喫茶アザレア

 本当に一人で大丈夫か? と春成は冬野を心底心配していた。

 雷がまたあったらどうする? だの、正月は誰かしらと居たいんじゃないのか? と。

 だが、それはいつもの事なので……と冬野はもう大丈夫だと突っぱねた。

 この屋敷に来てから一人で居る時間も増えたし、春さんだって実家に帰るのとは別にお仕事もあるから少しばかり長くこの家を空けるのでしょう? それに正月すぐに帰れなくとも問題ありません。私を気にせず頑張って来てくださいね――と言われてしまえば渋々、春成も荷物を手に持ち、正月になる数日前に出掛ける気にもなる。

「土産は何が良い?」

「いりません。変な物を持って来ないでください」

 それだけ言うと冬野は春成に早くしないと汽車の時間に間に合わなくなりますよ! と言って、春成を実家のある東京へと向かわせた。


 江戸から東京へと変わっても賑やかで人がたくさんいる。

 あの屋敷周辺とはえらい違いだ。

 少し見渡せば靴磨きの少年が居た。

「頼むぞ、少年」

「はーい!」

 少年の年の頃は十五ぐらいで、いつの間にか洋装になった春成の靴をにこにこと磨く。

「これで良し!」

「だったら、さっさと行け」

「はぁーい!」

 少年は元気にそう言うと春成が現れた駅へとお駄賃片手に走って行った。


 春成は実家へとは向かわずにそのまま『喫茶アザレア』という最近出来たばかりの喫茶店に向かった。

 そこはコーヒーが美味しくいただけるようで、その女主人も美しく謎めいていて素敵! と評判だった。

(我が姉ながら、女学生に負けじとモダンガールだな……)

夏羽なつはさーん!」

 と女給に言われ、にこやかに姿を現すと春成を一瞬見た。そしてすぐにその笑顔が消えた。

「あら、春成、何しに来たの?」

「予定はちゃんとお伝えしといたはずですが。やだな、姉さん」

「あら、そうだったわね……」

 とお互い偽りのある笑顔で笑い合った。

「でも、ちょっと待ってちょうだい。今は無理なのよ。コーヒーでも飲んでいてちょうだい」

 と適当な席に座らされて一人春成は待つことになった。

 この間に冬野の実家というか従姉妹達と暮らしていた家を見に行きたいが、それは許してくれなさそうだ。事が終わってからにするか……と考えているとコーヒーを運んできた一人の若い女給に話し掛けられた。

「お兄さん、夏羽さんの弟さん? カッコイイわね!」

 それほどでも……と言いつつ、コーヒーを飲む。

 ここに冬野が居たら、マズイ!! と言って苦い顔をして、こちらの心をほっこりとさせてくれるだろうか――と楽しい事を考えて時間を潰す。

 別に姉さんを待つ必要もないのだが、大事な話でもあるのか一向に姉は姿を現さない。

 じれったく思っていると、着物に着替えた夏羽がやって来た。

「行きましょう」

 すくっと立ち上がると春成も後に続く。

 店を出て、しばらくすると姉の顔も余所行きではなくなった。

「旦那さんは今日もお仕事?」

「そうよ、あの人はいつもそう。これもあんたに頼むことはないのに、自分が出来ないからってね……他人を家に入れるなですって!」

「そんなに怒らなくても。その旦那の洋司ようじさんだっけ? は高所恐怖症なんだから」

「そんなの知ってたら、結婚しなかったわよ! あたし」

「だとしたら、確実に行き遅れてたな」

「何ですって?!」

 怒りが垣間見えた。

「屋根の修理も姉さんがしようとして怒られたんじゃなかった?」

「そうよ! だからあんたを呼んだのよ! ついでにあの手紙、あたしが処分しといたわ。バカな真似はやめなさい」

 姉の言う手紙――それは春成が冬野を思うあまりに送ってしまった愚考、日を変えろ! でないと暴れるぞ! やら、困るのはあちらだ……と言ったことまでは書いてない子供じみたものだった。それを運良く受け取ったのがこの姉である。

 そんなに言うなら、こちらに来て仕事でもして喜ばせたら? その人を――と誰とは書かれていないのに決めつけで物を言い、確定させた人。

 お金ほど喜ぶものはないわよ! それが決定打だった。

「実家に送ったはずの物を姉さんがね……よく実家に帰ってる証拠だね」

「何が言いたいの?」

「別に、姉さんの家は家庭円満、関係は冷え切ってはいるけれど離縁にはならないでしょ。ちょっとその道を通って行った方が近くならない?」

「そうね……でもこの道に行きたいなんて、何かあるの?」

「いや、ないよ。ただ時間がもったいないだけ。俺はこの後仕事があるんだ」

「そう」

 あっさりとそう言えば、姉はその道を通ってくれた。

 それ以上深くは考えない人だ。

 これならすんなりと見られる。

 年末の冬野の従姉妹達が暮らす家はどうか、あの冬野の幼馴染もどうしているか知りたかったが目立った事はなかった。

 誰かが居なくなって困っているというのも感じられなかったし、ここは静かに正月を迎えそうだった。

 出会いたい人ほど、出会えないものだ。

 だが、自分はもう出会っているから良いとして――あとは姉の進む道を何も言わず付いて行くだけだった。

 こうやって歩くのは初めてじゃないか? と思った時、姉の嫁いだ吉瀬きよせの家に着いた。

「その仕事のおかげで今回は純日本風の姉さんの家にご厄介になるんだ、ありがたいよ」

「そう……、屋根の修理は明日かしら? その仕事が終わるのはいつなの?」

「屋根の修理だって仕事だけどね、雨は降らなさそうだし。これから会う人は姉さんの紹介して来た人だよ」

「じゃあ、あの人? 遠く離れた自分の生まれ故郷の言葉を時々で良いから喋りたいと言っていた」

「そうだよ、外国語を話す人は少ないからね。姉さんだって少しはできるでしょ? どうなの?」

「やーよ、それにそんなのしたら夫に怒られるわ! さあ、あんたの部屋はこの二階の和室よ、好きに使いなさいとは言わないわ。だって、あなたはすぐに帰るから」

「そうだね、その方が姉さんだって良いでしょ? あの旦那さんだって、きっと俺が帰るまではこの家に寄り付かない。だからと言って女に走ったりせずに仕事場にもるんだろうな……」

「分かっているなら良いわ。変な事はせずにね」

「はいはい、分かった分かった」

 冬野との初めての正月はお預け、こんな悲しい事はない! と、その男に話すことに決め、春成は荷物をその部屋に置くと出掛けた。

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