ムーンウォーク

 一九六九年七月二十日。

 無音。

 月はいまだ無垢の土地。その表現が「かつて」となる瞬間が近づいている。

 アポロ一一号。宇宙飛行士マイケル・コリンズが留まった司令船『コロンビア』は、着陸船『イーグル』を切り放し、自らは月面には接地しない周回軌道を飛行する。

 ニール・アームストロング船長とバズ・オルドリンが乗った着陸船は姿勢を調整し、最後にスラスターから逆噴射でブレーキをかけながら月に着地した。

 着陸脚に固定されたカメラは、銀色の宇宙服を着て月への一歩を踏み印す一人の宇宙飛行士を撮影する。

 白く細かい砂に覆われた広大な地平線。

 梯子を下りた足が無垢だった大地を踏みしめた。

「これは人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍だ」

 最初に月に足跡を刻んだアームストロングは、月面から地球へ向かって意思を発信した。

 一九分後オルドリンも降着し、本格的な船外活動に移った二人の宇宙飛行士は月面に星条旗を立てる。大気のない乾いた地面に突き立てられた旗は作業の振動を吸収してよくなびいた。

「ほう。旗は空気がなくても広がるようにつっかい棒が入ってるんだね」

 突然、男にしては高い声が二人の無線機に入ってきた。

 振り返ると、着陸船の傍らに男。

 まるで荒涼たる砂漠に生えた、一本の細い木の様に彼は立っていた。

 宇宙服ではない。厳重な生命維持装置を着込んだ宇宙飛行士を笑うかの如く、真空の月面に素肌をさらしている。

 黒くラフなスーツ。

 容赦ない陽光を反射するサングラス。

 白いソックスが見えるダンスシューズ。

「エクスキューズ・ミー。僕はマイケル・ジャクソンだ」

 謎の男の自己紹介。

 二人の宇宙飛行士はその名前を知ってはいる。だがその印象は簡単には重ならない。

「マイケル・ジャクソン? あのジャクソン5のか?」

「そうか。この時代の僕はジャクソン5だったんだね。懐かしいね。あの頃を思い出すよ、フー」

 アームストロングとオルドリン二人は、黒人兄弟五人からなるアイドルR&Bグループの面影をその男に重ねた。重ならない。年齢が違う。肌の色が違う。男は若く見えるがとうに少年時代は過ぎている。そして白人だ。

 むしろ無邪気な声だけが似ていた。

「何だ、お前は。どうやってこの月面に現れた。何故、宇宙服なしで生きていられる」オルドリンは狼狽した。「まさか、俺達の宇宙船に密航? いや、まさか、どうやって!?」

「フー。密航か。聞こえが悪いが実質そうかもね。僕の意思はその宇宙船に乗ってこの月面へやってこれたのさ」

 ビッ!と音がするかの様に鋭く、マイケルの手は着陸船イーグルを指さした。昼の陽光を帯びる着陸船は黒い影を地に落としていた。

「僕一人では月まで直接行ける力も縁もなくてね。あなた達の宇宙船を利用させてもらったよ」

「どういう事だ。第一、お前は子供のマイケル・ジャクソンの様には見えないぞ。宇宙人か」

「生前の僕もいろいろあってね。まず最初に一つ明かしておこう。今の僕は生きてはいない。……幽霊だ」

「幽霊!? 何、馬鹿な事を!?」

 アームストロングは反発しながら、むしろ幽霊である方がこのふざけた現実を理解出来る気がした。

「コリンズ」オルドリンは司令船に呼びかける。「酸素漏れか何か重大なトラブルだ。俺達は幻覚を見ている」

「ホゥ」マイケルは吠えた。「二〇〇九年六月二五日、残念ながら僕は死んだ」

「二〇〇九年!? 今は一九六九年だぞ!?」

「幽霊は時間の流れに束縛されないのさ」

「はあ!?」アームストロングとオルドリンは同時に声を挙げた。

「幽霊は独自の時間を動く。意識はタイムマシンさ」マイケルの奇妙な発言。「人間の時間意識は物理的に脳に拘束されるが、肉体を失った幽霊はもう時間の流れに縛られない」

「お前は未来人だというのか!?」とアームストロング。

「未来から来た幽霊だ」

「生きている風にしか見えないぞ」

「幽霊だからって特別おどろおどろしい姿をしているとは限らないさ」

「未来から来た証拠はあるのか。言い張るならこれから地球がどうなっているか知っているだろう。二一世紀の地球はどうなっている」

 オルドリンの言葉を聞いたマイケルは哀しそうな顔をした。「いい事が沢山あるよ。……でも哀しい事も沢山あった」

「偉大なるUSAはどうなったのだ。USSRとの冷戦に我らが勝利したのか」アームストロングの質問。

「君達に哀しい未来は告げたくない。しかしUSAの偉大な一歩であるこの月面着陸は大きく世界中で評価される。これからもUSAは月面に宇宙飛行士を送り届ける」

「当たり前の事だ」

「一九七二年のアポロ一七号を最後に人間が月に送りこまれる事はなくなる。五十年後には、あなた達が月面に到着したのを信じていない人達も世界中に大勢いるんだ」

「馬鹿な!? 共産圏のプロパガンダか!?」

 激昂するアームストロングに、マイケルが哀しそうに吠えた。「それが真実さ。詳しい事は言わない。僕も知らない事が多いしね」

「いったいUSAに何があったというのだ!? お前は何を告げに来たんだ!?」

「僕は予言者じゃない」マイケルはかぶっていた黒いソフトハットのつばを顔の前に下げた。「僕はダンスをする為にこの月に来たんだ」」

「……どういう意味だ!?」

「僕のダンスの中に『ムーンウォーク』というものがある。一九八三年に披露して以来、僕の代名詞になった。……しかしだ」マイケルはまなざしを二人に向けた。「僕は一度たりとも本当に月を歩いてはいない。本当に月に行ってムーンウォークをする。それが僕の心残りとなった。未練だ」

「……そのムーンウォークというものをする為にわざわざ月面まで来たというのか」

「そうだよ。幽霊は時間に縛られずとも因縁には縛られる。僕が死んでからより、USAと月の因縁はこの一九六七年の方が強くってね。だから僕は地球の重力より月との結びつきが強いこの時間座標に現れて、君達のアポロ一一号に憑りつく形でケネディ宇宙センターからこの月へと密航してきたんだ」

「憑りつく? お守りのつもりか。このジャーニーの成功を祈ってくれていたというのか。幽霊というのは光学センサーに感知出来なくても重力には影響されるらしい。まるでダークマターだな」

「ダークマターという物を詳しく知らないが、ポゥ、その通りだろうね」

 オルドリンの疑問にマイケルが肩をすくめた。

「何故、俺達に声をかけた。踊るのなら自分だけで心行くまで踊ればいいじゃないか」

「僕はエンターテイナーだよ。観客が恋しいじゃないか」

「観客が俺達二人だけしかいなくてもか」

「お代はいらないよ」ビシッ!と銃を撃つ如くマイケルが人差し指をさした瞬間、彼は踊り始めた。

 ダンスミュージックが聴こえる様だった。その透明なBGMを耳で捉えられる者がいたら迷いなく『ビリー・ジーン』と呟くだろう。

 マイケルは踊った。

 華麗なダンスだった。たった二人の観客はまさしく『未来』を感じる。一九六七年にはない、精魂込めた斬新なステップ。

 まるで微風のある地上の様。

 膝を折り、つま先をそろえて砂の上に突き立つ。細い足首。その数秒の絶頂感。

 その場でつむじ風の様にクルクルと舞う、その繊細な足さばき。足元から土煙ではなく、乾いた砂がパラパラと真空に散る。

 そして、彼は前へ歩きながら後ろへ進むという奇妙なステップを披露した。足が地上に吸いつきながらスムーズに後方へと身体を運んでいく。

「これが……」

「ムーンウォークか……」

 アームストロングとオルドリンは眼を奪われながら呟く。

 着陸船の前に舞う、伝説の男。

 ダンスが人知れず歴史を紡いでいる。

 ムーンウォークするマイケルは、それを思う存分堪能したい為に出来る限り永く滑っている様だった。

「待て! そっちへ行ってはいけない!」

 突然、アームストロングはマイケルを止めようと叫ぶ。走ろうとした。

 しかし、ムーンウォークは彼が禁じようとした地点を通り過ぎた。

 アームストロングは棒立ちで哀しげな声を漏らした。「……私の足跡を踏み消している……」

 マイケルは月面の砂の上にダンスステップの足跡を残していた。そして長いムーンウォークの左右二筋の跡は、アームストロング船長が初めてこの月面に刻印を残した、歴史的な第一歩を横切っていた。

「幽霊のくせに足跡を残して……!」

「……僕とした事が破壊的歴史改変を! 否定的タイムパラドックスをしてしまうとは!」

 マイケルは自分のやった事を悔やんだが、時間に束縛されないという彼も、歴史への刻印は巻き戻せないようだった。

「……フー。この事は『キング・オブ・ポップ』が歴史的快挙にサインを書き添えた、という事で赦してもらえないだろうか」

「ふざけるな! お前は二一世紀から来た者なんだろう! つじつまが合わないじゃないか!」

「……これは困った」

 マイケル・ジャクソンと名乗った男のしでかした事に、二人の宇宙飛行士は困惑と怒りを表していた。

 ダンサーは汚れてもいない衣装の埃を手で払う仕草をした。

 そして地球を背景に星空を仰ぐ。

「突然だが、僕は成仏しなければならないようだ」

「ジョーブツ!?」

「アジアの仏教の概念だ。生前の悔いを浄化した僕は、霊として新たなる状態へ移らなければならない。地球の重力に縛られていた僕も、この月ならそれを振り切って広い宇宙へと旅立てる。遠くへ、遠くへ……」

「ちょっと待て! お前、うやむやにしてごまかそうとしてないか!?」とオルドリン。

「さらばだ、地球人よ。いずれ銀河の中心で会おう!」

「待て!」とアームストロング。

 二人の眼の前でマイケルと名乗った白い男がさらに眩しい白光へと身体の組成を変えていく。

「アオ!」

 男は吠えて、月面からほとばしる一条の光となった。

 それはフラッシュを焚いた様に眩しく、サンバイザー仕様の宇宙飛行士のヘルメットも視界を数秒、奪われるものだった。

 その数秒で二人の前から男は消えた。

 無音。

 星空に何の痕跡もない。

 まさしく彼が幽霊であったのを思い出させる如く、この月面には彼の存在感は跡形もなく消失している。

「……こちらコリンズ……どうした……何があった……」

 アームストロングとオルドリンは、司令船コロンビアからの電波を再び拾った。

「こちらアームストロング。コリンズ、今の俺達の通信を拾えていたか」

「数分間、通信が途絶していた。宇宙センターも困惑している。何があった」

「白く眩しい光を見ていなかったのか」

「白い光? 何の事だ」

 コリンズはマイケルの事を全く目撃していないようだった。あんなに眩しく目立つ光となった彼をだ。

「いや。いい……」

 月面に降り立った二人はコリンズに説明するのをあっさりとあきらめた。

 この分では地球も全くマイケルの事を把握していないだろう。この月を見上げ、通信を傍受している地球のアマチュア含めた天文学者、無線マニア全員もだ。恐らく月面にある撮影機材にも映っていないだろう。全世界同時TV中継も恐らくは。

「ジャクソン5の見方が変わるな……」

 アームストロングが呟く。

 オルドリンは司令船のコリンズへ「早くそちらへ帰りたい」とだけ伝えた。

 この通信途絶した数分間をケネディ宇宙センターへどう説明すればいいのか。

 たった今の真実を伝えて、宇宙飛行士の狂気を疑わせた方がいいのか。

 二人はあらためて途方に暮れた。

 月面にはムーンウォークによるダンスの跡だけが、ただ「マイケル・ジャクソンここにあり」のサインとして刻まれている。

 これは永久にこのまま残されるのだろうか。

 それともアポロ計画は科学的に信じられない事実を抹消するのだろうか。

 幽霊。

 タイムトラベル。

 真空に素肌をさらしたダンス。

 アームストロング船長は虚空に嘆いた。

 二一世紀のマイケル・ジャクソンは、一九六七年にまた一つ伝説を残したのだ。

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