鏡子

 七歳の鏡子は今日も家の地下室。片づけられていない荷物が沢山散らばる中で、大きな姿見に自分を映していた。

 生まれた時からここは鏡子のお気に入りの場所だった。何年も大鏡は鏡子の顔、髪型、服装、全身を寸分の違いもなく写してきた。

 手で触れる。

 次いで頬で触れ、冷たさが肌にしみこむに任せる。

 全身で抱く様に触れる、冷たい感触。

 今日も薄暗い電灯の下、一人きりで全身を写す鏡の前でワンピースの少女は鏡の表面に伝わる、おちついた自分の心臓の鼓動を聴いている。

 鏡の中のもう一人の少女。白い肌。赤いワンピース。長く垂れた黒髪。

「ねえ。何で鏡は写した人が右と左が逆さになるのに、上と下は逆さにならないの」

「それはね、鏡子」以前、父がやさしく教えてくれた。「右と左が逆になっているというのが間違っているんだ。鏡で逆さに写っているのは右と左じゃなくて、前と後ろなんだ」

 鏡像は写した者の前後が反転している。あの日の父は光の反射について自慢げに教えてくれたが、鏡子には難しくて納得出来なかった。

 やっぱり鏡の中には、自分じゃない自分そっくりの何かがいる。そうとしか思えない。

「わたし」鏡子は指の開いた両掌と前髪の生え際を鏡に触れさせて、表面の冷たい感触を味わった。「この世界から消えちゃえばいいのに」

 最近、父と母の不仲のせいで、自分の居場所がなくなっている憂鬱をずっと感じていた。

 初めて愚痴を他人にこぼした。自分自身の鏡像に。

「あら、そんなの」

 今日の鏡は初めて、呟きに答えてくれた。

 鏡の中で、赤い唇だけが動いた。

「あなたが許してくれたなら、簡単な事よ」

 指を開いて鏡にあてていた両掌。鏡写しの指と指の間に、鏡の表面からぬっと出てきた冷たい指が絡んだ。

 手を固定されて動けなくなった鏡子は叫ぼうとしたが、それはやはりと鏡面という境界を侵してきた黒髪の顔に唇を塞がれる。冷たいキスだった。

 指を絡められた手が鏡の向こう側へと引きずり込まれ、すぐに黒髪が、赤いワンピースが水に沈む様に鏡の中に消えた。つま先が沈むまで滑らかな速さだった。

「鏡子」地下室のドアが開いて、父が顔を出した。「今叫んでいたみたいだけど、何かあったのかい」

「ううん」赤いワンピースの鏡子は、鏡の前で笑顔で首を振った。「影が動いた様な気がしただけ。何もないわ」

 鏡子は屈託のない笑顔を父に見せ、大鏡の前を離れた。

「ねえ。今度、ママが優しいママに変わる魔法を教えてあげるね」

 父と娘。二人は連れ立って、地下室を出ていく。父は久しぶりに笑顔を見せてくれた娘に幸せを覚えた。

 電灯を消されて地下室のドアが閉まり、雑多に物が並んだ部屋は無人になった。

 暗闇の中で何も写さなくなった姿見の表面を、必死に拳で叩く、小さな遠い、向こう側の音は誰にも届かなかった。


「パパ。この世界から消えちゃいたいと思った事ない?」

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