藤木邸殺人事件 問題編

藤木健次郎(74)⋯藤木建設社長。

藤木妙(69)⋯健次郎の妻。車いす使用。

藤木憲武(48)⋯健次郎の息子。藤木建設次期社長。

藤木里美(44)⋯憲武の妻。

尾花真知子(63)⋯藤木家の使用人。




 七月某日。窓ガラスを打つ雨は昨夜から強くなり続けていた。湖畔のこの家は普段は気持ちが良い場所だが、こういう時は自然の中の生活の悪い面が顔を見せる。山を下る道が潰れてしまい、身動きが取れなくなってしまうのだ。使用人である尾花真知子は家に設けられた自室で憂鬱な気分に浸っていた。ふと時計に目を向けると午後五時半を過ぎていた。

「さて、旦那様とうにお仕事を終えてらっしゃるわね。お茶を下げに行かなくっちゃ」

 銀色のワゴンと共にエレベーターが降りて来るのを待つ。機械音声が到着を告げ扉が開く。家庭用のエレベーターなので挙動はのんびりとしている。二階に昇るとすぐに廊下を左に進み、さらに突き当たりを右に曲がって突き当りまで進むと、一番奥の右手に主人である藤木健次郎の自室兼仕事部屋のドアがある。

 しかし今日は扉のそばに廊下を塞ぐものがあった。

 一階のリビングに駆け込んできた真知子の顔色は青かった。シャワーを浴びて湿った髪の毛をそのままに、ソファで缶ビールを片手にテレビを眺めていた藤木憲武はその異様さに気づき問いかける。

「どうしたんですか、真知子さん。恐ろしいものでも見たような顔ですよ」

「だ、旦那様が、旦那様が⋯」

 普段は血色がよく朗らかな印象の丸い頬を両手で抑え、かぶりを振るばかりで要領を得ない。

「とにかく落ち着いてください。父がどうしたんですか。また癇癪を起こしているようなら僕が代わりに話してきますよ」

 両目に涙を浮かべ、やっとの様子で呟くようにこう答えた。

「二階で、お亡くなりになっております⋯」




 午後五時五分、それぞれの部屋にいた藤木妙と藤木里美を呼び、藤木家の全員が集まった。里美と憲武は階段で、真知子は妙に付き添ってエレベーターで二階に昇る。一階には憲武夫妻、妙、真

 知子の部屋、さらにリビングと厨房があるが、二階には物置と、藤木健次郎の自室兼仕事部屋があるのみだった。ちなみにシャワー室とトイレは各部屋に備え付けてある。




 目の当たりにした衝撃的な光景に一同は息をのむ。特に妻である妙は哀れなほどに狼狽えていた。健次郎が彼の部屋に続く廊下の真ん中で、うつ伏せに倒れていたのである。手足をだらりと

 力なく伸ばし切り、その体に生命の存在を感じさせなかった。憲武が駆け寄り呼びかけるが、既に死んでいるという事実をより強く印象付けるだけに終わった。そして何より彼らを戦慄させたのは健次郎の背中に突き立てられた包丁と、それに

 よって流れた血の染みだった。

「殺されている⋯?」

 憲武の呟きに全員が息をのむ。今日この家には一人の来客もなかった。つまりこの中の四人の誰かが殺人犯だということを示しているのである。

「とにかく警察を呼ぼう。里美、電話してくれ」

 わななく手を必死で抑えつつ携帯電話を取り出した里美は一一〇に通報をする。妙はかなりのショックを受けたらしく、ぐったりとしてしまっていた。

「すぐに警察がきてくれるよ、母さん。一度リビングに戻ろう。真知子さん、紅茶を淹れてもらえますか」




 紅茶の用意されたリビングには恐怖と緊張が満ちていた。全員の頭の中に「この中に人殺しがいる」という事実がこびりついていた(正確には真犯人を除く全員であったが)。その証拠に、誰もカップに口をつけようとはしなかった。

 重苦しい沈黙を破ったのは誰の発言でもなく、里美の携帯電話の着信音だった。素早く受け、はい、はい、と小さく返事をした後、えっと短く声をあげて電話を切る。

「下の道が崩れてすぐに来るのは無理だそうよ。少なくとも明日の昼までは無理だって連絡が⋯」

 誰も声をあげなかった。ピアノ線をナイフで切り付けているようだった。




 とにかく状況を詳しく調べよう、と言い出したのは里美だった。

 気が狂いそうになるのを振り払おうとしているようだった。他のものも同じだったようでそれに賛同した。

「私はリビングにいたいわ。健次郎さんのあんな姿見たくないもの」

「それはそうだけど⋯一人になるのは危険だよ母さん。廊下の端でもいいから上にいた方がいい」

 最終的に妙が折れ、一同は二階に戻ってきた。妙はエレベーターホールから部屋に向かう曲がり角で座って休み、それ以外の三人は遺体を調べ始めた。





 遺体は背中の刺し傷以外にもう一か所、正面の腹部のあたりにも刺し傷があった。傷を庇っていたのか両手には赤黒く固まりかけた血がべったりと付着している。

 床の絨毯には足を引きずったような跡と血痕が部屋のドアまで点々と続いている。憲武が指紋の残らないようシャツの裾越しに血のこびりついたノブを回してドアを開け、中を見ると中央あたりで大きい染みになっていた。

「お部屋の中で刺されたのでしょうか⋯そして必死でお逃げになったところを追いかけられて背中にもう一度⋯」

「ああ、そうかもしれませんね⋯年の割に元気な人でしたから、一度刺されても逃げる体力はあったかもしれません」

 部屋の中には仕事用の資料とその書架、電話、サイドテーブルの他にエアロバイクやルームランナーを置いてある。気分転換に運動を行い、妙や真知子のために設置したエレベーターも自分は使わず必ず階段で移動する。エレベーターに関しては憲武や里美の方が利用することが多いほどだ。そのくらいに健次郎の体は丈夫だった。社長を続けるには体力を衰えさせるわけにはいかない、というのが口癖で、そのおかげか七十歳を超えても大

 きな怪我や病気をすることもなかった。

「真知子さん、お義父さんは三時の紅茶の時どうされてましたか?」

 里見が怯えたように問いかける。

「いつも通りワゴンで皆さんのお部屋にお持ちしたあと、そのまま旦那様の部屋にも参りました。そのときにおかしなご様子はなかったと思います」

「じゃあその二時間半の間に⋯」

 その先を言おうとして里美は口をつぐんだ。

「どうしたんだ里美」

「いや、その⋯私はその間部屋に一人でいたから⋯アリバイがなくって⋯でも私、やってないわ、本当よ」

 顔を両手で覆って俯いてしまう。精神の負荷が限界まで達しているといった風だった

「大丈夫、誰も里美を疑ってなんかいないよ。それにその時間は僕もリビングに一人でいたからアリバイがないのは一緒さ」

 里美にそう声をかけながらも憲武の手には汗がじっとりと滲んでいた。



「そうです。私も部屋に一人でおりましたので同じです。奥様からお呼びがかかることもございませんでしたから状況は皆同じでございますよ」

 里美の肩を抱くようにして真知子も言った。

「それに旦那様はお仕事をなさっている間、内カギをかけて何方もお部屋にお招きになりません。この中の誰にも旦那様に手をかけることなんてできません。そうです、きっと何者かこの雨に紛れて窓から忍び込んだのでございますよ」

 それを聞いて少し落ち着きを取り戻したようで、里美は何度か大きく深呼吸をした。

「ごめんなさい⋯同じ家に殺人犯がいるだなんて考えたくないけどつい⋯。もう落ち着いたわ、ありがとう」




 真知子の考えを受け、三人は侵入者の痕跡を探して部屋を調べることにした。が、それもすがるような思いを砕く結果となった。

 外へつながる窓はカギが閉まっていて何か細工をした後は見られなかった。換気扇は留め具のねじがさび付いていて、これも外した跡はない。そもそも健次郎の部屋は二階に位置していて壁によじ登れる部分はなく、仮に特殊な訓練をしていたとして、この雨の中ではとても無理だろう。さらに言うならばその壁の下は十メートルほどの崖になっており、真下は湖が待ち構えている。

 ついには部屋のトイレのタンクやシャワー室の排水まで見て回ったが何も見つけることができなかった。

「おいおい、これは一体どうなってるんだ。僕ら以外の人間どころか、誰にもこの部屋には入れなかったということになってしまうじゃないか」

 部屋には混乱が生まれ始めていた。

「もしかしたらこれを動かしたら何か見つかるかもしれないわよ。そうよ、他は全部見たんだもの。そうに決まってるわ」

 半ば衝動的に里美が書架を動かそうと引っ張る。しかし彼女の力ではどうにもならない。

「わかった。動かしてみよう。隠し扉とか抜け道があるかもしれない」

 そういうと憲武は書架を掴んで腕に力を込める。かなりの重量があったがずりずりと少しずつ動かすことができた。すぐに里美と真知子がくまなく調べたが絨毯をはがした跡も仕掛けがある様子もなかった。書架を戻すと、とうとうその場に全員が座り込んでしまった。




 さて、ここで補足をしておく。藤木邸には事件当日から次の日の正午ごろ警察がやってくるまで、誰も訪ねて来ることはなかった。つまり建物内にいたのは憲武、里美、妙、真知子の四人だけ

 である。

 次に凶器となった包丁は厨房に置いてあったうちの一本であったが、厨房は誰でも入ることができる。また廊下に人がいないタイミングであれば誰にも見られずに入ることもできた。

 最後に三人の部屋の調査に落ち度はなく、抜け道や細工の跡はない。




 さて、犯人は誰か。またその方法は如何なるものか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る