お湯の沸く五分前

四季島 佐倉

『兄失格』

 この時間がとても貴重だと俺はしみじみ感じていた。

 一日に一回デイリーで、三~五分+十数分じゅうすうふん

 決まって十二時きっかり、日付が変わる瞬間、今日と明日の境。

 最早俺たちにとって恒例の習慣になっている。

 

 今日も俺はその扉を三回ノックする。

 勿論それだけじゃ駄目だ。開くまでAボタンの如く連打するのだ。


「うるさいっ!今何時だと——」

 そして、開いたら透かさずじ開けてスライディングだ。

「よし、セーフだなっ!」

「なぁにがセーフよ‼毎日毎日騒々しい!」

 因みにこの罵倒までがセットだ。


「ほら、夜食だ。今日はイラついているようだから、あっさり目の奴を」

「カップ麺にあっさりもクソもあるの?

まあ、丁度濃いラーメンにも飽きてきたからいいけど……」

 

 文句を零しながら俺の持っていたカップ饂飩うどんを奪い取る。

 相変わらず生意気だなぁと思うけれども、これぐらいは既に慣れている。

 今日はまだいい。酷い時なんか熱湯をぶっかけられそうになった。

 だが最近は当たりも弱くなってきたようだし、精神も安定しているのだろう。

 

 あ。俺と彼女の関係性についての説明が抜けてたか。

 まあ、今までの流れで彼女だと思う奴はいないよな。そんな頭のおかしな奴は即座に熱湯風呂に沈むといい。

 端的に言うと兄妹。ただその形は俺の思い描いた理想や世間一般のイメージを陵駕、超越しこんな歪なものになってしまった。

 以前はその関係すら絶たれていたけどな。

 

 ピー

 おっと、そうこうしているうちに湯が沸いた。

 ピンクのケトルがインテリアの中に上手い具合に溶け込んでいる。

 何故妹の部屋に置くのかと言えば、俺たち以外それもこの時以外あまり使う機会が無い。

 それに湯を沸かしている間、会話の時間が出来る。会話が出来るかは別として。

 俺は黙々と二人分のかやくとスープを入れる。


「あ、唐辛子は入れないで、絶対」

 幾ら生意気になっても、大きくなっても味覚は子供だ。

 それ入れるの確か後だけどな。


「何を若気てるの、気持ち悪い」

 キモイと口にしないのに優しさを感じるな。

 タイマーの分ボタンを五回押して、スタート。

 今はもう便利な世の中だが、この音が鳴らないと今一しっくりこない。

 

 沈黙に身体を埋めながら完成を待つ。勿論カップの前で正座だ。

 反抗期なのにも関わらず、妹も未だしているのがどこか可笑おかしい。


「ねえ、相談があるんだけど」

「何だ?」

「——どうすれば学校が楽しくなると思う?」

 こ、これは。学校へ行こうとしている兆しなのでは。

 どうする。ここが人生の岐路になるかもしれない。


「——うーん、友達を作るとか?」

 妹の表情が死んだ。

「そっか……」

 本当に俺って兄失格、生きている意味を見失いそうになった。




「——ということなんだ……」

「それは……一番駄目な答えだね。元気づけ   るどころか沈ませちゃってるよ」

「くっ……もう駄目だ!」

「浩君まで自己嫌悪になってどうするの?一番辛いのは詩織ちゃんだよ?」

「それはそうだが、もう俺にはどうすればいいのか解らない」

「そうだなぁ……やっぱり会話の練習が必要だよね」


「話すのに練習なんているのか?適当に思ったことを言えばいいだろ?」

「そんな感じだといつまで経っても詩織ちゃんの気持ちは解らないね」

「どういう意味だ?」

「さて、どういう意味でしょう?」

 我が幼馴染萩原有紗は今日もミステリアスで蠱惑的だ。


放課後になり、彼女が話しかけてくる。

「今日、家行っていい?」

「ああ、構わないぞ。詩織も喜ぶ」

「『も』ってことは浩君も嬉しいのかな?」

「さあ、どうだろうな」

 俺と彼女の家は然程離れていないのだが、彼女は学校から直行する。


「ただいま」

「おじゃまします!」

「あ、有紗お姉ちゃん。いらっしゃい」

 「お姉ちゃん」という有り触れた言葉が引っ掛かる。

 ここ暫く兄としての呼び名を聞いていないからかもしれない。

 今まであまり気にしていなかったのに、突然嫉妬の炎が燃え上がる。


「こっちこっち。あ、お茶準備しといてね」

「はいはい」

 有紗が来る時はいつも決まって俺がお茶を入れさせられる。にもかかわらず、運んだらさっさと部屋を追い出される。兄の扱い酷くない?

 一体何を話しているのか、俺には一向に見当もつかない。




 遂に転機が訪れた。なんと我が妹詩織が外出する。

 あれ?俺の中だと盆とクリスマスが同時に来るぐらい嬉しいのだが、客観的に考えるとそうでもないような気がしてきた、日曜の昼前。

 理由は至って単純。

『明日、スーパー行くか?』

『やだ』

『付いてきたらいつもよりお菓子多めに——』

『行く』

 面倒臭いのかちょろいのか解らないな、この妹。

 こんなことならもっと早く試せばよかった。

 百円のお菓子で妹が釣れた。

 これは大きな進歩になりそうだ。




「人参とじゃがいも……あ、牛乳切らしてたな。ん、どうかしたか?」

 無言でこちらを見つめる詩織。

 大体解っているが、面白いので放っておいている。


「こんな所に居ても退屈だろ?菓子選んできていいぞ」

「なっ、そんな訳ないでしょ!」

 強がっても見え見えなのに。これが思春期というものか。

 口で否定しながら、何処かへ逃げていった。というより向かったのだろう。

 お菓子売りパラダイスへ。


「全く、相変わらず面倒臭いな、詩織は」

「——詩織、詩織ちゃん?」

 俺の背後から妹の名前をリピートする声が聞こえる。

 振り向くと短髪の少女。俺を見ると小動物のように更に縮こまる。

 俺は熊でも蛇でもないんだけどなぁ。


「あの……詩織の知り合い?」

「いえ、一方的に知っているだけだと、思います。たぶん……」

 たどたどしく語を紡いでいくその少女の仕種は何ともいじらしい。

 中学生ってこんな感じだったか?少なくとも有紗はそんな可愛げはなかったし、現在進行形でありながら未然形の妹はただ刺々しくなっただけのような。

 まあ、標本が二つじゃ何とも言えないが……


「もしかして、詩織ちゃんのお兄さんですか?」

「詩織の兄、浩一だ。君は?」

「あ、すみません。申し遅れましたクラスメートの橘彩香です」

 互いに頭を三十度下げる。礼儀作法は俺に似合わないものだが、妹の品格を下げる訳にはいかないからな。

 お辞儀を終えると、彼女は深呼吸して俺の顔を真っ直ぐに見つめる。


「——私、詩織ちゃんと友達になりたいんです!」

「ああ、それは嬉しいんだが……何故俺に?本人に言えばいいだろ?」

「それは……そうなんですけど。その前に根まわ——準備が必要だと思って」

「要するに俺も協力すればいいってことなのか?」

「はい!」

 

 うーん、今時の中学生は友達になるのにそんな面倒臭い手順を踏まなければいけないのか。気難しいな。女子なら尚更面倒、家の妹ならもっと面倒と、面倒な要素が積み重なっていく。

 ともかく友達が出来れば、詩織も学校に行きたくなるかもしれないし、試す価値はあるな。


「何してるの?」

 噂をすれば影。我が妹がお菓子の袋を仰山抱えて戻ってきた。

「も、戻ってきたな……」

 我が妹ながら恥ずかしい。


「ああの、こんにちは」

「誰?」

 気の所為かな、何かがグサッと刺さる音が聞こえたんだが。

「私は同じクラスの橘彩香です。詩織ちゃんにお願いが——」

「嫌だ」

 あの残酷な凶刃がもう一度。

 純粋過ぎる天使は翼を灼かれ墜落する。


「ほら、早く行くわよ」

「おい、ちょっと待て!」

 「待て」と止めても止まるような奴じゃないのは俺が一番知っている筈なのにな。

「じゃあ、また今度!」

「……」

 


 地面と睨み合っていて耳に届いているのか定かではないが、声を掛けて山のような菓子袋を追いかける。

 どうか彼女には諦めないで欲しい。この先こんな救世主は現れないだろうから。




「良い子そうだったじゃないか。何が不満なんだ?」

「解った風な口を利かないで。私の友達は私に選ぶ権利があるの」

「だが、お前にそんな余裕があるのか?」

 しまった。硝子にひびが入るような嫌な音がする。


「——そうだね。私にそんな資格ないよね……」

 まずい、我が妹が全てを肯定するような薄気味悪い状態に。

 現実を突きつけ過ぎた。

「そんな突き放さないで、話してみたらどう、だ……?」

「……」

 口を堅く閉ざしたまま、首だけで反応する。

 俺に対して怒る気にもなれないと言わんばかりの悲しげな面持ちで足音も立てずに去っていった。




「はぁ……つくづく駄目な兄だね。役立たず」

「仰る通りです……」

「それで……その子との話の場は設けたの?」

「それはまだ……今日にでも聞いてみる」

「聞いてみるって……まさか」


「だから、メッセージ送って——」

「浩君が仲良くなってどうするの⁉」

「いや、そうじゃなくて、段取りを……」

「やっぱり私も介入する」

「え?」

「頼りない兄にこれ以上任せておけないの」

「すみません」



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「俺では力不足だろうから、強力そうな助っ人を打ち合わせに同席させようと思うんだが……いいか?」

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 有紗と話した日の夜、俺は文面や表現等について色々悩んだ末、なんとかメッセージを送信することに成功した。確かに有紗以外のそれも年下の女子となんてやり取りしたことないしな……

 結局既読が付いて返信が来るまで、床に携帯を置きその前で正座をして待ち続けた。

 カップ麺が出来るのを待つのとは全く異なる、メッセージに関しての後悔、そもそも既読が付くのかという緊張感、何らかの齟齬そごにより怒りの返事が返ってくるのではないかというおそれ。

 相手が違うだけでこんなに不安を募らせる事になるのか……

 というか有紗なんて読んでも返事返ってこないから、そもそも返ってくることを期待してないしな……

 幸い五分後に返事は返ってきた。


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「分かりました。では集合場所はスーパーでいいでしょうか?」

「了解」

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「ふぅ……」

 なんかどっと疲れた。まだ準備段階だが……

 その後取り敢えず有紗にも送ったらなんと極めて珍しく返事が返ってきた。嵐になったりしないだろうな……




 幸い俺の予想は外れて雨雲どころか雲の一片もない晴天となった。

「さあ、行こうか!」

「なんでサポーターが一番やる気なんだよ……」

 幼女時代からかなりお節か——気配りのできる有紗ちゃんだからな、しょうがないな。

 

 スーパーの前で少し待つとそれらしいおどおどした仕草の少女が近付いてきた。

「本日はよ、よろしくお願いします……!」

「よろしく。それで協力者なんだが……」

「初めまして。これの幼馴染萩原有紗です」

 

 恭しくお辞儀をして目が合ったら隙を与えずニコリ。流石現役女子高生、オモテの切り替えに一秒も必要ない。


「はい、宜しくお願いします……」

 何に驚いたのか、茫然と挨拶を返す友達志望の少女。

 早速有紗が考えた幾つかのプランを実行に移すことになった。


「それで、今日は詩織ちゃん、家に居るの?」

「ああ。というか、聞く必要あるか?」

「一応の確認。質問を質問で返さない!」

「サーイエッサー」

「あの……」

「あ、じゃあずは家に行こうっか」

「はい……」


 詩織がいる場所、即ち俺らの家の前で彼女は矢張り躊躇しているのか、ウロウロと不審者のようにしか見えない動作を繰り返す。女子中学生じゃなかったら真っ先に捕まっているだろうな……

 漸く決心がついたようでインターホンに手を伸ばす。そこでも少し逡巡しゅんじゅんし最終的には目をつむって掛け声と共に押したようだ。

 しかし、何も応答はなく反応を示さない。

「……」

 遠くの茂みに隠れている俺と有紗も小首を傾げる。


「ちょっと!居ないじゃない!」

「おかしいな……あ」

「何処に出掛けてるの?」

「いや、一人の時は出なくていいって言ってある。危ないからな」

「『危ないからな』じゃないっ!何でそういう大事なことをもっと早く言わないのよ!」

「すまん……ん?」

 有紗の罵りを真正面から受けていると、橘がインターホンを介して会話する様子が目に入る。

 しっかり対話に応じているらしい。成長したな……

 親目線の喜びに浸っていると、現実に引き戻すように雑に有紗が肩を叩く。


「あれ、詩織ちゃんが出てきた」

「何⁉︎」

 間違いない、正真正銘我が妹詩織である。ずっと及び腰だったのにどういう風の吹き回しだ……?

 我が家の玄関前にて彼女らは対峙する。

 長い沈黙の中、橘が話を切り出す。


「私と友達になってください!」

 正直に再度その言葉を口にする。

 しかし、無情にも我が妹は悲しげな面持ちで首を横に振った。


「そうですか……」

 しょんぼりと肩を落とす彼女からポロリと涙の前に小袋が落ちた。

「あ……」

「え、それって……ソース海老煎餅⁉︎」

「うん、そうだけど……もしかして詩織ちゃん好きなの?」

「うん。特に海老とソースの二つのしょっぱさがね——」

 遠くから見守っていた俺たちも唖然としてしまった。

「あれ……仲良くなってない?」

「俺たちは最初から要らなかったらしいな」

 


 人心地が付きながらも無力感を覚えた。でもまあ終わりよければ全てよしってことだ。

「それにしても……なんで煎餅なんか持ってたのかな……?」

「あ、そういえばあれ前に俺があげたやつだ……」

「え?」

「ほら、詩織に即拒絶されて落ち込んでいたからなんとなくな?」

「何となくって……中学生慰めるのにお菓子渡すのもどうかと思うけど、それも煎餅って……つくづくデリカシーが無いというか、女心に疎すぎるというか」

「でもまあ、それが結果的に功を奏したからいいだろ?持ってたってことは気に入ってもらえたみたいだし」

「そうだね、私が煎餅に負けるなんて……」

 


 有紗は悔しそうに溜息を吐いた後、詩織の楽しそうな様子を見て微笑んだ。

「でも、良かった」

「そうだな」


 

 その後計画に加担したのがバレないように有紗は早々に帰宅した。

 俺は買い物に行っていたように装い、袋にお菓子を沢山詰めて帰宅する。

「ただいまー」

「あ、おかえり、お兄ちゃん」

「!」

 その一言で俺は驚きと喜びの渦に呑まれた。

 まさかこんなにも素晴らしい響きだったとは。

「詩織の友達か?」

「あ、うん」

 

 その一言で今度は橘が目をキラキラ輝かせて、潤ませ始める。

「えっと……上がっていくか?」

「いいえ、今日は遠慮しておきます。じゃあ、詩織ちゃんまた明日学校で」

「うん、じゃあね」

 

 手を振って友達を見送る詩織。その顔には嬉しさが滲み出ている。

 その後ろ姿を眺めながら、感傷に浸って俄かに話し始める。


「私ね、とても不安だったの。勿論『友達になりたい』って言ってもらった時は凄く嬉しかったけど、その内私といるのが嫌になってあの時と同じようなことになるんじゃないかって……」

 歓喜の表情から一転、不安からか暗くなっていく。

「いや、そんなことにはならない。あの子なら大丈夫だ」


 あのクソガキどもとは全然違う。一見優しさ故に脆く見えるが、かなり頑強な芯の強い子だ。ここまでどれだけ彼女が頑張ってきたか、俺も十分分かっている積もりだ。

「そうだよね……よし!」

 眦を決すると突然二階へ駆け上がって行ってしまった。

 ガチャガチャと騒がしい物音。かなり懐かしい音だ。




「おーい、起きろ〜」

 階段の上へ呼びかけると暫くして妹は下りてきた。

「ふわぁぁ……」

 欠伸をしているが、制服に着替え終わっており、身嗜みの整頓も済んでいるようだ。

「いただきます」


「——ごちそうさま」

 昨日慣れないことをしたから疲れたのか、それとも不安と嬉しさで眠れなかったのかは知る由もないが、元気そうで何よりだ。

「じゃあ、行ってくるね〜」

「おう、行ってらっしゃい」

 外から朝にしては元気一杯の声が聞こえてくる。

「詩織ちゃん、おはよう!」

「うん、おはよう!」


 二人が出発したすぐ後に俺も身支度をして家を出る。

「ふぅ……」

「おはよ」

 背後からうんざりするほど聞いた声が。

 当然有紗である。

「良いの?見守らなくて」

「大丈夫だろ、あの感じなら」

「良かったね、詩織ちゃんまた元気になって」

「ああ、本当に良かった……」

 おっと、このままでは朝から情けなく泣きそうだ。


「だが、寂しいな」

「親みたい……」

 まあ、特に何をしたって訳でもないからな。親だなんて烏滸おこがましい。

 そう自嘲していると、有紗は満面の笑みを浮かべる。


「私も頑張らないと!」

「おお……ん?頑張るって何を」

「さあね〜」

 その子供っぽい笑顔を見て思わず、笑ってしまった。


「俺も頑張らないとな!」

 そう意気込んで偶然ポケットに入っていた煎餅をかざしてから戻し、青空の下歩き出した。

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