「もう少し、ゆっくり歩いてくれない」

 その声音に振りむけば、冷やかな眼差しをむける姉がいる。既に糸杉の木々の並びははるか後方にあった。どうやら、いつの間にか森を抜けていたらしい。

「ごめん」

 すぐさま謝り歩をゆるめた。姉は目を僅かに細めて、いつもと同じく平坦な表情を浮かべている。その顔が表だって感情を出している時よりはるかにおそろしく思え、彼方は正面へ視線をそらす。

 今、踏み入ったばかりの公園の真ん中には、暗く染まった池があった。水面を照らしているのは園内にある灯りと雲に囲まれた月の光で、ぼんやりとした空模様がこの大きな鏡には映っている。

「どこまで行けばいい」

 足を止めて、姉に尋ねる。

「どこでも」

 返ってきたいかにも興味なさげな声音は、彼方がもっとも困るものだった。元々、自主的に物事を決めるのはあまり得意ではなかったのもあり、少しだけ考える。とはいえ、今日もまた、姉を連れだしたのは弟の自分であるのだから、行き先くらいは責任を持つべきだろう。幸い、さほど困るような選択を迫られているわけでもなかったので、池の方へ近付いていく。その大きな水溜りを臨むようにして東屋が設けられていた。試しに屋根の下に潜りこんでみれば、木製の机と長椅子があったので、先に手前側にある席の奥まったところに腰かけたあと、ゆっくりと引っ張りこむようにして姉の腰を下ろさせた。

「まだ、歩けるけど」

 散歩を始めてそれほど長い時間が経っていないうえで休憩にはいったのが不本意であるのか、姉の声は素っ気なさが薄い。ここまで手を引かせているにもかかわらず、変なところで気を遣われるのを厭っている姉を、彼方はめんどうくさいな、と思うのと同時におかしさをおぼえもする。

「俺が休みたくなったんだよ」

「そう」

 彼方の答えに、姉は無味乾燥な声で応じる。感情があまり表に出ていないところからするに、機嫌が戻りつつあるのだろう。そう判断し、彼方は池を見下ろした。

「なにが見えるの」

 平板な言い方からは、姉がどこまでこの件に興味を持っているのかはよくわからなかった。とはいえ、口にすることをはばかる理由もない。

「もう一つの空が見える」

「池に映っているんだ。具体的には」

 少しばかり洒落た言い方をしようとした彼方の目論見は、夢もかけらもない素気ない物言いによってさえぎられた。もう少し浸らせてくれてもいいのにと胸の中でぐちりつつも、見えることを正直に唇に乗せていこうとする。

「みんなぼやけてるけど、まん丸い月に、雲、それに」

 そこまで言ったところで、少しばかり悪戯心が湧いた。

「ちらほら星が浮かんでる」

 実際は周りが少々明るすぎるせいか、星までは映りこんでいなかった。しかし、園内の電灯や園外の背の高い建物から放たれた光が、いくつかに分かれて水面に浮かびあがっているのもあり、見方によっては、それはもう一つの星空と言えなくもなかった。

「電気の灯りは星みたいに綺麗でしょうね」

 しかし、姉はほとんど目が見えていないはずなのにもかかわらず、弟の言を正確に読みとりながら、目蓋を閉じてみせる。園内の灯に照らされた白磁の肌は、初雪のように光を反射し、六月となり空気が温かになりはじめている季節なのにもかかわらず、ほのかな寒さを感じさせた。彼方はいつもと変わりない髪や肌、目の色合いを眺めつつ、微かに離れた姉との距離を思う。普段からその外見は異邦人を思わせたが、闇夜の下にいるとその所感はますます強められた。それこそ、別の世界の生き物が目の前にいるみたいな気がして、近付きがたさをおぼえる。もっとも、彼方が姉を近しいと思ったことは、ほぼ一度としてなく、こうして本格的に手を引くようになってからも、なにを考えているのかは、よくわからないままだった。

「そうだな、綺麗だ」

 姉の横顔と池の煌びやかさから目を逸らした彼方は、膝元をじっと見下した。幸い、姉は元から寡黙であるために、こちらが黙りこんだところで、たいして気まずくならないし、必要な時以外は言葉を求めてはこず、呼ばれるまでは時間があるだろう。生来からの素っ気なさには慣れたつもりでいたはずだったが、血の繋がりがあるにしては希薄な関係は、どことなく彼方の胸の奥にしこりとしてあった。

 獣の小さな唸りが耳にはいってくる。なんとはなしに、視線を上げて園内を見れば、太めのぶち猫がゆったりとした足取りで近づいてきていた。おそらく、あの体形は餌を与える相手が多いからだろうと当たりをつけつつ、吸い寄せられるようにして、その動きを目で追った。

 

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