髪【全年齢版】

水野酒魚。

 九月十七日。

 多田から小包が届く。出勤しようと靴を履きかけた所に郵便屋がもって来た。

 小さな、両手に収まりそうなくらいの箱。受け取るだけ受け取ったが、その日は忙しさに取り紛れて、結局家に帰るまで忘れていた。


 一人寝のわびしい住まいへと帰る。喜んで迎えてくれる人や動物でもいれば、いくらか気分はマシになるんだろうか。いや、俺はそれを重荷だと感じるだろう。

 マンションタイプ、2Kの賃貸住宅。二人で住むには狭い部屋だ。ここに住んで早四年。次に更新が来ても引っ越すつもりはない。今の給料ならもう少し広い部屋に移ることも出来る。だが、そのためにかける費用と労力のことを考えるとこのままでいいと思う。

 キッチンを抜けて、リビングにしている六畳の洋室へ。ガラスのまった戸を、いつも通り何の気なしにあけた。

「遅かったな」

 リビングに誰かがいる。泥棒か。反射的に電灯のスイッチを探った。

 電灯がともってもどこか薄暗いような室内。家具もそう多くはないが、必要だと思うものはすべてそろっている。

 数少ない家具の一つ、初任給で思い切って買ったオレンジ色のカウチにもたれて、調子よく片手を上げている男がいる。泥棒ではない。良く見知った、押しの強そうな顔。

 多田ただ芳行よしゆきだった。

「……なんだ、多田か……おどかすなよ」

おどろかしてやろうと思って」

 学生時代からの悪い癖だ。多田は人を驚かせることにかけては天才的だった。隙があればイタズラを仕掛け、突拍子もないことを言い出して周囲をあっといわせる。

 何度そんなことをくり返しても、不思議と周りから嫌われるということもない。むしろ諦めとともに、次に多田がなにをやってくれるのか、期待する風さえあった。

「来るなら来るって連絡くらいしろ」

「……驚かしてやろうと思って」

 全くあきれてしまう。自分はそんな多田を容認している者の一人なのだと、そう思うと腹が立った。上着とネクタイを脱ぎ散らかして、多田の隣に鼻息荒く座り込む。

 普段なら、けして着たものを脱ぎちらかしたりなどしない。軽い興奮状態は多田がいるせいだ。

「いつ帰ってきたんだ」

「今日」

 軽く互いの唇を触れ合わせてから多田の目をのぞき込む。どこか子供っぽく、それでいて悟り澄ましたような焦げ茶色。

 多田はフリーのカメラマンだ。

 俺と多田は都内にある大学の経済学部出身で、二人とも写真をやっていて、写真同好会に入ったのが出会いだった。

 俺は結局、趣味として写真を割り切った。卒業後は真面目に商社に勤め、それから今勤めている出版社に鞍替えしたが、やっているのは営業職だ。

 一方の多田は、趣味を仕事にしてしまった。

 一度個展を見に行ったことがある。多田の目は静かだが、力強く対象物を写す。

 ただ、芸術的な作品制作では食べて行けずに、報道カメラマンめいた事もしていた。

 行動派の多田と、静物専門の俺は不思議とウマがあった。

 サービス精神旺盛で、口や態度は子供のように落ち着きがないが、その実一人静かにしている事を好む多田と、仕事でなければ騒がしい事も人と積極的に接する事も嫌いな俺。お前といると静かにしていられるから良いんだ。冗談半分、多田は言っていた。

 学生時代はよく二人、つるんで撮影旅行に行った。観光シーズンはバイトして金を貯め、人気のなくなった頃を見計らって遠出する。

 いつだったか、もう思い出せない。恒例になっていた伊豆への旅行中、俺たちは抜き差しならぬ関係になった。

 二人ともコミュニケーションに飢えていた。それに若かった。

 今となってはそう若くもない、職場に行けば仕事仲間もいる。

 だが、肌を合わせるほど深く関係したいと思える人間はお互いに一人だけだった。

「今回は短かったじゃないか」

「さみしがってるんじゃないかと思って」

 多田は近ごろ報道カメラマンとしての仕事が増えて、取材で海外へ飛ぶことも多くなっていた。一度日本を出ると帰ってくるのが億劫おつくうになるのか、大抵半年ほど戻ってこない。今回は二ヵ月。純然たる仕事旅行だったのだろう。

「お前がいないと静かでありがたい」

 憎まれ口を聞く俺に、多田は嬉しそうに笑って見せる。野外をほっつき歩いていたのだろう。よく陽に焼けた肌に、歯が白く生える。

「俺は寂しかった」

 腕が伸びてくる。器材搬送できたえた引き締まった腕。その癖指先だけはやけにしなやかで。

 俺を抱き寄せる。

 自然と、口をきく代わりに口付けた。互いに何度も角度を変えて、一番深く繋がれる場所で舌先を触れ合わす。濡れた音。漏らした吐息。微かな音だけが聞こえる室内。電車が走りさる残響が遠く。

 俺は多田の首の後ろに腕を回す。うなじに触れる。そこにあったはずのちょろりとした尻尾しつぽが無くなっている。この前、長丁場だった撮影旅行から帰ってきて、髪を切らずにいたら結べるようになったんだと、何故だか得意気に尻尾を見せた多田の顔が。脳裏をよぎる。

「……髪、切ったのか」

「ああ。長いのはもう飽きたんだ」

 そのほうがいい。長いのは似合わない。心中そう思う。

 人なつっこく微笑む多田はただでさえ子供っぽい。ひげを生やせとまでは言わないが、年相応な髪型にしておいた方が無難だろう。

「今度はいつまでこっちにいるんだ」

「ずっと。出て行くのは今回で最後だ。ずっとお前の側にいる」

「そんな事いいながら、二、三ヵ月後にはけろりとした顔で飛行機に乗ってるんだろ?」

「ほんとに本当だ。もうお前にさみしい思いさせたりしないから」

 しおらしいことを言う。でも、多田の『ほんとに本当』が実現することは滅多にない。

 俺はもう諦めている。それならそれでいい。でも、多田が日本にいる内はこうして一緒にいたい。

「多田……キス……」

「キスマークつけていい?」

「……見えない所なら」



 朝はいつだって気だるい。

 遮光カーテンの隙間から明るい朝日が忍び込む。俺は眩しくて目をすがめる。

 素肌にシーツの温もりが心地好い。カウチで一度、ベッドに移って一度。昨晩の狂態を思い返して、俺はひそかに赤面する。ガキの頃みたいな交わり。夢中で貪って、一緒に眠った。

 あくびと共にベッドを抜け出す。洗いたてのTシャツだけかぶって、裸足のまま台所に立つ。コーヒーメーカーをセットして、眠気ざましにテレビを付けた。

 ちょうど朝のニュースの時間。画面の隅の時計には5:36の文字。まだ早い。

 もう一眠りしようとした俺を、アナウンサーの一言が呼び止めた。

『……この銃撃戦でカメラマンの多田芳行さん、32才ら三人の日本人が犠牲となり……』

 ──今、なんて言った。

 俺は自分の耳を疑った。だって、多田は、多田は、此処ここにいる。

 同姓同名の他人だと思った。だが、事件が起こったと言うその国は、多田が行っていた、中東地域のイスラム国家で。

 俺は水道を止めることも忘れて、寝室に駆け込む。多田はそこで寝ているはずだ。

 寝具をめくる。そこには寝乱れた跡があって。多田はいない。多田がいると思っていた俺の隣は、冷え切っていた。

 嘘だ。確かに多田はいたんだ。此処にいて、俺に言った。もう何処どこへも行かないと。

 その時俺は、多田からの小包を受け取っていたことを思い出した。中身を確かめぬままだったそれに、すがり付くように。封を切った。

 中から出てきたのは髪の束。多田が髪を結ぶのに使っていたゴムにまとめられて、ちょうど、あの尻尾をそのまま切り落としたみたいな。他には手紙も何も入っていなくて。

 それはきっと、また、多田のイタズラの一つになるはずだったんだろう。こんなもの前ぶれもなく受け取ったら、誰だって驚く。

「……馬鹿野郎」

 多田は帰ってきたんだ。最後に、俺の所に。俺にはそれがわかった。

「……おかえり……芳行……」

 ほんとの本当に。おかえり。ずっと俺の側にいて。もう二度と、俺の側を離れないで。

 俺は多田の遺髪を抱きしめて、静かに泣いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

髪【全年齢版】 水野酒魚。 @m_sakena669

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説