第2話 運び屋少年

 ああ、これは夢なんだ。

そう思考が達するまでには幾分も経たなかった。

 空は高く澄み渡り、どこか湿り気のある空気を含んだ風が頬を撫でた。

 他に何もない。

 本当に何もない。

 空と風があり、踏みしめる地には赤土を含んだ岩肌が地平線まで続き、あたりは閑散としていた。

 俺はこんな寂しい場所、知らない。

と、口に出そうとしたが、言葉が咽に張り付いたように出てこない。

 その代わり、思考は明瞭で軽い。これは夢だから。不自由なんだ、きっと。だから、妙にさっぱりとした考えに落ち着いてしまい、もう一度周囲を見渡す。

 ざざん…

 潮の香りがする。

 北とも南とも付かない、風が吹いてくる方角から突然、わずかだが海の薫りがしてきた。その方向へと足を向けたその時だった。

「行かないで」

 誰っ!?

 唐突に背後から声がして、ぎょっとして振り向いた。いたのは自分と同じ年…十五、六才ほどの見知らぬ少女だった。地につくほどの長い髪と白い異国の衣装が美しい。海と空をそのまま硝子玉に流し込んだような、蒼い瞳がこちらを見据えているのに思わず息を呑む。

 再び声が響いた。

「それ以上は行っては駄目」

 何故?

「あなたが悲しむ顔を見たくない」

 何故?

「だから泣かないで」

 何故?俺は泣いてなんか……-!!

 話が通じているようで通じぬ様子に歯痒さを覚えだしたその時だった。玲瓏な声が漏れる彼女の口の端から赤い線が伝った。

 血だ。

 それは見る間に太くなり、口を押さえた彼女の小さな手の隙間からこぼれ落ちていく。

「だ、大丈夫っ!?しっかりして!」

 慌てて駆け寄ると、うずくまる彼女を支える。血が白い衣装を赤く染めた。

「私は大丈夫。だからあなたも大丈夫」

 先刻とは打ってかわってうつろな瞳を自分に向け、彼女は微笑む。そして、頬にその小さく白い手を寄せてきた。それをしっかりと掴んだ。初対面の全く知らない者だったが酷く胸が痛み、息苦しい。

「大丈夫なわけないよ!こんなに血が…」

「だいじょうぶ」

 彼女が口を開く度に血が溢れていく。

「こういう――だから…」

 懸命に口を開くが、血と息に紛れてしまう。

「何?よく、聞こえない…」

 それでも彼女は諦めない。

「せき……隻……せ、き……」

「!どうして俺の名前……」

 そう疑問に思っても彼女は同じ事を繰り返すばかりで、自分は手を握り支えることしかできなかった。

「泣か、い、で。せ、き。あな、た、は、……から――」

「解った!もう、解ったから、しゃべらないでっ!」

「せき……」

 頬に触れる手の温もりも、名を呼ぶ声もどんどん弱くなっていく。

「隻……」

「っ」

「せき……」

 どんどん弱くなっていく、

「隻っ!起きろーーーーーーーーっ!」

 はずだった。

「はいいいいいっ!」

 名を大声で呼ばれて慌てて飛び起きた。

無理矢理に体を持ち上げた為に血が上手く巡らず、頭がふわりと奇妙な感覚だ。

「やっと起きたな、せき

 飛び起きて、一番に目に入ったのは大声の主である大柄の亜麻色の短髪の男だった。空色の瞳にこの国の紋章が入った黒の一張羅を羽織り、肩防具をした剣士の男は彼-隻のよく見知った者だ。

「あ、あれ?花船かぶねがなんでここにいるの?」

 状況がつかめていないのか彼は周りをきょろきょろと見渡した。

 黒く太い鉄格子の通用口のわりに大きい門の先には美しい庭園が見える。門両脇には兵士が頑な顔をして門を守っている。手続き用の小窓から顔を出している人物は

こちらを見て苦笑をしていたりするのが少し不思議だった。確か、彼は先刻自分の入城許可の手続きを頼んだ人だ。朝が早いせいか通用口を通る者はまばらで、今は門番と小窓の者、そして目の前にいる花船と自分だけだった。そこまでして、やっと今自分が何処にいるかを少年は思いだした。

(メア城の裏門前…。しまった、仕事中だった)

 赤みがかった黒い髪をバツが悪そうに引っかき回し、はるばる自分の住む町-ホウロウがいから持ってきた荷物を大事に抱えて立ち上がった。硝子と鳥の羽で作られた髪飾りが揺れ、腰に提げた紅い鞘に収まった護身用の長剣がカシャリと音を立てる。

 上等の織物でくるまれたその長方形の荷物-中身は確か木箱だ-を見て、寝起きで冴えない頭がようやく動いてきたようだ。

「また夜通し歩いてきたのか?職業上仕方が無いとはいえ、無理して朝からうたた寝してちゃ意味無いぞ」 

 隻の仕事である「運び屋」は、迅速さと荷物の安全性が一番重視される。故に彼が時々夜通し、街を渡り、目的地へと急ぐことがあるのを花船は知っていた。

 それが責任感からくるものであることも知っている故、花船はあきれ顔だ。

「お前がなかなか起きないから、連中が困ってたぞ」

 彼が言うには城の中に入るための手続きの為に待っている数分も我慢できず、寝てしまったとの事だ。そして、死んだように眠って起きない隻をどうやって起こそうかと連中-苦笑いをしていた受付担当者や警備兵たち数人が思案をしていたところに通りかかった隻と親しい関係にある花船が、先刻の大声で起こしたと言う訳らしい。ちなみに、隻が起きる前に頬をひっぱったり、軽く叩いたと言うのは花船と共にいた警備兵たちだけの秘密だったりする。

「で、今日は陛下への届け物か?」

「領主様から。なるべく早く了承が必要なものだから、俺が頼まれたんだ」

「わかった。ちょうど良いから俺が目通りしてやるよ。俺もちょうど陛下んとこに行くところだったんだ」

 低く聞き取りやすい声を柔らかく響かせ、花船は二頭ほど低い位置にある隻の頭を撫でる。柔らかに整った髪がぐしゃぐしゃになるのもお構いなしだ。

「うん。よろしくお願いします」

 石榴石ガーネット色の瞳を向ける少年の笑顔はどこか中性的で朝日の陽光によく映えた。早くも通用門をくぐる花船の後を追いかけながら隻は先刻の夢のことが頭をふとよぎった。しかし、すでに内容の半分も思い出せないでいた。

(ただの夢だよな………)

 そっと振り返り、門から見た空は穏やかでここ北国・都市領王国メアの遅く短い春と早い初夏を告げていた。




 広大で手入れの行き届いた庭園を横切り、城の横手に隠れるようにある国務員用の入口に二人は入っていった。花船は「俺の庭」と言わんとばかりの顔で、その後を隻は荷物を大切に抱えどこか遠慮がちに追った。城壁の門と比べれば小さいがそれでも大きく開かれた扉の両側に立つ兵士が二人が通ると……否、花船に軍特有の挨拶をする。それに花船も丁寧に返す。隻も彼らに挨拶をすると、優しげに挨拶を返してくれるのが嬉しかった。

 赤煉瓦で構成された薄暗い廊下を行き交う人々と同じようなことを交わし、何度目の階段を上り、何度目の渡り廊下と廊下を通ると今までで最も大きなフロアへと出た。

 隻はこの天井が高く、美しい装飾のされた窓と神殿柱で作られた白磁のフロアを見るたびに自分の家がいくつ入るのだろうと思ってしまうのだった。花船曰く、ここは謁見の間と比べればまだまだ狭い方らしい。隻は謁見の間に一度も入ったことないので、全く想像もつかなかった。おそらく自分の家とお隣のボロ教会は余裕で入るのだろうと勝手な想像をしていたりする。

「口が開いているぞ~。涎がたれてるぞ~。そのまま行くと陛下がびっくりだな」

「へ?」

 フロアの美しさと広さに毎度のことながら見とれて呆けた顔をしている隻に

花船はフロアの先にある扉の前に立つと言った。からかうような面白がるような花船の言葉に隻は我に返り、あわてて口を手の甲で拭うが涎などたれてはいない。しばし自分の手を見て考える。

「……?」

「う・そ♪」

 そこでやっと彼にからかわれたことに気が付く。

「か~ぶ~ね~~!」

 非難の混じった視線を送る隻を無視して、くっくっと声をこらして笑いながら花船は大きな扉をノックをした。




 「確かに受け取ったよ」

 丁寧で柔らかい言葉と同時に彼は書類にサインをし、拳大の判を押した。

「ご苦労様。疲れただろう?」

 白銀しろがねは色素の薄い柔らかな髪の下から覗く碧玉の瞳を緩やかに優しく細め、隻に書類を返す。

 右目は大きな黒の眼帯で隠されておりその様子は判らなかった。おそらく左目と同じように笑っているのだろう。

「平気です。これも仕事ですから」

 隻は、書類を腰に付けた革製の鞄に丁寧にしまい込む。にへへと照れたような不思議な笑顔を受取人である彼ーメア領国国王、白銀に向けた。少年の様子を自分の書斎の席に座ったまま眺めていた白銀は「そうか」と穏やかな声で答える。

 大きな書斎机を隔てて立つ隻の後ろには花船が控えており、やたらと嬉しそうな顔をしていたりするのは隻がいる事が原因であるのを白銀はよく知っていた。

 自分も同じ心境であることを再確認する。

「だが、ホウロウ…君の家から首都まで歩いてくるのだろう?」

「三日ぐらいで着きますよ?」

 大したことは何も無いといった口調の隻に尚のこと白銀は心配してしまう。花船も同じ気持ちのようだ。一瞬にして表情が曇ったのを白銀は見逃さなかった。

 二人の心配を余所にさらりとかわす隻に白銀は内心で頭を抱えた。この少年は昔から自分の事より周り、たとえば、友人、家族、果ては仕事で関わる人々に何より気を配り、結果、自分の事は後回しにしてしまう傾向があった。

それが長所でも短所でもあるが、彼を心配する者からすれば短所でしかない。

(あいかわらずだな、この子は。なら)

 なら、彼が自分を後回しにしないよう、自分を壊してしまわないようにできるだけの配慮をしてやればいい。

「そうか、平気ならそれで良い。今日は泊まって行きなさい。花船、部屋の手配を」

「かしこまりました」

「え?いいですよ!白銀様!俺、もう、帰ります。花船もいいよ、そんな事しなくても」

 大方の予想はできていたが、予想通りの返答に、白銀は呆れつつも表情は硬いままだった。

「隻……。偶には私の言うことを聞いてくれないかい?出発するなら夜明けにしないと森に入るのが真夜中になってしまう。何かあったら、私は君の御両親に申しわけがたたない。花船にも叱られてしまう」

 ここ王都メアと隻が住むホウロウの間には巨大な“神隠れの森”と呼ばれる、樹海と言っても差し支えはない森があった。名の通り、「遙か昔、この大地を支配したといわれる神々が力衰え、隠れた」と古くから謂われる土地だ。森は年中薄暗く、針葉樹が天高くそびえ濃霧が漂う場所だった。無謀にもその森に入った者のほとんどが戻ってこないことでも有名だ。このメアで知らぬ者などいなかった。

 普通のメアの人間はこの森を避ける。

 人も獣も異邦のモノ魔物でさえも迷わし続ける“神隠れの森”は一歩でも入らなければ比較的安全なのだが、“普通の森”と“神隠れの森”が区別がつき難いため、年に何十人もの人間が“森”で行方不明になっている。それらの情報を立場上、よく知っている二人は気が気でないのだ。

 心配気に眉間を寄せる白銀。隻の後ろに立つ花船も似たような表情だった。そんな板挟みな状態に、隻は居心地の悪さを感じながらも、なおもさがらない。家に一人残した母も心配であるし、あまり自分のために白銀や花船の手を煩わせたくもなかった。二人がいつでも変わらず自分に接してくれるのは嬉しいことだ。

「でも……」

 公務の方がずっと大事であるし、多忙のはずだ。

「…………」

 遠慮というよりは恐縮している様子の彼に白銀は少し悲しげな表情をする。

「隻、偶には陛下の仰有ることも聞けよ」

 気まずい雰囲気が流れる中、次に口を開いたのは花船だ。彼は隻の少年らしい細い肩に大きな手を乗せると言った。

「陛下は心配なんだぞ?大切な親友の息子のお前の事が…。俺だって心配なんだ。

可愛い甥っ子がどんなに安全だって言っても“あの森”を通って行くのを考えると気が気でないんだ。わかるだろ?」

 まるで、小さな子に言い聞かせるような口調の花船に隻はうつむいてしまった。

「うん」

「たまには伯父さんたちの言うことを聞くんだ。お前が心配してるのは花南かなんさんと遊月ゆづきのことだろうが、花南さんがここにいたら、きっと陛下と同じ事を言うさ。ね? 陛下」

 不意に事を振られ彼の主人は慌てたように「ああ」と相槌を打った。それでも穏やかな笑顔を忘れないところが陛下らしいなと隻は思い、小さく口の両端をつり上げた。隻の様子を目敏く確認した花船はにかっと笑みを浮かべると隻の両肩を叩く。甥がよろめくのもお構いなしだ。

「よしっ!!決定!陛下、隻が逃げないよう、見張っていてください。私は部屋と夕食の手配してきます。いいか、これは伯父さん命令だぞ!俺が戻ってくるまで陛下といること!あ、昼飯は俺と一緒に城下町で食おうな!」

「う、は、は~い」

 了承が後か先か、書斎室を出ていってしまった花船を後目に隻はやや困り顔だが、

花船の明るさに押されて、先刻よりも表情が軟らかく普段の笑顔が戻ったようだ。

どたんばたんと落ち着きの無い足音が遠ざかるのを聞き、半ばおもしろがるように感心したように言う。

「隻もおもしろい伯父上をもったもんだな」

「白銀様、おもしろがってません?」

「ふふ、当然だよ」

 その言葉を聞いて隻は心底あきらめたように項垂れた。そして、疑問に思う。

(白銀様といい、花船伯父さんといい、どうして父さんの周囲の人ってこう変わった人が多いのだろう……)

 矛先は随分と会っていない父親へと向いたりするのだった。

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