第33話 後南朝に至る経緯

☆ 南北朝合一後の南朝皇族の動向 ☆


 南北朝の終焉と共に南朝後胤たちは野に下り、草となったわけではなく、京の朝廷の元に、皇位継承権を持つ南朝系の三宮家(小倉宮家、玉川宮、護聖院宮家)が作られ、京の公家社会とも関係を保っていました。('22/09/14)


 しかし、後小松天皇の次の天皇にはなれず、また後に後小松天皇の血筋が途絶えることになった時も、天皇に選ばれなかった南朝系宮家の筆頭、小倉宮は反発。いろいろあった後、足利義教は禍根を断つべく三つの宮家を断絶させるに至り、南朝後胤たちは野に下って後南朝として抗った。('22/09/14)


 後亀山天皇直系の小倉宮家は出奔するなどして度々、皇位継承に異議を唱えたが、長慶天皇子孫の玉川宮家と、両宮家の弟筋である護聖院宮家は、幕府や朝廷に従順な態度だったという。しかし、足利義教は容赦せず、宮たちを流罪にしたり、途上で殺害したり、門跡寺院に入れたりして三宮家を取り潰した。('22/09/15)



☆ 南朝系宮家の断絶政策 ☆


 玉川宮家の当主(玉川宮二世?)は落髪させられ、妹or娘?(東御方)は足利義教の侍女・側室になった後に因幡に流罪。さらに、幼い子たち(梵勝・梵仲兄弟)は門跡寺院に入れられる。後に当主は因幡?に、また、寺に入った子たちは奥吉野?に、それぞれ幕府の手を逃れて京から出奔し、行方を眩ましたと伝わる。('22/09/18)


 護聖院宮家は当主(護聖院宮二世、世明王)が死去したあと、跡継ぎの息子たちを門跡寺院に入室させて宮家を廃止。後にこの兄弟宮は寺を出奔して姿を眩ます。この兄弟こそ、後に、前代未聞の「禁闕の変」の旗印として担がれる金蔵主・通蔵主。('22/09/18)


 小倉宮家は、当主(小倉宮二世)が後花園天皇即位に反発し、北畠満雅を頼って出奔。満雅は挙兵すれども討死。小倉宮二世は京に連れ戻されて出家(聖承)させられ、跡継ぎは門跡寺院に入れられる(教尊)。後に教尊は「禁闕の変」への関与を疑われ隠岐島に流罪。直後に聖承も亡くなる。('22/09/18)


 南朝系三宮家のほか、上野宮説成親王の血筋は、親王が亡くなった後、出家していた子の聖淳が、無実の罪で捕縛される。足利義教は聖淳を流罪とし、配流先で刑死となった。尚、上野宮説成親王は、かつては護聖院宮に比定された候補の一人でもある。('22/09/18)


 護聖院宮家とも、上野宮の子とも伝わる義有王は円満院を出奔し、将軍宮として楠木らに奉じられて挙兵する。王の母は楠木正儀の血筋と伝わる。他にも出奔して野に下った宮たちはいただろう。

 結局、幕府の強硬策が、比較的大人しくしていた南朝後胤たちまで野に散らし、禍根を残すことになる。('22/09/18)

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