第42話 橘氏と楠木氏

☆ 橘氏と楠木氏の繋がり ☆


 昔から気になってるのが、楠木正成が橘氏を冒称したとする記載。任官にあたり自らの出処を質すため源平藤橘の一角を称したのではとされる。しかし、箔付けなら橘氏を称する意味がわからない。わざわざ落ち目の橘氏を称することの方こそ、信憑性があるのだが。('22/08/27)


 橘氏は橘諸兄の子孫の皇別橘氏と、橘氏から名乗りを許された伊予橘氏がある。橘氏を名乗る武士は後者が多い。橘遠保が藤原純友を捕らえて武名を上げたことで武門橘氏が地位を得たから。しかし、正成自身は橘諸兄の後裔と称している。('22/08/27)


 もっとも、伊予橘氏には皇別橘氏に繋がる系図もあるから、事実はともかく、正成自身は伊予橘氏を経由して橘諸兄に繋がる血筋と理解して、橘諸兄の後裔と言った、という可能性も無きにしもあらずですが。('22/08/27)


 そもそも皇別橘氏は河内和泉に縁深い。橘氏本貫の古市尺度は、楠木氏の東条に隣接している。また、楠木党が支配した岸和田(和泉国)の、正成所縁の久米田寺の近くには橘諸兄の墓と伝わる貝吹山古墳がある。('22/08/27)



☆ 鎌倉幕府の橘氏 ☆


 北条得宗被官説の背景には、源頼朝の上洛に随行した楠木四郎という人物がいる。承久の乱で活躍の奈良(橘)四郎と同一とし、さらに、橘公長の四男、橘公高に比定し、この人の本貫を駿河国入江荘楠木にするという大胆な推察である。('22/08/28)


 頼朝時代の鎌倉・東海の橘氏も大きく二系統がある。ひとつは平家方の駿河国の目代、橘遠茂の橘氏。伊予橘氏の系統と伝わる。もうひとつが、頼朝の元に参じた橘公長の橘氏。皇別橘氏か伊予橘氏なのか不明(両説あり)。楠木氏が北条得宗被官だった場合、どちらかの系統となるんだろうけど……。('22/08/28)


 まずは駿河国の目代だった橘遠茂の橘氏。遠茂親子は討ち取られてるが、駿河国入江荘の楠木村を本貫とする一族が北条氏の傘下に入って被官となったとも考えられる。('22/08/28)


 もうひとつが橘公長の橘氏。元々は平家の家人であったが、源為義に受けた恩義を忘れず、東国に下向して孫の頼朝の元に参じたという。その四男の公高が頼朝に随行した楠木四郎との説もある。はたして、駿河国入江荘の楠木村を与えられたのはこの公高だったのだろうか。('22/08/28)


 橘公長の公は皇別橘氏で使われる通字のひとつ。仮に皇別橘氏とした場合、公長の祖先は大納言、橘好古の息子の橘敏政。ちなみに楠木正成は、皇別橘氏に繋げる尊卑分脈(1300年代後半)で祖先をその敏政の兄、橘為政とするので、正成は(一説に楠木四郎に比定される)橘公高の子孫ではないことになる。('22/08/28)


 結局、皇別橘氏か伊予橘氏か結論はでませんが、正成自身は橘諸兄を祖先と意識してたんだろうと思う。('22/08/28)

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