2-5 海鳥のおとぎ話

 金貨の入った飾り袋と引き換えに、船から木箱に詰め込まれた大量の銃や麻布に包まれた大砲が降ろされる。

 ヨアヒムには実際よりも値段を高く記した書類が渡され、食料を売らずに残すための取引は予定通りに進んだ。


 しかし武器商人の娘としてやることを全て済ませても、アスディスは理由をつけてハーフェンでの滞在を引き伸ばした。

 目的はもちろん、ヨアヒムと恋をすることである。


「出港はしてないけど、初めての船の乗り心地はどうかな?」


 自分の船の甲板に堂々と立ち、裾に白百合の花の刺繍を施した赤いドレスの上に厚手のショールを羽織ったアスディスが後ろを振り返る。


 顔を向けた先には平民に変装して野暮ったい生地の上着を着たヨアヒムがいて、船の畳まれた帆や鎖の巻き上げ機を眺めていた。


「まあ、悪くはないな」


 ヨアヒムは慣れない場所を前にしつつ、興味深げに頷く。


 人払いをしたので、近くに船員たちはいない。


 今日は一年中が冬のように暗い気候のハーフェンしては珍しく、空が青く晴れた日だった。

 だからアスディスは、港町の領主をしていながら一度も船に乗ったことがないヨアヒムを、港に泊めている自分の船に招待したのだ。


「晴れれば、ここの海も綺麗なんだね。普段は灰色ばかりなのに」


 アスディスは潮風になびいた前髪を手で抑えつつ、昨日の暗く淀んだ海とは違う、ほの青く透き通った今日の海を横目で見る。

 するとヨアヒムもアスディスの隣に並び、まぶしそうに目をすがめて海の方を向いた。


「そうだな。こんなふうに海が光る日には、海鳥の伝説を思い出す」


「海鳥の伝説って?」


 ヨアヒムの穏やかな横顔を見つめて、アスディスが聞き返す。

 港町にしては船の少ない海を眺めたまま、ヨアヒムは静かに口を開いた。


「人間の王子に恋をして、翼を捨てて人間の少女になった海鳥のおとぎ話だ」


 淡々とした口ぶりで、ヨアヒムはある一つの昔話について話し始める。


(おとぎ話なら、幸せに終わるはずだよね)


 アスディスは本の読み聞かせを聞く気持ちで、童心に返って耳を傾けた。期待しているのは、幸せな恋物語である。

 しかし続く言葉は、ヨアヒムの表情の朗らかさに反して明るくはない。


「人間になった海鳥は、その美しさで憧れの王子の心を射止めた。それから愛し合った二人はめでたく結ばれて、城で幸せに暮らした。だがある日、山よりも高い津波が城を襲って二人は死ぬ。海鳥は水に溺れて死ぬはずのない存在だったが、翼を捨てたから逃げられなかったんだ」


 硬質なヨアヒムの声が語ったのは、昔話らしい理不尽な悲劇だった。


「えっ、それで終わりなの?」


 あまりにも救いがない結末に、アスディスは思わず不満の声を上げた。


「これで終わりの話だが」


 何がおかしいのかわからないと言った様子で、ヨアヒムが怪訝そうな顔をしてアスディスを見た。

 思っていた話と違ったアスディスは、肩をすくめて率直な感想を伝えた。


「何だか、悲しい話だね」 


「そうだな。王子なんかのために自由な翼を捨てて、わざわざ不自由な地上に来るなんて海鳥も馬鹿なことをした」


 アスディスがつまらなそうにしていると、ヨアヒムがそっと革の手袋をはめた手でアスディスの背に触れる。

 どうやらヨアヒムは、海鳥と王子をアスディスと自分に例えているようだった。


 ささやかなヨアヒムの愛情表現ではもの足りず、アスディスは今度は自分からヨアヒムにじゃれてまとわりついた。


「その理屈だと、私も馬鹿ってこと?」


 頭をヨアヒムの肩に預け、アスディスは冗談っぽく文句を言う。

 そのアスディスの顔を横から覗き込み、ヨアヒムはわざと冷たく笑って間違いを正した。


「君は僕なんかのためには、何も捨ててはいないじゃないか」


 思慮深い深紫色の瞳で、ヨアヒムはアスディスの本質を見抜いていた。

 恋人同士のように睦み合うことを楽しんでいても、アスディスはいつかは船に乗ってこの地を去っていく人間である。

 そして自分を卑下してごまかすヨアヒムもまた、武器商人の娘の戯れの要求に付き合っているだけなのだ。


(だけど私にだって、本気の気持ちはあるんだけどな)


 軽い女だと言われて面白くなかったアスディスは、意外と薄いヨアヒムの肩を掴み、海を背にして真っ直ぐに向き合った。


「何も捨ててなくても、好きは好きだよ。神様にだって、少しは誓える」


 あえて口づけはせずに、アスディスは勝ち気な淡褐色の瞳でヨアヒムを見据えた。


 アスディスは海神に雷神に、大小様々な神が登場する神話を信じて生きているので、些細なことでも神に誓うことができる。

 しかしヨアヒムはアスディスとは違う、唯一絶対の神への信仰を持っていた。


「君と僕じゃ、信じる神が違うだろ」


 力なく微笑んだヨアヒムはアスディスの腰に手を回し、耳元にささやいてそのまま編み上げた茶色の髪にキスをした。

 よく晴れているのでそう寒くはなかったけれども、それでも抱きしめられれば温かくてほっとする。


(違うからこそ、好きになるのに)


 アスディスは何かを言ってもまた否定される気がしたので、黙って心の中でつぶやいた。

 船の手すりの向こうでは波が打ち寄せては引く音がして、さらに遠くからは街の喧騒が聞こえる。


 ヨアヒムには自分の国があり、アスディスには帰る土地もない。


 しかしだからこそアスディスは行きたいところにはどこだって行けるし、食べたいものは全部食べられると信じている。

 その確信を裏切られたことがないアスディスは、望めばヨアヒムもそのうち手に入るはずだと、根拠もなく思っていた。

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