第8話 待つ人

「そういえば、もうあずまには会ったのか?」

 唐突なその言葉にせきが目を見開いた。前触れもなく空路くうろから切り出された質問に隻は首をかしげる。

「何の話?」

 客がひいた昼下がりの銀猫亭は閑散としていた。現在の客はたった二人。

 店主・空路にとっては友であり、弟妹のような感覚さえ抱いている隻と遊月だ。見世の繁忙時間を避けて来店した隻は、昼食だけでは足りなかったため、二つ目の昼の日替わりメニューをおやつのように食している。

 隻は同年代の者と比べると細身で小柄なのだが、妙に大食なのを知っている空路は驚きもしなかった。

 むしろ、自分の料理をいつでも美味しく平らげてくれる。加えて、先代から店を引き継ぎ、味が多少変わっただろうに幼い頃から銀猫亭を贔屓にしてくれる点でも、商人として友人として、隻への好感度は最高だ。

 今日も嬉しげに食事をする隻の隣では、遊月がテーブルに俯せ、すぴょすぴょと何とも表現し難い寝息を立てて寝ていた。本人は仕事を頑張ったから眠くなったと言い張っていた。彼女は無駄なエネルギーを使いすぎだと、空路は常々考えている。

 二人が午前だけだった運び屋の仕事を終えて、空路の店で寛ぐのはいつもの見慣れた光景だった。

 これに仕事欲しさや食事をしに雷も混じることもある。彼はここ三日ほど姿を見ていない。

 彼が仕事を放置し、花南に伝言を残してから、空路が知る限り、彼をホウロウ街で見かけた者はいないようだった。良くも悪くも目立つ異国の占い師を、空路は心配していなかった。臨時とはいえ、職場放棄は腹立たしいことだが、彼が誰にも行き先を言わず、ふらりとどこかに行き、ふらりと街に戻ってくることは、今回が初めてではなかった。

 彼の行き先に興味がない訳ではないが、訳ありの異国の者は雷以外も世界中にいる。彼らの中には、固定の土地や国を持たぬ者や事情があり定住しない、好まない者がいる。その中には罪人もいれば、亡国の王候貴族等もいると云う。彼らへの余計な詮索が野暮なのは、メアの人間を含め多く国での暗黙の了解だ。国や土地、街に一定期間留まることはあるが、気がつけばどこかへ流れて行く。目的があるのかないのか、それは当人しか分からないものだ。

 悪さや迷惑を行わなければ、彼らには寛容とするのは、メア人の他に竜族や獣耳人や近隣国の人種が混じって暮らす都市領王国メアでの風潮であった。単に厄介事に首を突っ込みたくない側面が多少ないとは言い切れない。現にメアを含め、世間の彼らに対する風当たりが強いのも嘘ではない。

それはそれとして、雷は帰ってきたら説教をすることを心に留めつつ、彼が花南かなんに伝え、花南が空路と遊月ゆづきに共有した伝言を、空路は忘れていなかった。

 疑問符を頭上に浮かべる隻に合わせるように、空路も疑問符を浮かべる。

「花南さんか遊月から、話を聞いてないのか?」

「何のこと?」

「おかしいな」

 空路は食器を拭いていた手を止め、カウンターから出る。そして、遊月を揺さぶり起こす。唾液がテーブルに付いているのを見てしまい空路は頬を引きつらせた。

「おい、遊月。起きろ!お前、隻に雷のこと、言ったのか?」

「んー?あずまがなにー?」

「三日前の話だよ。自分が伝えるって言っただろう?」

「むー?なんだっけ?」

 寝ぼけ眼をこすりながら言う彼女は未だ夢の淵をふらふらしているようだ。

 会話が合っているようで合わない。嘆息しながら空路は隻と目を見合わせると、隻は困ったように肩をすくめる。

 これらから、隻は三日前ここであった出来事を誰からも聞かされていないことを悟る。空路はため息をつき、天井を仰いだ。

 雷の言付けを花南の代わりに隻に伝えると勝手に名乗り出た遊月は、あろうことかその役目を忘れていた。

 空路が隻に教えても良いのだが、後で遊月に恨み言を言われるのは御免被りたい。 

ので、彼女を優先する。花南も自分が伝えるとやけに意気込んでいた遊月を思って、言わなかったのかもしれない。花南もぼんやりしているところがあるので、本当に忘れているのかもしれない。

 要は単純な伝言ゲームの失敗であった。

(そもそも雷が唐突にどこか行くのが悪いんだ。今日は街にいるんだったら、見つけたら、これも文句言ってやる)

 矛先は当然のごとく占い師に向いた。

「ほら、三日後隻が帰ってきたら、会いに行くから待ってろ。とか何とか言ってたやつだ。ちゃんと言っておかないとすれ違いになるぞ」

 時間も惜しいのでヒントと言うよりは寧ろ答えだ。

「おととい………。あーーーーーっ!雷っ!」 

「うわあっ」

 眠りと現実の狭間を漂っていた遊月が、椅子から跳ぶように立ち上った。

 テーブルに勢いをつけて立ち上がったため、隻のおやつが飛び上がる。隻はすかさず持ち上げたので、ひっくり返ることは逃れる事ができた。口にフォークをくわえ、右手はシチュー皿、左手に水とスープがそれぞれ入った木製コップを持つ器用さとバランスの良さに思わず空路は心の中で拍手をする。

 (隻、運び屋辞めて、銀猫亭の専属ウェイターになってくれんかなー?)

慌てふためいて、目下行方不明中の臨時従業員の置き土産を隻に伝える遊月を見て、空路は胸中でつぶやく。

(そうしたら勝手に店からいなくなる“問題児”を雇う必要もなくなるのに)

 今日も銀猫亭主人は自分勝手な友人たちに呆れを通り越して物が言えなかった。


◆◇◆


「あ~ず~ま!」

「うわっ!」

 突如背中から抱きつかれ、あずまは驚きの声を上げた。長年の経験から気配があったのは分かっていた。それが誰かも気がついた上だったが、声の主のそういった、子供っぽくも人懐っこい行動が、雷にはどこか面白かった。からかい半分のわざとらしい、雷の驚いた声が、藍色を帯びた夕空へと消えていく。

 負ぶさるように身体を雷の背に預けた人物の顔を見ようと、彼は後ろにのけ反るように頭を回す。

 いたのは雷の予想通りの人物・隻だった。

 赤みがかった黒髪と同じ色をした瞳は底が深く優しげな印象が強い。雷がメアを拠点にするようになってからの初めての友人であり一番気を許している相手だ。そうでなければ、雷がやすやす背中を預けたりはしない。

「驚かすなよ、隻」

 己より幾分も背の高い雷にぶら下がっている隻はそのままの状態で満面の笑顔をみせた。つられて雷も小さく笑みを浮かべた。

 普段は愛想の悪い雷だが、切れ長の瞳に海色の瞳を持った顔貌は端正で、見る者がいれば目を留める美顔であるのは間違いなかった。しかし、二人がいるのはメアの郊外、神隠れの森の縁に沿うように南北を結ぶ小道である。人の気配はなく、唯一の目撃者である友は残念なことに頓着が薄かった。

「驚かすためにしたんだから、驚いてくれなくちゃ意味がないよ」

「人を選んでやった方がいいぞ、これ。距離が近すぎる。俺は別にいいけど……」

「?」

 雷の言っている意味を介さなかったらしく、隻は首を傾げた。

「よかった、追いついて!遅くなってごめんね。母さんと遊月が忘れてたんだ」

 銀猫亭にて、隻は遊月から雷の言伝を聞き、慌てて家に戻ったのは、つい先刻のことである。隻が知る中で、ホウロウと家とを最短で結ぶ道を使って、家に戻るもいたのは母の花南だけであった。そこで雷が家を訪ねてきたことを知ったのだった。そこで、行き違いがひどく時間がかけ離れていないことを知り、隻は、雷がホウロウに戻るだろう道を追いかけてきたのだ。

 それを手早く説明すると雷は呆れた顔で頭をかいた。癖のある青銀の髪がふわふわと揺れ、うっすらと残る夕暮れの光を反射する。

「まったく、遊月のやつ。だから花南さんに頼んだのに……」

「うーん、母さんも忘れてたみたいだから、空路が一番安心だったかな」

「……花南さんまで」

 雷は、己が見事に人選を間違えたことにがっくりとうなだれた。 

「なんか、最近、母さん様子がおかしいんだよね。俺が出かけている間に何かあったのかな?」

 隻は隻で、気になることがあるようで、首をひねっている。

「いや、いつも通りだったと思うが……。俺も三日ほど街から離れたからなあ」

「そうだ。そういえば、そうだったね!俺に用があったんだよね?」

 ようやく本来の目的を持ちだされ、隻は手を打つ。

「ああ、そうなんだ。悪かったな。せっかく家に帰ったのに無理させて」

「平気。俺も雷に会いたかったんだ」

 隻の家からホウロウ内の雷の常宿に戻るには、今いる道を北進するのが最短距離であるため、雷はよくこの道を使った。神隠れの森近くの道を通るのは、森に紛れ込む危険性がある。昼の明るい時はまだ安全だが、夜にわざわざ行きたがる者は、よほどの緊急でない限りいない。そんな道を大切な友に足を運ばせてしまったことを、雷は心苦しく思う。眉根を寄せれば、隻はにこやかな笑顔で返してきた。

「ともあれ、助かったよ。出直すつもりでいたんだ」

 雷は、上着のかくしに入れたものを取り出しながら、「予定よりかなり遅いが」と本題へと言葉を急いだ。

「どうしても、これをお前に渡したくてな」

 雷の言葉が理解できないでいる隻に、雷は微笑すると静かに彼の手を取った。

そして、取り出した物を、彼の手の上へと両手で包むように渡す。

「!」

 雷が渡した物が一体何であるかを隻が悟るのは簡単だった。凹凸の手触りと指の力を入れると布越しでも分かる、細かい金属の塊が集まった堅い手触り。

 掌の上に置かれた瞬間、じゃらりと重い音がした。

 貨幣だ。

 隻は爪先から頭頂までを何かが駆けて行くのを感じた。隻の片手で何とか持てるだけの大きさの包みであったが、これだけの貨幣があれば、たとえ銅貨であろうと冬を三度は越せる額はあるだろう。一塊の運び屋が一生かけても持てる物ではないし、同じく一塊の占い師にすぎない雷にとってもだ。

 紐で結ばれた革袋の口の隙間から、銀と銅の色が闇色の中でもわずかに光って見える。否、金色も見える。

「これ、どうしたの? こんな大金……」

 隻の疑問を無視して、雷はそっと、しかし確実に親友の手の内に、それを押しつけて放さなかった。

「詳しい説明をしていると長くなる。これからきっと役に立つ。これをお前にやるから」

「いらない」

「……隻⁉」

 言葉を遮られた雷は目を見開いた。普段の穏やかな口調とは違う、重圧のある友人の言葉に雷の手の力が緩んだ拍子に、隻は彼の手ごと硬貨を押し戻した。

「いらない。こんな大金、受け取れないよ。雷が稼いだお金でしょう?」

 隻は雷に貨幣の入った袋を返そうとしたが、雷も押し返すので、雷の腹のあたりで袋は宙に浮いたようにとどまった。

 何を悟ったのか、うつむき加減で言う隻の顔を、背の高い雷では見えなかった。

 隻には勘が良いところがあるのを、雷は薄々気が付いていた。誰かが遠くから来ると隻は誰より早く気が付くことがある。目が良いのではないのは建物の中でもすぐ気が付くからだ。ある時は、誰かの感情を自分の感情のように感じている節があることもある。また、神隠れの森で、常人には見えないものが見えることも、友達だからと教えてくれたことがある。これが"勘"だけでは済まされない類であるのは、職業上故に分かるところが雷にはあった。

(上手い事、立ち回っているつもりだったが、時間の問題だったな、こりゃ)

 隻に気が付かれないように、雷は息を吐いた。

「良いんだ。持っていけ。今まで世話になった礼だ」

「なに、それ。そんな言い方、まるで…」

 普段とは違う様子の友に不安を覚えた隻はそこで言葉を止めてしまった。今感じたことを口に出してしまえばそれがそのまま現実になるような気がしたのだろう。

雷は、隻の手を硬貨袋ごと両手で包んだ。黒革の手袋をしている右手は何も感じなかったが、素手である左手から、次第に隻の手のぬくもりが伝わってくる。

 雷はそれに額をそっとつけた。まるで祈るような仕草だった。

「隻、俺はお前のことを親友だと思ってる。弟みたいなもんでもある、な……」

「雷……?」

「ははっ。我ながら恥ずかしいことを言ってる。馬鹿みたいだ」

 手から額を放し笑う雷に、隻は訝しげに眉根を寄せた。

「馬鹿みたいだけど、これは俺の本音だ。そして、これから言うことを信じてほしい」

 隻は返す言葉が見つからないようで、黙って雷の言葉の続きを待っていた。

「逃げろ」

「え?」

「今すぐ。メア……ホウロウで、お前にとって良くないことが起きる。今すぐに」

 隻は、雷の言葉にいよいよ言葉が見つからなかった。



 隻が雷の言葉を飲み込むことができたのは、数秒も経っていなかったに思う。だが、その時間が隻には途方もなく長い時間に感じた。ゆっくりと冷静さを自分の中に押しとどめるように、隻は雷に問うた。

「雷、どういう意味? 逃げろって、何が起きるの?」

「とにかく、逃げてくれ。ホウロウを、いや、メアを出た方がいい」

「!」

 雷は、隻に一方的に言い募ると隻の背を森に向けて押した。質問を受け付ける気はないらしい。しかも、森に逃げろというのは、普通では考えられない事態だ。

 隻が神隠れの森を通り抜けることができることを、雷は知っている。しかし、彼がそれに対して、良い顔をしなかったのは記憶に新しい。

 加えて、隻は逃げろと言う単語も納得がまったく行かなかった。何より国を出ろと言う言葉は隻の心をひどくざわつかせた。

 隻にとってメアは生まれ故郷であり、これからもずっと生きていく国である。そんな隻にとって国外に行くことはまったく予想もできないことだった。それを知った上で雷は言うのだ、国を出ろ、と。

 しかも、今すぐと言うからには、家族や友人を置いていくのも含んでいるように思える。

 不安と混乱で血流が早くなっていくのを、隻はつよく感じた。何より、理由を説明しない雷に、流石の隻も業を煮やした。

「一体、何だよ。ちゃんと説明してくれないとわかんないよ!」

 感情のままに吐いた言葉に力がこもったのか袋から硬貨が鳴る音が響く。

「それにどんな理由があっても、この大金は受け取れない!」

 似つかわしくない大声を張り上げると、隻は思いっきり雷に袋を押しのけた。納得行かないことは頑固として、諾としない隻の、実に言い分だった。

しかし、雷も譲らなかった。

「お前の言いたいことは分かる。でも、今にわかる。お願いだ。頼むから言うことを――っ!!」

「雷っ!!」

 振り出しに戻りつつある会話を止めようと隻が声を上げた瞬間、二人の頭上を黒い影が落ちてきた。雷も隻も"それ"に同時に気が付き、声を失った。

 それはすっかり日が落ち、彼らから月明かりを奪っていた。異変に気が付き、月明かりを遮ったものを見上げる。そこには黒い影のような生物が空を舞っていた。犬を思わせる姿形に鷲のような翼を持った闇色の影は彼らとの距離を縮める。

異邦のモノ魔物っ!』

 条件反射で二人は互いに反対側へと地面を蹴るのと、影がその場に降りたのは同時だった。

 薄明かりの闇の中、地面が黒ずんで行くのが夜目でもわかる。

 口からは黒い気炎を吐き、うごめく闇色の体毛の間から見える眼光は禍々しい血の色をたぎらせていた。真下から見たとおり、犬の姿に鳥翼を生やした中型の馬車ほどの体躯の生物であった。

 異邦のモノ、魔境の生物、生ある域から外れたモノ、神々の残骸。呼び名は様々ある。総じて『魔物』と呼ばれるにふさわしい、禍々しい容姿をその生物はしていた。

 隻と雷は、示しも合わさず二手に分かれる。魔物は、咄嗟に間合いをとった二人を交互に上空から威嚇した。大音量の獣の恐ろしい咆哮があたりを支配した。

 隻は咆吼と共に撒き散らす死臭を嗅がないよう、鼻と口を左腕で押さえ、一方の右手で、片手剣を構える。

 魔物を隔て、向こう側にいる雷が気にかかったが、隻は気にしないように務めた。今は他者を気にかけている暇はないと全身が告げる。

 知らずと荒くなる動悸を押さえるよう隻は心の中で反復したが、背を汗が冷たい道筋をつけ、剣の切っ先がわずかに震えているのがはっきりとわかった。

 それを察したのか魔物は勢いをつけることなく、隻へと跳びかかってきた。

「!!」

 身を低くし魔物の下を隻は転がり込むように走り、魔物の爪から逃れる。背後で地面が”喰われ”原形をなくす音が聞こえた。何が起きたかを確認するまでもなく、次に視界に飛び込んできたのは別の魔物だった。

 見計らっていたように藪から別の魔物が出てきたのだ。翼はないが先の魔物と同様大型の闇色の野犬のような姿をしていた。長く鋭い牙の間から青白い炎が漏れ出ている。隻は地に着いた片手を利用し、さらに飛び退くが、姿勢を崩した上に不意を付かれては思うようには身体は動かなかった。

「っ!」

 あっという間に剣を食いつかれる。腕をやられなかっただけ隻の反射神経が先を行っていたようだが、気休めにはならない。強い力で引き寄せられ足が宙に浮く。

「うわっ!!」

「隻っ!!」

 瞬間、宙を舞い地に叩きつけられる想像が頭をよぎり、目の前が真っ暗になる。同時に別の力で背を引き寄せられ、闇夜に轟いた咆吼で我に返る。闇の中、魔物が目の前でのたうち回っているのに目を見張った。事態を飲み込めず、地面に座り込んだまま注視すると額に何か細長い物が何本も刺さっていた。それが先刻の咆吼の原因だ。

「大丈夫か!?」

「雷…!」

 頭上から声をかけられ、見上げればそこには当然だが雷がいた。夜でも明るい青銀の髪が頭上を揺れ、鋭い青眼が心配気に己を映すがすぐに目の前の敵へと視線を移す。仲間が負傷したせいで、一方は伺うように間をとっている。

 じりじりとせっぱ詰まった距離感を雷との間に作りつつあった。

「わりぃ。こんなんしか持ち合わせが無くて、仕留められなかった」

 雷が指の隙間を埋めるように持つ細長い鉄鍼と魔物の目に刺さったものが一致し、彼に助けられたことを隻は悟った。

 長い黒の外套の裾から見え隠れている雷の腿にはベルトが巻き付けてあり、そこに付属さている細長い鞘に数本の鍼が備えてあるのが見え隠れしていた。

 闇の中でも黒く光る鉄鍼の大きさは羽根ペンほどで、その辺りの小枝よりは太く頑丈そうだった。しかし、巨体な敵を前にしては致命傷を与えることは難しいだろう。

 申し訳なさそうに雷は詫びたが、隻にはとても心強く、首を横に振る。たった今、その鍼と雷の機転に助けられたのだから非難することは何一つない。

「ありがとう。雷って、魔物相手もすごく強いんだね!」

 隻は雷がそれなりに戦いに慣れた自分であるのは心得ていたが、実際に異邦のモノ魔物を相手にしているのを見たのは初めてであった。

 何度か街で絡んできた素行の悪い相手等に素手で圧勝するのを見たことはあったが、本人曰くの簡単な武器鉄鍼で、こうも簡単に世界の理から外れた生物を退くことができるのは、隻にとっては純粋に尊敬に値する行為である。

「ふふん。俺をただの占い師だと思ったら大間違いだぞ」

 人間相手では喧嘩上等、全勝無敗を素で行く占い師は口端に笑みを浮かべた。その間にも魔物は臨戦態勢をとり、負傷した方も盲目になりつつもこちらへと威嚇を始める。

 隻も雷に任せきりにさせるわけにはいかず、剣を構え直した。隻も雷ほどではないが、剣をずっと父や伯父に習ってきていた自負がある。多少なりとも実戦経験もあった。隻が運び屋の特使という肩書を持っているのは、貴重な荷物を守るためのある程度の実戦経験を持っているからだった。しかし、

「雷……。俺、魔物相手は全然で………」

 心配を素直に吐露すると、年上の友からは明るい声がすぐに返ってきた。

「わかってる。お前は翼がない方を相手しろ。翼がある方は俺がする。援護もできる限りするが、できれば自分でなんとかしてほしい」

「わ、わかった。なんとか、できるよ……!」

 雷は隻に的確に指示をしながらも、魔物たちからは絶対に目を離さなかった。

 何本所持しているのか、新たな鍼を両手の指の隙間に構えている。

「大丈夫、隻なら十二分やれるさ!お前の剣の腕は俺が保証する」

「うん!」

 友の不安を感じ取った雷に励まされると、隻は戸惑いを含みながらも強く頷いた。

「じゃあ、散!」

 合図と共に二人は二手に分かれて、目の前の敵へと集中した。




 鼓膜を直接叩く、気味の悪い悲鳴は絹を切り裂く音に似ていた。

 声は黒い魔物の巨体が消えていくと共に消えていったのを、隻は荒い息で見つめていた。まるで黒い霧のように夜に溶けていくようだった。

 いつの間にか森の外へと漏れ出たが頼りなく周辺を照らし、この場所にはもう何も無いことを教えていた。あるのは地面に紙魚のようについた大きな黒い影だけである。

 それが、隻が初めて倒した魔物の最後だった。

「隻!大丈夫か?」

「大丈夫」

 隻が漂う光の玉を明かり代わりに鞘に剣を戻していると、遠くから雷が駆けよって来た。二頭の魔物と戦っている内に、雷とはいつの間にか随分と距離が離れてしまっていたらしい。その雷も、宣言通り翼がある黒犬を倒せたのだろう。

 息を荒らげることもなく、隻のそばまでくると、心配げに眉根を寄せていた。彼には光の玉が見えていないのだろう、暗闇で目を凝らし、隻に怪我がないかを確認してきた。

(俺以外にはやっぱり見えないんだな。これ)

 森の中では強い光を放つそれらは森の外では長く光っていられないようだ。弱々しく、障害物に当たるとすっと溶け消えていく。それだけでも十分な明かりとなり、二体の魔物によって地形の変わった道がよく見えた。

 二人がいる場所から少し離れた場所、雷が来た方面にあった森と道の一部はなくなっていた。そこに、地が大きく沈んで、黒ずんでいる場所が、薄っすらと暗闇の中でも見えた。その場所が、雷が魔物の息の音を止めた場であることは明白だった。

 他に魔物の気配を感じられず、雷も隻も小さく息を吐く。

「それにしても一体、何だろう?こんな森のそばで魔物に遭遇するなんて……」

「………」 

 神隠れの森のおかげで、魔物の出現率が少ないメアでは、これは異例のことだ。ましてや目の前が森ならなおのことだ。この森は、魔物も人も迷わせるのだ。

 生まれも育ちもホウロウの隻は、魔物に真っ正面から出くわしたことがなかった。隻は率直な疑問を口にするが雷は応えなかった。

 それに隻は違和を感じるが、原因を察するに至らなかった。否、至る前にその思考は止められてしまった。先刻と同じように魔物の鳴き声が辺りに響き渡ると同時に無数の影が、北の空を駆けていったのだ。

 その方向にあるのはホウロウである。

 空気を裂くような咆哮が、夜空に木霊した。

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