第43話 楠木氏はいつ来たのか?
☆ 霜月騒動より前にやってきた可能性 ☆
楠木氏の北条得宗被官説!霜月騒動後に河内に来たとするのは難しいんじゃないかなと(過去に)言いましたが、それ以前なら可能性あるのかな?!('22/08/26)
もし、それ以前に北条方として入植してたなら、まだ健在な安達方とどう折り合いを付けたのかな。赤坂は観心寺荘ではないのでは?っていうのもあるけど、そもそも観心寺荘にこだわる必要はなく、河内国自体が北条氏の守護国なので、その関係で駿河?東国?からやって来たと考えれば、もっと前に遡れる。('22/08/26)
元々、河内国は三浦泰村が守護を務めていた。その泰村が宝治合戦で滅びるのが1247年。それから北条氏の守護国になったんだろうけど、すると、河内楠入道の事件より50年近く遡れる。('22/08/26)
☆ 楠木石切場 ☆
太子町の「近つ飛鳥博物館」に行ってきました。入り口が何処かわからずあたふた(汗)。('22/07/17)
その後に竹内街道歴史資料館まで足を延ばしてきました!('22/07/17)
この資料館の近くに楠木石切場、つまり
太子町に楠氏堂(なしんど)という地名があるはずなんだけど、地元の人に聞いてもわかりませんでした。('22/07/17)
(場所を教えてもらったフォロワーさんに)ありがとうございます。今度行くときには、しっかり下調べしてから行きたいと思います。('22/07/17)
近年、にわかに楠木氏の出自説として脚光を浴びる、北条被官説と
☆ 楠木氏の前に河内石川郡で威勢を張った石川氏 ☆
河内源氏と言えば頼朝、尊氏、家康(自称)を排出した武家の棟梁の血筋。源頼信、頼義、義家の家祖三代が河内石川郡壷井に居を構えたことに所以。嫡流は外に出て、この地を相続したのは義家の五男義時。鎌倉時代まで石川氏として勢力を維持。この石川氏を駆逐して勢力を拡大したのが楠木氏とも。('22/03/01)
楠木正成の配下に石川性の者がいる。この石川は河内源氏の本拠地を受け継いだ源義家の五男、義時の子孫と思われる。壺井あたりを中心に勢力を保っていたが、楠木氏が台頭して、配下に入ったものと考えられる。('22/09/02)
で、判官代の石川次郎は、大ヶ塚城を任されたらしい。一説には和田正俊の娘が嫁いだとか、楠木某が婿に入ったとかで、楠木とは縁戚の模様。ただ、大ヶ塚城は大塚氏の本拠だし、判官代だから、もしかしたら、大塚惟正と石川次郎は同じ人なのかもしれない……。('22/09/02)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます