第10話 量れぬ天秤

 息をするのも忘れてたどり着いた我が家に、母も幼なじみの姿もなかった。家の灯りは落とされ、夜闇が家の中を満たしている。

 一階の居間や台所を見て回ると、熱が残るランプや椅子に雑にかけられたエプロンなどからは、人の気配が残っていた。

 隻は二階へと上がった。

 まずは階段から一番近い自室、隣の客室と、奥へと順番に中の様子を確かめていく。最後に廊下の最奥にある母の……正確には両親の部屋の様子を確かめるが誰もいない。家の中には誰の気配がないのだから当然のことだろう。しかし、そう広くはない部屋を見て回ると、隻はあることに気が付いた。

 身の回りの物がない。

 必要最低限、いつも出かける時に肩にかけているストールに簡単な貴重品がない。

ストールはいつでも使えるよう、自室の部屋一角の服掛けにかけるのが母の癖であるが、それが所定の場所にも他の場所にもない。

 二人用の、自分が使う寝台より、幅の広い寝台そばに置かれた棚をそっと開ける。そこにいつも入っている所持金や家の鍵などの、身近な貴重品類が入っていなかった。

 一階に戻ると、隻は改めて部屋の中を見回し、あることに気が付いた。

 居間の暖炉上に飾られていた剣がない。

 暗い中、間違い探しのようだったが、常時動かすことがない剣がないのは明らかな違和だった。剣は、メア王家の紋章が入った儀式用の装飾剣であった。鞘にも柄にも立派な装飾がついており実用向けではないが、鞘を抜けば刃がしっかりと付いた武器である。

 異邦のモノ魔物はほぼおらず、治安の良いホウロウでそれを使う機会はないが、家を不在にしがちの漱舟家長は、家族のお守り代わりと国に従事する者騎士として、それを置いていた。

 実際にあの剣には、微弱ながらも魔物避けや加護の魔法が付与されていると、隻は聞いていた。効果のほどは分からないが、魔法にも精通している父が言うのなら間違いない。

 花南に剣の心得はない。

 この家で剣を扱えるのは剣の持ち主である漱舟か隻である。

 それを持ち出したということは緊急を悟り、彼女が護身用に剣を持って、外へと出たということだ。遊月も一緒であろう。

 隻が雷に会いに外出した時も、彼女は母と共に家にいたのだから。いつものように寝る前まで家にいて、眠くなったら教会にある自室へ行くつもりだったはずだ。花南が遊月を置いていくはずもない。

 外へ出て、改めて周りを隻は注意深く伺った。住民のいない家と教会の周囲には魔物が来た形跡も気配もない。隻は、己の不安が杞憂であると確信し、安堵した。

「母さんと遊月、ちゃんと遺跡に行ったみたいだ」

 遺跡へは、森の縁の道を走っていけば遠くない。二人がいつ街の異変に気がついたか分からない。だが、隻と雷が魔物に遭遇してからのここまでの時間を考えると、余裕を持って避難できたのだろうと思う。

 そうとなればここに長居は無用であった。

 遺跡に向かうべく、隻は入口の手持ちの鍵でドアに鍵をかけた。

 その間にも、遠くから不穏な音が響き、隻はホウロウがある方角の夜空を見た。

(空路は、大丈夫だよね……。ちゃんと避難できてるよね……)

 街の、とりわけ空路のことが気になった。

 さすがの隻でも、これ以上無茶をできないのは分かっている。雷の制止を振り切ってしまった罪悪感が、隻の正義感や向こう見ずさに足止めをかける。

 無事とはいえ、勝手な行動してしまったことには違いない。きっと雷は怒っているだろうことが、容易に想像ができ、人知れず苦笑いをする。こうして、遺跡へと向かう道へと踏み出そうとしたその時だった。

「え、なに……?」

 家と教会を隔てる林の向こうで小さな光が灯り、隻は立ち止まった。木々の間に隠れつつも確かに隻の目に映ったのは光の玉だ。その大きさと揺れ加減は隻に神隠れの森の光の玉を彷彿とさせる。空気も風の抵抗もうけず、漂うそれはふっと唐突に闇に融けていった。

「消えた」

(教会の裏口……)

 長年、慣れ親しんだ教会は暗い中でも何がどこにあるのかが直ぐに分かる。目を何度か瞬いて見ても、見間違えではなくまだ光の筋が残っている。家の周辺で、森の"光の玉"と遭遇したことはなかった。しかし、たった今の物が隻には同一の物にしか思えなかった。燭台の灯より冷たく、金属の弾く光より暖かく、星より冷たく、弱々しさを感じる所が全く同じなのだ。

 同じものならば、それには何か意味がある。

 今までの経験も伴って、隻はそう考えている。たとえ自分以外には見なくても、自身の幻影だと言われても、信じてもらえなくても間違いなくあれは何度も還らずの森で自分を助けてくれたのだから。

(何かある?)

 よぎった予感を隻は疑わなかった。家の小さな菜園を抜け、家と教会を分ける柵がわりの藪の間の細道へと躊躇なく入る。中に入れば枝葉が身体を擦るほどでとても道と呼ぶには抵抗があった。実際、利用者は隻と遊月だけだった。幼い頃、家と教会を往来するために、無理矢理通り道にしまったものだ。

 指折り数える間もなく教会の裏庭に出ると、見慣れた庭の端に天使を模造した像の周囲を無尽蔵に生えた草木が囲っていた。

 低木の間に見え隠する幾つかの墓石は暗緑に沈み眠っているようだった。街の教会と比べれば、大きくはないが、祭事には数十人は余裕で入ることのできる教会は

夜影を吸って膨らみ城壁のように立ちはだかっている。背筋に冷たい汗が一筋零れる。

 また遠くで、轟音が響いた。

 いつここにもその音が訪れるかはわからない。

 隻の不安は裏口に来たときに最高に達した。裏口の扉が開いていたのだ。閉め忘れたのか、自然に開いたのか、手の厚みが辛じて入る程度の隙間だった。 隙間から中を覗けば薄闇の中に何かの気配を感じとる事ができた。

 隻は万が一にも母や遊月でないことを祈りつつ、教会の中へと入っていた。

 中に入った途端、鼻を刺す臭いに隻は顔をしかめた。

祭事場に続く、裏口の廊下に漂うそれは、埃と古い木の臭いに混じって、鉄味帯びた臭いがした。

「血だ」

 慎重に隻は左手に連なる窓から差し込む月光を頼りに歩みを進めた。腰の剣柄にはいつでも抜けるように手を添える。

 廊下の一番奥、祭場に続く扉の目の前にたどり着いた時、隻は全身が総毛立つのを感じた。疎らに床に付いた赤い斑点、奥へ行くほどそれが大きく増えて行く。

 そして、暗闇に埋もれるように座る影を見つけたのだった。月光の差し込む窓の真下にいるために姿形しか見て取れなかった。だが、それが誰か、隻にはすぐに分かった。

「遊月っ!」

 隻は影の名を呼ぶと、すぐさま駆け寄った。

「……あ、隻くん?」

 隻に気が付いた彼女もゆっくりと頭をもたげた。青白い顔色に疲弊した双眸、抑揚のない声はいつもの元気な遊月とはひどくかけ離れていた。壁に凭れて座り込み、腹部を押さえる両手は血で赤く染まっている。

 傍らには刃が砕け折れた剣が転がっていた。暖炉にあったあの剣である。

 隻の全身の血の気が音を立てて引いた。倒れるかと思うほど目の前が一瞬暗くなる。

「遊月!一体何が……。どうして、こんな……っ!」

「ぐっ。隻くん、あのね……」

「動いちゃ駄目だよ」

 隻は、素早くジャケットを脱ぐと内着のシャツの袖を引き裂き、遊月の傷口に当てた。

 暗くてよく見えないが肩から腹にかけて、袈裟切りのような傷がある。あらかたの出血は止まっているようだったが応急処置をするに越したことはない。また、早く治療が必要であることは素人目でも判る。

「すぐに医療師に診てもらわないと!」

 悲痛な声を響かせる隻に遊月は弱々しく首を振ると、彼の手を握った。

「遊月……?」

「あたしはいいから。おばさまを……」

「母さん?」

「ごめん、ごめんね。あたし、がんばったんだけど……、駄目、だった……」

 遊月の手は冷たく、か細く小刻みに揺れていた。寒いのだろうと、隻は脱いだ上着を遊月の肩にかけてやる。

 肩に掛かった上着を見て、遊月から小さな笑みが零れる。その笑みがいつもの見慣れた幼なじみの片鱗を見せ、隻は安堵するが、続いた言葉が胸中を凍りつかせた。

「おばさまが連れて行かれちゃった!」

「えっ?!」

 遊月の言葉を隻はすぐに飲み込むことができなかった。だが、理性は勝手に理解をしており、様々な疑念が一気に噴き出し思考する。

 誰が、どうして、誰に??

 遊月は縋り付くように説明を始めた。

「街から、すごく大きな音がしたんだ。何度も。怖くて、どうしたら良いか解らなかったけど、おばさまが遺跡に逃げようって……」

「うん」

 途切れ途切れに順を追って話す説明は本題にすぐに入らず、ひどくもどかしかった。

 混乱と動揺を隠せない遊月が隻に解るよう伝えるためには精一杯だった。隻は先刻の出来事だと悟り、優しく頷いて続きを促す。

「教会に荷物取りに行こうと思って、こっちに二人で行ったの……っ」

「うん」

 語尾が段々と弱々しく、涙声になっていく。隻も泣きたくなってきた。最初の言葉と現状を量り、己がいない間に何が起きたか悟りつつある自分がとても嫌になる。

「そしたら、ここで、ここに、変な、あやしい奴らが来て、おばさまを………っ。おばさまがっ!」

「………」

 これ以上を話すのが辛いのだろう、遊月はしゃくり上げてなかなか続きが出てこない。続きを促していた隻もその先を追究できず、言葉を失う。

(母さんが攫われた?!)

「ごめんね、隻くん。あたし、がんばったんだけど……、……だめ、だった。おじさまや隻くんが悲しむのに。あたし、ごめんね。ごめん………っ」

「遊月……。そんなこと! …そんなことより傷が-----!」

 ふいに隻は遊月が何に対して謝罪の言葉を述べるのか、何故泣いているのかに気が付いた。

 痛みに泣いているのでも、寒くて震えているのでも無い。

謝罪の言葉は自責の念であり、泣くのは、震えているのは後悔からだ。花南を守れなかったということ。遊月はそれに涙をしているのだ。隻や漱舟、花船家族が悲しむから。己の傷などそっちのけで泣いているのだ。

 隻は、遊月にとっても花南は“母”なのだと思い知った。

 遊月がなんとか語った言葉を繋ぎ合わせて分かったことは、何者かがこの教会に現れて、花南を連れて行こうとした。止めようとした遊月が返り討ちにあったということだ。

 一体どういう理由でそうなったのかは推測できないが、状況から考えて、遊月は牽制用に剣持っただけなのかもしれない。そして、相手は容赦なく、剣ごと遊月を斬ったに違いない。まっすぐに迷いのない太刀筋は、その人物がしっかりと剣の技術を身に着けた人間であるとうかがえた。いくら剣が本物でも、脅し程度にしか扱えない者が太刀打ちできる相手ではないことは容易に想像ができる。

(遊月のせいじゃないよ)

 そう言ったつもりが、胸の奥から込み上げたものが咽で詰り、言葉が上手く出なかった。代わるように遊月が言葉を紡ぐ。泣きはらした目をまっすぐと隻へと向け、隻の手をしっかりと握る。

「隻くん、早く行って…!おばさまを助けて!」

「でも、遊月が!」

「あいつら、街の方に行ったみたい。まだ間に合う……!」

 何となく、きっと、遊月はそう言うだろう。心の奥底で分かっていたが知らなかったことにしたかったことを遊月は難なく述べた。苦虫を噛み潰した表情を作る一方で、どこかで冷静な別の自分がいることが、隻は嫌になる。

 母を助けたい。

 その気持ちは二人共、同じである。

 それは同時に遊月を置いて行くことだった。彼女は、隻が幼なじみを置いていけるはずがないことを知っているはずだ。当人も苦しく心細いはずだ。それなのに、彼女は続けた。

「あたしは大丈夫」

 つきりと、左胸の奥に痛みが走る。何処か既視感を覚える言葉は隻の胸の痛みを酷くした。わずかに月光を浴びた隻を見る遊月の顔が今にも泣きそうな程に歪んでいた。涙を瞳に浮かべ、それでも口の縁は小さく上がっていた。

 無理矢理、描いた笑顔はひどく儚く見えた。

 そんな顔を彼女に浮かばせている自分の表情が隻は想像できた。遊月以上に泣きそうな、困ったような泣きそうな表情をしていることだろう。

「血も止まったし。さっきより頭ん中もはっきりしてるんだ。きっと隻くんのおかげだね」

 肩にかけられた上着を肩口に見て遊月は笑った。

しばし考え、隻はゆっくりと口を開いた。自分がどうすべきかを心に無理矢理植えつける。

「すぐに戻ってくるからね」

「うん」

「無理して動いたりしちゃ駄目だよ」

「うん」

 再度彼女の顔を見ると、ぼやけてよく見えなかった。

「待っててね。母さんと一緒に戻ってくるから!」

「うん」

 半分は自分に言い聞かせるように言った言葉の最後は語気が荒かった。あり触れた返事に様々な気持ちがこもっているのを感じた隻は逃げるように立ち上がった。

これ以上ここにいてはこの場から離れられなくなる。と、そう思った。

 到底量る事のできない隻の中の天秤から、自らの錘を落す遊月の行為を無駄にはできない。

「絶対に」

「うん」

 その場から離れるのを惜しみながらも、小さく途切れた言葉にも遊月は律儀に返答をした。それを背で受け止めた後は、振り返ることはしなかった。

 廊下に漂う闇へと逃げ込むように、彼女が示した道へと疾走した。



 暗闇の中、幼なじみの足音が遠ざかっているのを耳に捉えながら遊月は宙を仰いだ。

窓から差し込む月光は、空気にまじる埃をも鮮明に映している。

それに自分の荒い息が混じると均等の取れた空気が乱れた。

 遠くで扉を、勢いよく開け閉めする音がした。

住み慣れた家の構造を知り尽くしている遊月は、聞き慣れた扉の音に、隻が廊下を抜け、裏口から外へと出て行ったことを知る。

 急に身体が冷え込んできた。遊月は彼が肩にかけてくれた上着を手繰り寄せた。

「あったかい」

 視界がぼやけて、足下もよく見えない。

 ふいに最後に見た彼の顔が浮かぶ。整った細い眉はゆがみ、ガーネット色の瞳は潤み、今にも泣きそうだったのを覚えている。母親似の一見女の子にも間違われる顔立ちの綺麗な顔が台無しだった。そんな顔させてしまったのは他ならぬ遊月自身であることがとても悲しかった。

「大丈夫。隻ならきっと大丈夫だよ。あたしなんかよりずっと強いもん」

 身体を襲う眠気に抵抗しながら遊月は小さくつぶやいた。

「だから、泣かないでね…」

 吐息より小さなその言葉は闇に混ざり溶けていった。

 遊月は意識が薄れていくのをひしひしと感じた。

(……あたしは君が悲しむ顔を見たくない)

 声にならない囁きが最後、その後の事は覚えてはいなかった。

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