第45話 かばやき

「ひぃーーー!こっちこないでー!あっち行けー!バカー!」

 トキは水辺を駆けている。ルセの滝が落ちた先の滝つぼはゆっくり外周を歩けば半日程はかかろうかという大きさの湖となっていた。その外周に沿うように四つ足で走るトキを追い、ぬめった体躯をくねらせて巨大な黒い影が地面を這っている。左右へのステップを織り交ぜながら、トキはその影から走って逃げている。太陽は中天に差し掛かり、湿度の高い湖周辺は蒸し暑く、その湿度ゆえだろうか、トキを追うその大きく長い体表のそこかしこには放電の様が見える。パチパチと青白い火花が弾けている。

「その調子だトキ!引き付け役、頼んだぞ! レオ、トキの援護は任せた!」森の中からトーマの声がする。また、森の中の別の場所からは矢が放たれる。レオだ。トキを追う黒い影――ゼロ―マという巨大な蛇のような水棲魔獣――には目が無く、顎を持たない輪状の口から牙を覗かせて、視覚以外の感覚器によってトキを捉えているようだ。森から放たれた矢はゼロ―マの身体に突き刺さってはいるが、それがトキからの攻撃であると認識しているかのように、怒りを顕わにして執拗にトキを追い続けている。レオは時折、ゼロ―マの進路上の地面にに火矢を穿ち、ゼロ―マはその炎を嫌がるように一瞬怯み、進路を微妙に変えてやはりトキを追う。

「うぅ……。アタシなんか食べても美味しくないよー」トキがチラと見上げた先のゼロ―マの輪状の口はちょうどトキの頭を飲み込んで、その放射状に並んだ牙はトキの首を綺麗に食いちぎる事ができそうな大きさだった。鎌首をもたげるように身体をくねらせて、ゼロ―マがトキに襲い掛かろうとしたその時、トーマの叫ぶ声がした。

「よし!トキ!まわれ右だ!こっちへ戻ってこい!」

 その声を聞くや否や、トキは湖畔の平地を森側に大きく旋回して、その後にゼロ―マのその巨躯の横をすり抜ける。ゼロ―マはパリパリと小さな放電を体表にまとわりつかせながらトキを追い、平地と湖の間の泥の上をぬるりと方向を変える。

 トキの身体とゼロ―マの頭の距離が最も近くなった瞬間、ゼロ―マの喉の辺りからひと際大きな放電が発せられ、トキの真横に落ちる。「キャン!」直撃はしていないがトキは感電し、身体を硬直させその場に倒れた。

「トキ!」駆け寄るトーマ。だが、少し距離がある。ゼロ―マの頭がトキに向かって落ちてくる。森の中から飛んできた矢がゼロ―マの喉の辺りに刺さる、が、それはほんの一瞬ゼロ―マを怯ませたに過ぎない。そして、ゼロ―マはその牙をトキに突き立て……る直前で硬直している。「ナイス、レオ。なんとか間に合った」そう言いながらトーマはトキを背負って走りだす。中天からの太陽の光が落としたゼロ―マの影にはトーマのナイフが刺さっている。「影縫い、便利なんだけど、オレのの筋力で止めきれない相手はあっという間に解けるんだよなー。シゲルに試した時は三分ほどで弾かれたっけ」トーマはそう言いながらゼロ―マの方へ振り返る。と、同時にゼロ―マは怒髪天を衝くといった体の動きを見せて、より激しく身体をくねらせてトキを背負ったトーマを追ってきた。

「おいおい、マジかよ。一分も持たないのかよ!おい、トキ!トキ!起きろ!追いつかれる!死ぬぞ!」トキはトーマの背で気絶したままだ。「おい!トキ!目をさませ!もう少しだ!あいつを仕留めきったら美味い蒲焼食わせてやっから、目を覚ませー!」トーマのその叫びに呼応して、トキは「なにそれ、なにそれ!なにその美味しそうな響き!かばやきってなにー!」と目を覚ました。「おう!美味いから頑張れ!走れるな?」トーマはトキを背中から下ろす。「ぎゃー!まだピンピンしてるじゃないですかー!トーマさんのバカ―!」トキは振り向いてゼロ―マを見て叫んで、そしてすぐに走り出す。トーマはフッと笑みを漏らし、トキを追う。


 トーマはトキに並び、「こっちだ」とトキを森の中に誘導する。時折ゼロ―マに向けて石礫いしつぶてを投げて怒りを煽る事も忘れない。ゼロ―マに向けた攻撃はトーマとレオが行っていた。トキはゼロ―マに攻撃を仕掛けた事などないが、ゼロ―マににおいを覚えられたのだろうか、ゼロ―マはトキだけを執拗に追っている。「トキ、そのまま真っすぐ走れ! その先にお前にやったマントを吊るしている木がある。そこで止まれ」トーマはトキにそう叫び、トキとは別れ森の中を走る。


 トキは真っすぐ走る。森の木々はトンネルを作るようにトキの進む道を大きく開けている。トキが蹴る地面は少しぬかるんでいるが、走りにくい訳ではない。しばらくして、トキは少し開けた場所に出た。その少しだけ広い森の中の空間のその向こうの木に、トーマからもらったマントを見つけてトキはそこまで駆け寄って、そして振り返る。すると、もう、目の前までゼロ―マは迫っていた。再びゼロ―マが鎌首をもたげ、トキに襲い掛かろうとしたその刹那、ズンッと大きな音がした。と、同時に尻もちをついていたトキの尻に振動が伝わる。そして、その一拍の後に、ゼロ―マはもたげていた鎌首を力なく地面に落とした。その頭部にはトーマの小太刀が刺さっている。


「エルフの植物魔法って、スゲーな」いつの間にかトキの横に立っていたトーマが言った。ゼロ―マの腹部には巨大な岩が乗っている。「こんな巨大な岩を蔦で空中に支えておけるって、ヤバいな」森の中をガサゴソと音を立てながら現れたレオは言った。「いいえ、こんな作戦を立てて下さったトーマさんとレオさんのおかげです。私たちのこの魔法にこんな使い方があるなんて思いもよりませんでした」トキとゼロ―マがやってきた方向から歩いて来たミュスカーはそう言った。ミュスカーの後ろでは木々のトンネルが奥の方から順に失われていっている。「どういう事?」トキはオオカミの突き出た鼻腔の中で少し声をくぐもらせながら聞いた。

「電気……、いや、このゼロ―マって魔獣は雷みたいな攻撃をすると聞いていたからな。水辺や水中で戦うなんて事は考えられなかった。如何に感電しないかってのが重要だった訳だ。だから、トキに存分に囮役となってもらって、しっかりとこのゼロ―マを怒らせて、湖から引き離す必要があったんだ。ゼロ―マを怒らせるのと、ゼロ―マがトキを追う邪魔をするのがレオの役目、ゼロ―マを森にいざなう道を作るのと巨岩を中空に持ち上げておくのがミュスカーの役目、不測の事態に対応するのと蔦を切って岩を落としてとどめをさすのがオレの役目だった、って事だ。って、この作戦、トキにも話しただろ?さては、聞いてなかったのか!」トーマはそう言ってトキを睨む。


「アハハー。囮をやるって事と、後はトーマの指示に従うって事しか覚えてなかったよー。まー、上手く行って良かった良かった。そうそう!トーマ、かばやき、ってヤツ食べさせてくれるんだよね!」トキはそう言って屈託なく笑う。

 トーマとレオとミュスカーは顔を見合わせ、苦笑いし、ため息をついて、誰ともなく拳を掲げると三つの拳を軽く突き合わせ、その後で、大きく笑った。

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