狂説・雪の露天風呂密室殺人事件

 雪の中、露天風呂へと続く、新築の木造の通廊があった。

 それは脱衣所のある母屋から遠く二〇〇mは離れた露天の湯まで通じる唯一の道で、夜は電球の並ぶその通廊内のみが明るく、小さなガラス窓の列が外の闇を照らしていた。この灯りの列は母屋の中からでもよく見えた。

 見晴らしのいい露天風呂だ。吹雪の日に入るというのも一つの風情かもしれない。

 寒いはずの通廊は暖気が満たされている。これはエアコンの仕業だ。

 通廊の外は荒れた肌の如き黒い岩場だ。裸でここを通ろうにも裸足では必ず怪我をするし、それよりも夜では寒さで身動きが取れないだろう。

 事件のあった夜は吹雪で、この暖気がこもった通廊を通らずに外の吹雪の中で濡れた裸で二〇〇mも戻るのは自殺行為と断言出来た。

 通廊の終わり。ここで浴衣を脱ぎ、露天風呂へと至る厚い木の扉には浴室は閂がかかっていた。

 この状態で扉を開けずに中に入るには、或いは外へ出るには中を覗く大きさ六cmの格子をずらして出入りするしかない。

 それが出来る人間ならば、だ。

 当時、中では中年男が一人、裸で混浴の湯につかったまま死んでいた。

 発見したのは遅れて、露天風呂に到着した奥方だ。

 閂は中から閉める方式だった。

 八つの刺身包丁の傷が胸の八方面から八か所。包丁は深く刺さったままで八本残されていた。包丁に指紋はない。抵抗の跡らしきものがない状況は、背から胸からほぼ放射状に八つの凶器がいきなり同時に刺された事を示していた。八人の犯人が同時に、というのがその致命傷を警察監察課が拝見して最も素直な見方だった。八本の凶器により一斉に様様な方向から刺し貫かれた事による臓器損壊によるショック死。即死というのが鑑識の見解だった。

「犯人が八人いたんですの」

 被害者の奥方に訊かれたのに対し、探偵Xは彼女に封が破れたクールミントガムの包み紙をつっけんどんと差し出す事で答に変えた。胸元へとぐいぐい押しつけたが、奥方は不快そうにそれをつき返した。

 犯人もこの露天風呂に入ったのなら、通廊の木の床に足跡が残っていていい。

 しかし、この日、通廊には利用客である三種類の足跡しか有力物件を検出出来なかった、

 今日、ここを貸し切りにして通廊を通った被害者S氏が露天風呂に入った一種類。

 そして遅れて奥方のS夫人が母屋から露天風呂へと向かった一種類と、通廊の終わりの木戸の格子窓に夫の死体を見つけ、慌てて母屋に知らせに帰った一種類だ。

 宿屋の従業員は皆、スリッパをはいていた。この跡は検出されている、

 つまり、そのスリッパを除けば、その日の通廊には被害者S氏の片道と、目撃者の奥方S夫人の二人分しかないのだ。

 露天風呂へ至る通廊の行き止まりの浴衣を脱ぐ為の簡易脱衣所には、露天へ出る為の戸を開けなければならなかった。

 しかし、その扉は温泉から閂が閉められ、それには被害者の指紋しかない。

 これは実質的に密室殺人だ。

 八本の刺身包丁など誰が用意したのか。

 S夫人がそんな物を持って露天温泉へ行った姿など誰も目撃していない。

 この温泉旅館は脱衣所から各温泉へ入るのは無料だったが、殺人現場となった離れの露天風呂に行けるのは特別の許可を得て、鍵を渡された者だけだった。

 普通の温泉へ入る為にも母屋の脱衣所は利用者が多い。勿論、八本の刺身包丁などを隠し持つなどまず無理だ。

 では殺人はどの様に行われたのか。

 八本の刺身包丁は四次元ポケットへでも入れて、持ち込んだというのか。

 探偵Xは苦笑してクールミントガムを口から出し、銀紙に包んで、ポケットの中のティッシュに入れた。

「謎は解けました。全ての謎は犯人を指し示しています」

 現場の警官達、従業員達。野次馬達がざわりと騒いだ。

「夫は誰が殺したというんですの」

 声を荒げるS夫人を制止しながら、探偵Xは皆に静まるように促した。

「一つずつ謎を明らかにしていけば、犯人へ辿りつきます」

 この場にいる全員が静かになると探偵Xは話し始めた。

「まず、犯行を行った人物は一人です」

「では八本の刺身包丁が被害者の八方から同時に刺されていた、というのは?」

 新聞記者らしいハンティング帽の男がMP3プレイヤーを近づけながら、探偵Xに質問した。

「犯人は八本の長い手を持っていて、一人で八つの腕でいきなり八方から刺し殺したのです。指紋は丁寧に拭き取りました」

 あっさりと探偵Xは答えた。

 S夫人のみが呻いた。

「……密室の謎は? 内側から閂のかかっていた露天温泉からどうやって脱出したのです?」

「勿論、通廊から脱出したのです」

「戸は閉まっていたんですよ。中を見る為の格子戸はほんの六cmほどの隙間しかなかったという話ですが?」

「ですから身の丈は大小自在のまま、六cmほどまでに小さくして格子の隙間から」

 ぽかんとした白い湯気が呆れた様に湯船から湧いた。

「では凶器の八本の刺身包丁はどうやって持ち込んだのです? 母屋の脱衣所から浴衣に着替えるまでその様な物を目撃した人間はいなかったのですよ。四次元ポケットでもなければ不可能ですよ?」

「全くその通りです。犯人は身体に四次元ポケットがあって、そこに隠していたのです」

 探偵の口から滔滔と出る反論は、全く人を小馬鹿にしていた。ああいえばこういう、まさにそれだった。

「犯人はS夫人。あなたです」探偵は言いきった。「八本の長い手を持ち、身長を六cmまで縮小出来て、身体に四次元ポケットを持つ。その様な人間はあなたの他にはいません」

 S夫人は気丈な顔でたじろいだ。

「証拠は何処にあるのかね?」

 それでも巡査部長の言葉は正正堂堂と大真面目に探偵の言論につき合った。

「たとえS夫人がその様な特徴を全て備えていたとしても、君の言う事は状況証拠でしかない。何か確実な証拠を見つけたのかね?」

 探偵Xはそれに対し、無作法な事に自分のガムの包み紙を破いて、新しい物を口の中に放り込んだ。

「実はさきほど奥方の胸元に高感度の無線マイクを取りつけさせてもらいました」

 探偵のその言葉にS夫人はハッとし、着物である自分の胸元に小さなピンの様な物が貼りつけられているのに気づき、それを掌にとった。探偵がガムを押しつけてきたのが取りつけたタイミングだったのだろう。

「先ほどから録音しながら聞いていたのですが、奥方は『八本腕』『身体を小さく出来る』『四次元ポケット』という言葉が話題にあがる度に、あからさまに心音が大きく速くなり、呼吸が乱れますね。ちょっとした嘘発見器だ」

 探偵Xは自分の右耳に小型のイヤフォンが差し込まれているのを指で強調する。

「それだって状況証拠だ!」巡査部長は声を荒げた。「大体、この様な盗聴は違法収集証拠だ! こんな者は証拠にならない! 刑事事件では使えん! 公判が維持出来るわけがない!」

「私は国家警察ではなく、一介の探偵ですがね。証拠品は提出しますよ。……まあ、これも状況証拠と言えば状況証拠でしょうけどね」

 探偵Xは笑った。周囲にいる、野次馬、マスコミに。

「ともかくもう彼女は重要参考人相当ですね。事情を聴かないわけにはいかないでしょう。動機とかはちゃんと聞いておいてくださいね。……おっと、彼女を連行する時、身長が六cmになって逃げられないように気をつけてくださいね。そんな事をしたら自分が犯人だとばらす様なものですが」

 巡査部長は苦苦しげな顔をしてS夫人の周りに部下を配置した。

 紳士的ながらも彼女の八本の腕の一つにつき、一人ずつ警察官を配置して。

 S夫人はあからさまに凶悪な顔をして、探偵Xを二mものばした首の鬼の形相で睨みつけた。

 探偵Xはおどけた調子で肩をすくめた。

 慣れてるよ、とでも言いたげに、

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