第34話 美作後南朝

☆ 美作後南朝 ☆


 美作国に植月、鳥羽野というところがあります。後鳥羽上皇が隠岐に流される途中で休憩した地との伝承。

 植月は後南朝伝説の地でもあり、鳥羽野には室町時代?と思われる大きな墓(五輪塔)があります。誰のかわからないですが。('19/11/19)


追記:美作後南朝にとっての門跡寺院?となる鳥羽山万福寺(廃寺)の、門主となった法親王たちの墓(供養塔)…らしいです。



☆ 美作植月御所を訪ねて ☆


 ここは美作後南朝の御所があったと伝えられる植月というところ。('19/12/14)


 ここは美作後南朝ゆかりの鳥羽山万福寺(廃寺)。元々、植月御所の近くにあったが、第七代の青蓮院宮(尊純)が隣の鳥羽野に移転して、弟の見政院法親王が住職を勤めたとか。('19/12/14)


 謂れのありそうな供養塔(宝簴院塔)や、お墓がたくさん。('19/12/14)


 美作後南朝の信憑性を高めるのは、赤松・山名が支配した地だから。('19/12/14)


 このあたりには、湯浅や隅田などの苗字も残る。後南朝皇子に従ってこの地に来た武士の子孫かもしれない。('19/12/14)



☆ 元禄年間まで続いたとされる美作後南朝 ☆


 美作後南朝伝説の天皇陵!('21/07/04)


 私見だけど、美作後南朝は即位はしておらず、後亀山天皇の血を引く南朝系の宮家の(末裔の)一つかと。江戸時代に入っても、津山藩の森家の庇護のもと、命脈を保ちます。('19/12/14)


 慣例では、皇族(宮家)とされるのは四世王までらしい。例え美作に宮家があったとしても、いつまでも宮家というわけにもいきません。裏技としては、時の天皇から親王宣下を受けて宮家を延命させること。('22/09/17)


 これに関して面白い伝承があります。寛永年間に徳川幕府に抗った後水尾天皇から美作の某親王が譲位を受けて帝になったという。

 これは、譲位ではなく、宮家を存続させるための親王宣下のことだったのではないでしょうか。('22/09/17)


 森家というのは、あの森欄丸の弟、森忠政を初代藩主とする近世大名。忠政がこの地に入封の際、地元の郷士らの願いを受け入れ、美作後南朝の宮家を保護したという。('19/12/14)


 で、その美作後南朝を支えていた(地元の郷士)のが美作菅家党! 菅原道真の曾孫、資忠の次男良正が美作に土着したのが美作菅家の始まりです。('19/12/14)


 近世大名の森家は森長成が急死したことでお家取り潰しとなります。一説には、森家が美作後南朝を庇護していたことで徳川幕府の怒りを買い、長成は暗殺され、藩は取り潰しになったとも。あくまで一説ですが。('19/12/14)


 その森家が三代でお家取り潰しとなると、美作後南朝の宮家を悲劇が襲う。第9代の良懐王のとき、徳川幕府にバレて宮家は廃絶とされます。('19/12/14)


 さらに良懐王は(岡山の)西大寺に向かっていたところで、近臣に刺されます。幕府の命を受けてたんでしょうね。('19/12/14)


 血を流しながら農家に駆け込んだ良懐王は「我は王なり」と言って亡くなりました。王が亡くなった美作後南朝終焉の地には「我王」様のお墓が作られてます!('19/12/14)


 一方、美作後南朝の我王こと、良懐王が殺された後、庶民に落とされた宮家(分家筋)?の人々は、王の一字を入れた名字を受け継ぎながら、現代まで続いているとか!('19/12/14)


 応仁の乱も後南朝が関与してますが、西が擁立した西陣帝も、山名宗全が美作の後南朝宮家から連れて来たのではないかと……私見ですが。('19/12/14)


追記:これについては、西陣南帝の父、岡崎門主を誰に特定するのか、というのが最大の課題ですが、私の考察は、また別の機会に書きたいと思います。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る