「プラチナの季節」に寄せて。

まる・みく

「プラチナの季節」が読まれていた頃。

 私が「プラチナの季節」を読んだのは、高校生の時で、今から40年と少し前だった。

 その頃はライトノベルという公称はまだ存在せず、「ジュニア小説」と呼ばれていて、地方の街々には必ず、三軒や四軒の本屋が必ず、あった。ネットで取り寄せて、本を買ったり、電子書籍として端末で読むという現在からは考えられないが、

欲しい本、読みたい本は必ず本屋を通さねばならなかった。

 「プラチナの季節」を「ジュニア小説」と言うのは、少し憚れるが、あの頃の若い子向けの小説は「ジュブナイル」、もしくは「ジュニア小説」と呼ばれていた。


 その日も何か暇つぶしの本はないかと物色していた。あの頃の出版社は何処も若い読者を獲得しようと、漫画家の先生や漫画家の玉子、つまりは、アシスタントの人に表紙を描かせていて、人気を得ようとしてた。


 頭を一歩で出ていたのが、朝日ソノラマの高千穂遥先生の「クラッシャージョウ」シリーズで、後に「機動戦士ガンダム」で有名になるアニメーターの安彦良和氏を起用していた。早川書房のJAシリーズの平井和正先生の「ウルフガイ」シリーズに触れたのも、この頃だが、途中、出版社が変わり、大人のレーベルの祥伝社に変わった。新井素子先生の「あたしの中の…」を読んだのも、この頃だった。


 とにかく、「自分を何処かに連れていてくれる言葉」を自分は欲していた。今から、思えば、それはただの「現実逃避」で自分は自分の「逃げ場所」を作っていた。辛い現実から「逃げる為の場所」。それが街の本屋であり、図書館であった。


 「プラチナの季節」を見つけたのは、そんな引き籠りがちな高校生活を送っていた時だった。著者の名前は「いずみきょうこ」と平仮名だけであった。


 あの頃の「ジュニア小説」には、今は壮年となってしまった作家や評論家の先生たちが、若い頃に、片手間に書いているものが多く、バイト感覚で書き散らかしていたらしい。男性の人が女性のペンネームで書いてあったこともしばしば、あったようだ。


 だから、その「いずみきょうこ」という先生も、もしかしたら、男性作家のペンネームだったかもしれない。いかにも、「いずみきょうこ」と言う名前がワザとらしい。


 と、考えるのは、今の自分であって、その頃の地方の高校生にとっては、本屋の本棚の一角を占める「ジュニア小説」群れの一冊に過ぎなかったからだ。


 出版社は春風書房、聞いた事のない出版社だったが、ネット時代になってから調べてみると、地方の中小企業の社長が若い読者が増えると言うので、それを見越して立ち上げた出版社らしい。だが、好事魔多しとは、よく言ったもので、その出版社を立ち上げて数年後、負債を抱えて倒産してしまった。その事に触れたブログも知らない間に閉鎖されていた。


 追跡可能な手がかりも残さないというのは、現代の怪談じみているが、都市伝説にもならないというのは、天晴であると感じる。


 「プラチナの季節」の内容を書いておこうと思う。前置きが長くなったが、あの頃の出版状況や読者層は一体、どういうものであるかを書いておかなければ、この小説の「異質」な部分が説明出来ないからだ。


 主人公渡良瀬いずみは地元の女子高に通う高校二年生で、友人は同じクラスの漁火良子だ。ふたりはその女子高の演劇部に所属して、文化祭の演目である「マクベス」の準備をしていた。

 普通、女子高で演劇部と言えば「ロミオとジュリエット」かと思うが、演劇部の顧問の教師が演劇部の部長であった漁火良子に「君にはロミオよりマクベスが似合うと思うよ」の一言で決まってしまった。

 後で判る事だが、漁火良子は他の部員を押しのけ、部長になった経緯があり、顧問の教師はそれをあて越すって言っているのであった。

 こう書いてしまうと、強いキャラクター性は漁火良子なのだから、主人公は漁火良子だと思ってしまうが、語り部は渡良瀬いずみなのである。

 この物語は渡良瀬いずみから見た漁火良子の演劇部の栄光と挫折を描いた小説なのである。

 そんな人を押しのけて、唯我独尊状態の漁火良子をいつも諫めている渡良瀬いずみであったが、演目が「マクベス」と決まると二人の行動は当時の高校生の読者から見ても常軌を逸していた。

  先ずは、配役を決めるにあたって、独裁状態が強化されて、漁火良子の周りから、スタッフとキャストが脱落してしまう。

 これでは「マクベス」ではなくて「リア王」ではないかと、今の自分なら思ってしまうが、この辺りの漁火良子の狂気がジュニア小説とは思えないような筆致で描かれる。

 やがて、この事が、顧問の教師に知る事なり、演劇部の出し物の中止が勧告される。

 怒った漁火良子は放送室に立てこもり、籠城して「学校のスキャンダル」を実況中継してしまう。

 演劇部の顧問の教師はお気に入りの女生徒と関係を持っている事やこの学校自体がこの地方の企業と癒着を持ち、制服や教科書の選定に代々の校長、教頭が賄賂をもらっている事。実は漁火良子自体が賄賂を出している企業の一人娘であったのだ。

 その放送途中に挟み込まれる「マクベス」の名台詞の数々、「人生は舞台。人はみな大根役者。」「消えろ、消えろ、つかのまの燭火、人生は歩いている影にすぎぬ」「泣くがいい、悲しみを口に出さずにいると、いつかいっぱいにあふれて胸が張り裂けてしまうぞ。」「人を邪道にひっぱり込むため、暗闇の手下どもが真実を言うことがある、わずかのまことでひっぱり込んでおいて深刻な結果で裏切るために。」「もし悪なら、成功を約束するような真実で始まるはずはあるまい?もし善なら、そんなあさましい誘惑に、なぜ膝を屈するのだ。」

 母校の悪行を告発する漁火良子はマクベスと同化している存在と化していた。

 学校側は漁火良子の告発をなかった事にするべく、動いたが、それが地元の教育委員会の知る事になり、形だけの「処分」が行われた。

 放送室を占拠、籠城した漁火良子にも処分が下り、「自主退学」と言う形で学校を去る事になった。

 語り手である渡良瀬いずみは桜の散る中、泣きながら漁火良子との別れを惜しんだが「何も、私が死ぬ訳じゃなし。何処かでやり直すだけよ。人生は舞台。人はみな大根役者。いずみ、今度、落ち着いたら、何処かで会いましょ」と漁火良子は行ったが、彼女は遠くの寄宿舎学校に転校して、渡良瀬いずみはと没交渉になる。

 物語の最後は大学生になった漁火良子と語りての渡良瀬いずみがすれ違う場面で終わる。

 どうやら、彼氏の出来た漁火良子には昔の毒気が抜けて、普通の女子大生なってしまっていた。

 語り手である渡良瀬いずみは自分たちの輝かしい「プラチナの季節」が終った事に、静かに涙する。

  

 と、「プラチナの季節」の粗筋を書き出してみたが、私が言う当時の「ジュニア小説」としての「異質」さが理解してもらえるだろうか?

 時は80年代初頭、学生運動も沈静化した後での「学生による暴動」をメインに据えた小説である。キャラクター主体の恋愛小説でもなければ、宇宙を舞台にしたスペースオペラでもない。

 そこには過酷な現実と絶望、それに反抗する姿が描かれるが、反抗したものは、当時の今風の女子大生に変貌している。

 「ジュニア小説」のカテゴリーで、これが発表されていた事に素直に驚く。

 

 時はプラザ合意から始まるバブル経済が始まる少し前の二人の少女の話である。


 もし、地方のひなびた古本屋で見つけたら、彼女たちの涙を感じて欲しい。


 当時の読者として、言えるのは、これくらいだ。

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「プラチナの季節」に寄せて。 まる・みく @marumixi

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