懐かしげで、寂しそうに見えた。


「僕、誰かと対面してご飯を食べるのが苦手なので、助かります」

そういうと、高塚は両目を瞑り頷いた。


「人間、苦手なことを優先的に克服しようとしがちだ。でもな、気持ちをただ痛めつけることもある。気にするこたぁない」


「人の作ったご飯、久しぶりに食べました。ありがとうございます」


僕はシンクに食器を下げようとすると、そういうのはやらなくていい。好きな人ができたときにだけしてやれと笑いながら言うと、じゃあなと僕に手を振った。


テントを出ると、先ほどよりも太陽が昇っていて眩しかった。人と接するのは疲れるし、心が疲弊するものだと思っていたのに、今は少しだけ嬉しそうにドクドクと振動していた。人と同じ空間で食事をとるのは両親以来だ。家路に着く足取りさえどこか軽やかだった。

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