#2

「へえ、昴さんってプロの小説家なんだ。何書いてるの? 読みたい」

 その日の夜、いつものようにリビングでそれぞれ好きなように過ごしていると、晶が昼間昴と一緒にいた女性は何者だと聞いてきたのだった。

 晶が無邪気に言うと、那由多が眉を寄せる。

「それがね、あたしたちには教えてくれないのよ。マスターは知ってるんでしょ?」

「いやあ、内緒にしてって言われてるからねえ」

 陽介はにこにことはぐらかす。

「……先にお風呂もらいますよ」

 昴は逃げるようにリビングを離れる。

 何度も、もう小説を書くのはやめよう思った。でも、言い出せない。ためらうのは、昴自身がまだ、諦めきれないからだ。この世界に居続けることを。

 憧れを手にするには、もがき続けなければならない。仄暗い水底から、きらきらと光を弾く水面に向かって、手を伸ばすように。

 自分はまだ、息を続けられるだろうか?


 晶の本気の演奏を聞いた時に感じた衝撃。それは、まさに閃光だった。

 暗く澱んだ水の底に届いた、鮮烈な光。

 今日も、彼女の演奏は素晴らしい。

 分野の違う、年下の子に嫉妬してどうするんだと思いつつも、心がどんよりと沈んでしまう。息もできずに、落ちていく。

 プロットが進まないまま、時間だけが過ぎていく。雨の予報が多くなり、もうすぐ梅雨入り宣言がなされる頃だろうか。

 

 そんなある日曜の昼間、昴は桜華堂のアルバイトに入っていた。晶もカウンターの裾でバイオリンを披露しているが、外は小雨のせいか、客足は普段より鈍い。

 音が、雨粒と重なってきらきらと踊る。昴にはそれが見えた。

 言葉や音楽や絵に触れると、昴の目にはそれが情景をして浮かぶ。乱舞する光の粒だったり、色とりどりの花だったり、あるいは澄み切った水だったり。

 それが何なのか、昴自身にもよくわからない。そのものに込められた強い想いや、表現しようとするものに共鳴して、光景が想起されるのだろうと、昴は思っている。

 それを人に話すと、何を馬鹿なことを、と嘘つき呼ばわりされ、他の人にそれは見えていないのだと悟った。

 それでも昴は、美しいものを見て、やがて自分も作る側になってみたいと思ったのだ。

 そして目の前に突如現れた、天賦の才。

 晶の作り出す世界は、とりわけ美しい。昴では到底到達しえない領域だ。

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