夏は夜

前編

 あれは、いつのことだっただろう。確か、まだ小学校低学年の頃だ。

 母と離れて、親戚のおじさんの家に預けられていた夏のある日、近所で夏祭りがあった。

 その家には、晶と同い年の女の子がいて、お祭りに行くのに可愛い浴衣を着せてもらっていた。おじさん夫婦は、晶にも浴衣を買ってくれて、おばさんが着付けをしてくれた。自分の娘と同じように接しようとしてくれていることが、嬉しいような申し訳ないような気持ちがして、上手くお礼を言うことができなかった。


 夏祭りの会場である神社は、人でごった返していた。日は落ちているが、辺りは照明に煌々と照らし出されている。

 女の子は、両親に片方ずつ手を繋がれて、はしゃぎながら歩いていく。晶はその少し後ろを、遠慮がちについて行った。おばさんが、はぐれないように手を繋ごうと晶にも言ってくれたけれど、女の子が父親と母親両方の手を引っ張ってぐいぐい歩いて行こうとするので、タイミングを逃してしまった。

 会場には、色々な屋台が出店していた。

 お面や射的の店に、たこ焼きや焼きそば、りんご飴など、お祭りには定番の店が並んでいる。

 それらを回って、女の子があれが食べたい、これも欲しいと言うのを、おばさんは全部はだめよ、と言いつつ、楽しそうに笑いながらいくつか選んで買ってやる。


「晶ちゃんは、何がいい?」


 おじさんは晶にもそう聞いてくれたが、晶は消え入りそうな声で、何でもいい、と答えるのが精いっぱいだった。

 おじさんとおばさんは困ったように顔を見合わせて、赤くてつやつやしたりんご飴を一つ、手渡してくれた。


 それを口に入れても、味はよくわからなかった。そして、不意にここから消えてしまいたいと思った。足を止めたら人混みに紛れて、あっという間にあの人たちとははぐれてしまうだろう。

 そうしたら、探してくれるだろうか。お母さんは、心配して飛んできてくれるだろうか。

 でも、いい子でいると約束したから。お世話になっているあの人たちに、これ以上迷惑をかけることはできなくて、少し俯きながら、前を行く家族の後をついて行った。

 気が付くと花火は始まっていて、軽快な破裂音と共に夜空に光の大輪が咲いては消えていく。目の奥がツンとして、それが滲んで見えた。

 



 母親から突然送られてきた浴衣を広げて、そんなことを思い出していた。

 あの時、あの手を取って、自分もあれが食べたいと言うことができていたなら、今とは少し違う未来があったのかもしれない。


 それにしても、と晶は溜め息を吐く。

 あの人は、時々こうやって思いついたように荷物を送ってくる。手紙などは特に入っていない。少しは親らしいことをしているつもりなのか、それとも離れて暮らしていることへの罪滅ぼしなのかはわからないが。

 紺色の地に白い大きな百合の花が描かれた、大人っぽくも華やかな浴衣だった。悪くない趣味だと思ってしまうのが、なんだか悔しい。

 肩に羽織って、部屋の隅にあるクローゼットを開き、扉の内側に取り付けられている鏡で自分の姿を見てみる。

 くるりと一回転してみた時、部屋のドアを叩く音がして、返事をする間もなく那由多が顔を出した。


「晶ちゃーん、おやつ食べない?」


 最初の頃は、ノックせずに襲撃してくることもあった那由多だが、ノックくらいしてよと文句を言ったら、ノックと同時にドアを開けるようになった。この人はどんどん遠慮なく距離を縮めてくる。それが鬱陶しく感じることもあるが、同時に救われていることも事実なので、晶は強く言えないのだった。


「あら、素敵な浴衣ねえ。さっきの荷物?」


 冷えた麦茶のグラスとクッキーの載った小皿を机に置きながら言う那由多。


「……うん」


 晶は浴衣を肩から外して畳もうとする。着る機会などないだろうし、しまっておくつもりだったのだが、見られてしまってなんとなく決まりが悪い。

 歯切れが悪くなる晶に、那由多は何か思い付いたように明るい声を出した。


「そうだ、今度の日曜日、近くで夏祭りがあるのよ。それ着て、一緒に行きましょうよ」


 そういえば、店にもそのポスターが貼ってあった気がする。しかし、


「えー……あたし、受験生だよ?」


 遊んでいる暇などないと暗に主張するが、那由多はそんなことなど意に介さない。


「ちょっとくらい遊んでもバチは当たらないでしょ。息抜きも必要よ。それに……」


 那由多はやや声を潜める。


「昴君もこのところちょっと元気ない気がするし。気分転換が必要だわ」


 それは晶も感じていた。今月の初めに実家に帰省して、戻ってきてからだと思う。何かあったのだろうと思うが、詮索するようなことではないと思ったので、詳しいことは聞いていない。

 晶や昴に対して図々しくお姉さん風を吹かせているように見える那由多だが、面倒見のいい一面もあるのだった。


「でも、お店は?」

「その日は、うちもクレープの屋台を出すのよ。だから店はお休み。屋台はマスターと仁さんがやるから、あたしと昴君は空いてるのよ」

「ふうん……」


 まあ、ちょっとくらいいいか。

「じゃあ、行く」


 浴衣を着られることが嬉しいわけではないんだからと、心の中で言い訳をしつつ、晶は那由多の提案を了承した。

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