2-8 淑女が銃を撃つ理由(2)

「この国にはそうやって、背負っていたものを投げ出した先人たちがたくさんいる」


 ヨアヒムが粗略な言葉でまとめるのは、アスディスが知らないユルハイネン聖国の歴史である。過去の為政者たちは、やはり国を捨てていたらしい。

 その積み重ねを踏まえた上で、ヨアヒムは自分の取るべき道を決めている。


「でもたまには誰かが守り続けるふりをしなければ、価値のない大義の犠牲になってきた者たちに申し訳がないだろ」


 ヨアヒムは冷えた指でアスディスの頬にふれ、自分が死ぬべき理由を語った。


 確かにアスディスが好きになったヨアヒムは、斜に構えた言動をとるくせに、こうした律儀で面倒な生真面目さを抱えた男である。

 だが恋人のように耳元でささやけば流されると思われたくはなかったので、アスディスは無駄だと思っても言い返した。


「それがヨアヒムで、殺すのが私である必要はあるの? 私はヨアヒムを殺して、この部屋を出ていきたくない」


 アスディスはヨアヒムの手を振り払い、真っ直ぐに目を見てにらむ。

 そのアスディスの行動は、ずっと何かに耐えた顔をしたヨアヒムから、さらに決定的な離別の言葉を引き出した。


「じゃあ君が、僕と一緒に死んでくれるのか」


 唐突に孤独な子供のような表情をして、ヨアヒムはアスディスの手を掴んで言った。ヨアヒムはただ孤独を埋める相手を求めていて、それはアスディスでも誰もよいはずだったが、わざわざ来たのはアスディスだった。


 ヨアヒムのその問いに、アスディスはすぐには答えられなかった。

 頷けないことは、わかっている。だが一人で死ぬことを恐れているヨアヒムを突き放すことは、アスディスにはできなかった。


(私がヨアヒムを好きでいたのは、この数週間の間だけ。でもどれだけ時間をかけてもきっと、私はヨアヒムと一緒に死ぬことはできない)


 アスディスは金色の前髪に隠れた寂しげなヨアヒムの瞳を見つめながら、彼と自分が結ばれないことをはっきりと理解する。


 アスディスは好きな人を救えるほどには強くはないが、一緒に死にたくなるほど弱くはない。

 だからいくら考えてみても、アスディスには恋人と心中する人間の気持ちがわからない。


 また強欲で何も手放すことができないアスディスは、自分の命を犠牲にするという発想を最初から持ち合わせてはいなかった。

 ヨアヒムが背負っている国は自分とは無関係で何の価値もなく、そのためには死ねのはありえない。

 特に深い理由はなくとも、アスディスはこれからも普通に生き続けたかった。


(おとぎ話の死んだ海鳥を、私は幸せだと思えない)


 アスディスはヨアヒムの背後の窓から見える夜空を眺めて、船上で聞いた海鳥の昔話を思い出す。


 翼を捨てて王子とともに死んだ海鳥のようにはアスディスはなれないし、またなりたくはなかった。アスディスは海を捨てた海鳥ではなく、ヨアヒムの手は掴めない。


 アスディスは二人で陸で死ぬのではなく、二人で海の上を飛びたいのだ。


「私はただ、好きだから一緒にいたかっただけなのに」


 やがて半分は諦めて、アスディスは顔をしかめる。涙が流れることはなかった。

 本当の意味でお互いのことを知る前に別れが訪れたことが寂しくて、もっと二人で一緒にいて好きになりたかったと思う。

 本当に愛し合うためには、明らかに時間が足りない。


 ヨアヒムはアスディスに覚悟を決めさせるために、さらに言葉を重ねた。


「僕が死んだら、指や目は持っていってくれて構わないから」


 一緒には死ねないことを態度で示したアスディスに、ヨアヒムはまた別の重い愛を伝える。


「そんなもの、私はいらない」


「生きてる僕はどこにも行けないから、その代わりだと思ってほしい」


 正直にアスディスが断ると、ヨアヒムは今度は指を絡ませて手を握ってきた。

 ヨアヒムの深紫の瞳は、遠い海の向こうを見るように、アスディスの姿を映している。


(ヨアヒムはどこにも行けずに死ぬ自分の代わりに、私に広い世界を見てほしいんだ)


 ひどくおかしな提案の裏にある切実な想いを、アスディスはそのときやっと理解する。


 ヨアヒムの前には決して外に出られない境界線があり、アスディスの前には中には入れない境界線がある。

 生まれも育ちも、信じる神も。

 何もかもが違う二人の間には、切り立つ崖がそびえている。

 しかし絶対的に隔てられているからこそ、二人はお互いの姿を見つめ合う。


 だからもしかすると最初に簡単に口づけしてくれた時点で、ヨアヒムは自由なアスディスに惹かれていたのかもしれない。アスディスはそう信じて、自惚れた。

 そして観念したアスディスは、ヨアヒムが差し出した銃を掴んだ。見たところ装填は済んでいるようだった。


「失敗して、すごく痛くても知らないよ」


 アスディスは重い長銃を構えてヨアヒムを寝台に押し倒し、シャツ越しにヨアヒムの心臓を狙った。

 ある程度は使い方も知ってはいたが、実際に人を殺すとなるとちゃんとできる自信はない。


「少しくらい痛くてもいいから、僕は最後も君の笑顔が見たい」


 もうすぐ死ぬ人間は注文が多くて、ヨアヒムは銃口を握って自分の心臓に当てながら微笑んだ。

 アスディスには、ヨアヒムが笑っていても後悔がないようには見えなかった。


(私が来るまで一人で泣いてたくせに、強がって)


 暗く冷たい部屋で一人で声を押し殺して泣いていたヨアヒムを想像すると、アスディスも胸の奥が痛む気がする。

 だがアスディスには、ヨアヒムを殺す以外の道は残されてはいない。


 ヨアヒムにとっては最初からこの恋は殺してもらうためのものであり、アスディスは恋した相手の願いによって殺人者となる。

 その事実を改めて噛み締めれば、自然と口元には諦観した笑みが浮かぶ。


 投げやりなアスディスの微笑みを見て、寝台に倒れてアスディスを見上げるヨアヒムも笑みを深めた。


「ありがとう、アスディス」


 ヨアヒムは最後に、アスディスの茶色の長い髪をそっと撫でて、お礼を言った。


「好きだから、特別だよ」


 銀色の引金に指をかけて、アスディスは生きているヨアヒムを目に焼き付ける。

 アスディスはそのときやっと、自分が売ってきた商品がどういうものかを直視し、銃が放つ一発の重みを知った。


(好きじゃなかったら、こんなことはしない)


 そう心の中で思ったときに、アスディスの指は引金を引いた。


 鉛と銅で出来た弾丸が銃口から放たれ、そのままヨアヒムの心臓を撃ち抜く。


 アスディスは失敗しなかったようで、ヨアヒムは微笑をたたえたまま息絶えた。

 心臓を撃った傷の血しぶきは思ったよりも激しく、ヨアヒムのシャツとアスディスの黒いドレスを派手に汚していた。


(気に入ってたドレスだったけど、まあいいか)


 アスディスは上等な絹のドレスが血に汚れたことを残念に思ったが、まだ他にたくさんの服を持っているので気にしないことにする。


 そっとヨアヒムのまぶたにふれて、アスディスはその虚ろになった目を閉じさせた。大きく開けられた窓からの冷たい外気にさらされていた身体は、死ぬ前から冷えていたようだった。

 その冷たさが気の毒な気がして、アスディスは明かりの消えた夜の寝台の上でヨアヒムの細い身体を抱きしめた。


 一緒に死ぶことができないアスディスは、せめて自分の手を汚してヨアヒムを殺した。

 それが唯一、アスディスが払うことのできた犠牲だった。


 人を殺したことのなかったアスディスに、どれほどの価値があったのかはわからない。けれども、アスディスはたったひとつのものを捨てた。

 アスディスはヨアヒムを手に入れようとした代償として、後戻りのできない道を選んだのだ。

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