-Ⅲ

 一足先に中学にあがった姉は、年相応以上に落ちつき、大人しさに輪がかかった。弱視のために親に勧められた聾学校にあがるという話を断ったうえで、隣の学区の子供たちもまとめて取りこんだ地元の公立中学校に進学した。

 白い髪と肌をした姉は、そういった人間を初めて見た同年代の子供たちや、教師たちの好奇の視線にさらされているようだった。眼鏡を外したせいで、青い瞳が目立ったのもその傾向に拍車をかけたらしい。家ではよく母親が、生活指導の教師に脱色は禁止だと無理解なことを言われただとか、同級生たちに虐められているらしいなどと愚痴ってもいた。一年遅れて同じ学校に上がった彼方も、校内や登下校中に、姉が教師や他の学生たちから心ない言葉を浴びせかけられているのを何度も目にした。

 元々彼方は、姉と最低限の会話しかかわしていなかったが、実際の惨状を見るにいたって、巻きこまれるのはごめんだと言わんばかりに、人目のあるところではこの年上の肉親を徹底的に避けた。誉められたことではないと理解しつつも、繋がりが薄い姉弟であるゆえに目立った恩義はなく、かえって面倒をかけられていることが多いと思っていただけに、遠目に姿が見えたら極力距離を取ろうとし、すれ違っても言葉すらかわさなかった。

 そんな弟の態度に、姉はただただ無言ですれ違うだけだった。これでいいんだ、と自らに言い聞かせながら、不快な視線や声を浴びせられる年上の肉親に対して見て見ぬふりを決めこんだ。

 しかし、そんな浅知恵はさして時間も経たずに瓦解することとなる。まず第一に、小学校の頃の友人がいる時点で、彼方に白髪碧眼の姉がいるのは日常会話の延長線上と漏れた。小学校でともに時を過ごした人間の多くは、たいてい姉がどうであろうと気にしないという風に振舞っていたが、別の学区から編入してきたものや同じ学校からあがってきていても一度もクラスをともにしていないものたちの一部はそうではなかった。姉の髪や肌や目の色の違いを話題にあげては、汚れた血、などとよく意味をわかっていないような面白半分な口ぶりで彼方を馬鹿にしてみせた。彼方は自己防衛のため、親の口から時折漏らされる姉の症状について聞きかじった知識を用い、心ない言葉をぶつけるものたちに釈明しようと試みたが、そんな態度をこころない同級生たちは面白おかしく思うだけだったらしく、からかうようにして、幾度もいたずらをしかけられた。

 机への落書き、教科書や上履きの盗難、筆箱を使ったキャッチボール。いじめ、というには温かったかもしれないが、こうしてクラスメートの多くからからかわれた経験がなかった彼方にとって、弄るための道具をみつけて嬉々としだす一部のクラスメートの行いはえらく気に障り、度々怒りを露わにした。……後にこちらが熱くなればなるほど向こうも面白がるというのを学習し、黙りこんでみたりもしたが、その頃にはすでに彼方のことを弄っていたものたちはなにをしていようと関係ないといった様子でつっかかってくるようになっていたため、あまり意味はなかった。

 姉のことを昔から知っていたクラスメートの多くは気にするなよと言って励ましてくれたし、親しいものたちは姉のことを同じ人間であると主張してもくれた。しかし、からかうことを愉しんでいたクラスメートたちにとっては、事の真偽などどうでもいいことで、ただただ自分たちが面白おかしく笑い飛ばしたいだけだったらしく、彼方と姉のことをさ馬鹿にするのをやめようとしなかった。中には、姉のことを昔から知っているクラスメートたちであっても、彼方のように標的にされたくないせいか、距離を取ろうとしたり、時には積極的に弄りに加わりもした。

 ついこの間までそれなりに仲良くしていたものたちが、直接自分とは関係ない理由で急に距離をとっていったのを目にした彼方は、どうしてこうなったんだ、と小さな哀しみに暮れる一方、誰か自分と同じような立場のクラスメートがいたとしたら似たような振る舞いをしたかもしれないと思い返した。なによりも、彼方自身も、あの姉を苦々しく思っていたのだから。

 そんなただ中において、姉自身はといえば、なにを言われようとされようと、顔色一つ変えずに澄ました表情でいたらしい。らしい、というのは、彼方自身はたまたま通り道で姉が虐げられているのを目にすることはあっても、この年上の肉親と同じ学年でなかったのもあり、実際にされたという出来事の多くは、親や友人たちから又聞きしたに過ぎなかったからにほかならない。教科書や体操着をビリビリに破かれたり、椅子に画鋲を置かれたり、時にはトイレに閉じこめられ水をかけられたり、更に直接的に殴る蹴るをされたり。伝え聞いた多くの行為は、彼方がされていることよりも重かった。

 姉は外見や、日射をできるだけ浴びないために長袖でいるなどといったやたらと目立つ特徴が常にあるためか、なかなか人の視線から外れられないのも虐めが続いた理由かもしれない。加えて、人と必要以上に話そうとしない上で涼しげな顔をしている姉の態度も悪い方へと働いた。姉の振る舞いが気に食わないクラスの中心人物たちに目を付けられたのもあって、聞いている範囲だけでも、虐めは陰湿なものになっていった。

 ある日、それなりに長くなっていた髪を無残に切り散らされた時は、娘がなにも言わないため、教師に釘を刺しにいくだけにとどめていた母親も堪忍袋の緒が切れたらしく、虐めを主導している生徒を訴えようとした。しかし、姉は首を横に振り、そんなことしなくてもいい、と切り捨てた。

 ことがことだけに家族会議になった。なんとなく格好悪いと思って口にしていなかった彼方のクラス内で行われている緩やかなからかいも、いつの間にか主婦内の情報網によって露見していたらしく、議題としてあげられた。感情的になっていた母も、やや子供たちと距離感があり多少落着きを保っていた父も、もっと学校側に強く主張していいのではないのか、という意思で一致していた。彼方自身はそこまで大げさにすることこそ好まなかったものの、誰かの手によってこのからかいをとめてもらえるのであればそれに越したことはないと考えもした。しかし、当事者である姉は最後まで首を縦に振らなかった。

 私は別に困っていない。その一点張りだった。たとえ父と母が今の状況はおかしいといくら言い募ろうと、いかにも人道の徒であると言わんばかりにもう無理をしなくてもいいと優しく語りかけようとも、姉は首を横に振るばかりだった。

 実害が出ているのに、なぜ、こんな風になんでもなさそうにしてられるんだろう。目の前で淡々と振る舞う姉の態度が、彼方には理解できなかった。もう少しだけでも痛そうだとか苦しそうな顔をするものじゃないだろうか、と思う弟の前で、かけらも動揺を見せない姿は、人じゃないみたいに見えた。

 この会議の最後の方には、いっそのこと姉を転校させてみてはどうかなどといった話もあがったが、これもまた、姉の淡々とした口ぶりで跳ね除けられた。両親はなんとしてでも姉の意見を翻そうと何度も訴えかけたが、答えは決して変わらなかった。

 その様子を途中から黙りこんで見守りながら、彼方の中にはいつの間にか、明らかな被害者であるにもかかわらず涼しい顔をしたままでいる姉に反感が募っていった。

 できるだけ姉ちゃんに近づきたくないしかかわりあいにもなりたくない。そんな気持ちをより強くした彼方だったが、過保護な両親は、時間が空いている時は姉に同行するようにと言って聞かせてきたため、ともにいる時間はより増えていった。その背景には後日、母が家族会議を無視して行った、学校やいじめの主導者の親族への訴えがさして効果をおよぼさなかったことがあったのだろう。

 別についてこなくてもいい。目が悪い癖に一人歩きによく出る姉は、色白の顔をさらしながら、何事にも興味がないような口ぶりでそう言ってみせた。彼方にしてみても、できることならばその通りにしたかったが、用がない時に姉とともにいないと、母親はなぜ、一緒にいなかったのだと言わんばかりに睨みつけてきた。だからできるかぎり、数が少なくなった友人たちとの用事を無理やり作ろうとしたが、中学にあがってからは皆が皆忙しそうにしていたため、毎日を補えるほどの予定は入れられなかった。おまけに友人の多くは彼方を弄っているクラスメートたちとも親交があったため、そういったものたちと約束を取りつけている日は、気まずくなるだろうと思い、自ら身を引いていた。こうして、どうしても他人の力を借りて用事を作れない日は、架空の予定を広言したうえで、なるべく人目がないところに身を置き、難を逃れようとした。当初はそれで話しがついたが、所詮、中学生の行動範囲にはかぎりがあり、いくら遠くに行こうとも、知り合いの目からは逃れられず、特別な用事があってぶらぶらしているわけではない、ということはすぐさま露見してこっぴどく叱られた。俺が付いて行こうといまいと姉ちゃんはいつも通りだとか、姉ちゃんにも友達くらいいるだろう、と主張してみせても、母親は聞く耳を持たず、いつ、なにをされるか気が気でないからついていてほしい、の一点張りだった。姉の頑ななところは、この人譲りなのかもしれないとうんざりしながら、何度も母の願いを聞いているうちに、いつの間にか親にうっすらと同情してもいた。俺がいようといまいと、姉ちゃんはいつも姉ちゃんのままなのに。泣きつかんばかり勢いで、義務を訴えてくる母親を憐れみながら、彼方は渋々、姉とできうるかぎりともにいる約束を、あらためて交わしてしまった。

 どこまで彼方の心の内を察していたのだろうか。同行する弟に対して興味なさげにふるまった姉は、とりたてて目的などないとでも言わんばかりのさ迷いかたで、気ままに歩き回った。彼方は黙ってその後ろについていきながら、早く家に帰って自分の部屋でベッドに転がりたいと思い続けていた。こうしてともに歩いている際、心ないクラスメートたちに姉とともにいる場面を目撃される機会も多く、からかいの材料を増やしている現状を鑑みれば、あまり連れまわされるのは好ましいことではなかった。

 学年があがり門限が遅くなっていたため、姉は暗くなったあとも、彼方を連れて散歩を続けた。むしろ二人でいるからこそ、門限が多少緩くなったといってもよかったが、こうして好ましくない時間をともに過ごす方としては、気が気ではなかった。

 一度、早く帰ろうと訴えたが、姉は青い冷やかな目をむけて一人で帰ればいいと口にするばかりだった。母との約束に縛られた彼方は渋々ながら振りまわされるほかなかった。

 こうした散歩の最後は家の近くの公園で休むことが多かった。以前と違い、暗くなっても外にいられるようになってから、たいてい姉はぶらんこに座りながら、空を見上げていた。夜の模様はその時々で異なっていたものの、傘を差さずに散歩に出られる天気であることが多かった。

 ぶらんこから見上げる空は、彼方にはどこにでもあるもののように感じられたが、姉にとってははたしてどうであったのか。顔色を少しも変えずにたたずんでいる様は、ともすればつまらなさげですらあったが、顔に感情が出にくいたちであるので、なにを考えているのかは本人しか知るところでない。

 どのみち、姉になにも求められることのない弟にとって、こうしている間はまるまるやることがないため、そばにいる時はただただ暇で仕方がなかった。日がある内であれば、本を読んだりしていればよかったが、夜闇の中ではそれもしにくく、この頃はまだ携帯も持たされていないためゲームやネットサーフィンもできない。だからこそ、姉の動向を見守りつつも、なにかすることはないかと辺りを見回していた。ぼんやりとしているのが嫌いというわけではなかったものの、姉と時をともにしていると、なにもしていないのがなんとなくいたたまれなくなった。

 そんなある時に見つけたのが、ちょこちょこと歩く黒猫だった。彼方自身はそれなりに猫好きだったのもあり、遠目から眺めただけでも心がなごんだが、できれば、すぐそばに引き寄せたいと思った。かといって大きく動けば、警戒心そのままに離れていってしまうこと受けあいなので、なにか興味を引けるものはないかと辺りを見回せば、ちょうどうよく猫じゃらしが生えていた。

 これはいい、とさっそく地面から猫じゃらしをぬいた彼方は、それをゆっくりと猫にむけて振ってみせる。猫は最初は警戒したようにじっと彼方を見つめていたが、やがて、素早く走りこんできた。しめたと思い、期待に胸をふくらませながら猫じゃらしを振る速度を気持ち速くし、自分より小さな命の到来を手ぐすねを引いて待ちかまえた。

 その結果、猫は彼方の前を通りすぎて、姉の足元へと走っていった。ぶらんこを漕がない年上の女は、身を寄せる小さな生きものを一瞥したあと、なにごともなかったように再び空を見あげる。

 なぜ、俺じゃなく、こんな素気ない人にあの猫はよっていくのだろう。小さな生きものがすぐそばにやってこない理不尽さと、なんの苦もなくその寵愛を手にいれた肉親へ彼方は妬みをおぼえた。

 姉ちゃん、猫が寄ってくるコツってなんかある。気が付けば、口が滑っていたが、今までの経験上、答えは返ってこないだろうな、と彼方は予測した。そもそもこの年上の肉親は、自らの足に気持ち良さそうに身を寄せる小さな生きものにひとかけらも興味をよせていないのだから、その方法を知っているとも思えなかった。

 しばらくの間、悔しさを抱えたまま、彼方は姉の足元を見つめていた。安らかな顔をしながら、目を細めて顔を舐める猫の仕草にやや癒されながらも、消化しきれない気持ちを胸に閉じこめた。

 なにも思わなければ、勝手によってくるんじゃない。唐突に空気を震わせた声を、彼方は最初、とても聞きなれているはずなのにもかかわらず、誰のものであるのか判断できず、また、それを理解したあと、なにについて言っているのかを飲みこむのにも時間を要した。そして、言わんとするところがようやく頭にはいったところで顔をあげると、姉はなにも変わらずに空を見あげていた。まばらな雲の間には満月が輝いている。

 その二つを見ながら、彼方は目から鱗が落ちるような気分で、姉の心は空っぽなんだろうか、とぼんやりと思った。


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