Episode:06

 これまでにないやる気と、目標を定めた俺はもう何も振り返る必要がなかった。屋敷を出るために俺はすぐさま職を探した。雇用は水蓮の方が割がいい。夢ができたことは、俺にとって生きがいができたようなものだ。

 雨花には、すぐに伝えた。

「俺と一緒に、屋敷を出よう雨花」

 口にした時の雨花は、俺がまたくだらない戯言を言っているとでも思ったのだろう、頭を振って笑って流した。しかし翌日からアカデミアへ通う様子もなく少し遅い時間に屋敷を出て、夕方前に戻る俺の生活に疑問を抱くのにもそう時間はかからなかった。

「あなた、一体どういうつもりなの」

「だから言っただろ、屋敷を出るんだ。すぐさまとは行かないだろうけど、俺は絶対ここを出て雨花をしあわせにしてみせる」

「……学生の本分を忘れないでちょうだい。それが何よりの、わたしのしあわせよ」

 呆れた様子を隠さない雨花は、まだ俺が退学という選択を取ったことに気づかない。どうせいずれわかる、そう思った俺は敢えて話さなかった。

 退学届にサインをして半月。ウリンソンからの連絡は来た。電話を取った雨花が、神妙な面持ちで俺に受話器を譲った。

「アカデミアを自主退学したそうだね」

 耳へ押し当てた受話器からは、感情の読み難い抑揚を抑えた声が聞こえた。俺は一度、息を深く吸って吐く。それから言葉にした。

「もう、あなたの援助は必要ありません。俺が、必要ないと言うんです。あなたの援助を受けたくない。どのみちウリンソンの血筋とは呼べないのだから、屋敷を出ます。――雨花と」

 こうして連絡が来るだろうことは予想できたことだった。予め何度も考えた言葉は、少し淡白すぎたかも知れないが、気にしなかった。

 受話器の向こうで溜息が聞こえたような気がする。

「先日うちへ正式な書類が回って来た。間が悪くわたしが留守をしている間のことで、親族の方にも話が回ってしまって事態が余計に複雑になってしまった。……先に言わせて欲しい。君を傷つけるつもりなどない。父親としてできるだけのことをしたいと思っているんだ」

「ですから、それはもう必要ない」

「聞いて欲しい。……親族会議にまで事が及んだ。君が望むと、望まざると関わらずに、今後の援助が難しくなるだろう。だから……」

 矢継ぎ早、俺の言葉を遮る声は図らずも苦々しい。わずかに駆け上る罪悪感に苛立って、俺は足を組み替えた。

「願ったり叶ったりだ、アンタは本妻とその家族を大事にするんだな」

「……君には、申し訳ないことをした」

 絞り出すような声は真摯としか言いようがない。聞いているのが辛くなった俺は電話を一方的に置いた。

 胸のむかつきがひどい。こちとら、縁が切れて清々すると心の底から思っているのに。

 ……これじゃあまるで。

 俺は頭を振った。考えるのは今は止した方がいい。何もかも考えるのはこの屋敷を出て、あの男と正式に縁が切れた後の方がいい。本能的に、そう感じた。でなきゃ動けなくなる。意地とプライドだけがそこにはあった。

 雨花が電話を切ったのを見越してやって来る。

「あなた、どこまで正気なの」

 本当にわからないといった風で、眼を合わせる。怒りはない。

「……やっと自由になれる。雨花は、鳥かごの中で死んでゆくのが幸せだと思うの? 俺は、そうは思わない」

「初めからあなたは自由よ。今までだってそうだったはずでしょう。………もう、何を言っても無駄なのね」

「わかってるならいい」

 諦めきった表情で雨花は項垂れた。予想できたことだけど、やっぱり喜びはしない。そんなことに少しだけ挫けた俺は、次の瞬間、雨花に抱き留められて驚きのあまり息を詰めた。意識的に、深く息をすれば、鼻腔をくすぐるように百合の香が届く。

 背中をやさしく撫ぜる雨花の顔を見られなかった。

「あなたの考えがわからない。わからないけれど……」

「雨花」

「無茶はしないと約束して。助けが必要な時は、わたしを頼りなさい」

 胸が軋んだ。咄嗟に、彼女の胸を押し返す。拒絶されて狼狽する雨花の表情を見て、俺は首を傾いだ。紅い、唇を吸って離す。

「母親役なんて要らないよ」

「まだそんなことを……」

「あまり、俺を馬鹿にしないで雨花。子ども扱いはもう充分だって言ってる」

 力が抜けたように床へへたる雨花の表情は、読めない。色々彼女には彼女の複雑さがあるらしい。いつものような単純さじゃあなかった。

 だけど俺には関係ない。唇で笑って見せて、屋敷を出た。

 職探しは想像より手こずることになった。水蓮市の歓楽街で働くには年齢が邪魔をする。成人まで後一年待てよと追い返される。下手な嘘は通らない。しかし、年齢を満たせる職業の稼ぎは知れていた。

 空振り続けて五日、屋敷に書簡が届いた。ウリンソン家の紋で封蝋がしてあった。中には、離縁の手続きを正式に踏んだ証明証書、ウリンソンからの数枚に渡る手書きの手紙、そしてユーリィ・ヘンゼルの名前で書かれた銀行の小切手が入っていた。手紙を読むにあたり、マリアが生前に妓楼で稼いだ金だと書かれていた。離縁後は、ヘンゼル姓を名乗るようにともあった。

「……雨花、これお願いしてもいいかな」

 金の扱いについては、俺は一度も関わり合ったことがなかった。恐らくは、マリアの生前からずっと、雨花がひとりで管理してきたのだと思う。俺の手から手紙を受け取った雨花は目を走らせて、それから小さく息を吐いた。

「マリアから、あなた名義で口座を預かっているの。この際だから今後、あなたが自分で管理できるようにすべて、教えておいた方がいいわね」

 マリアの部屋に、と先導された。生前と変わらないまま保たれた部屋、鏡台の引き出しから絹のスカーフに包まれた台帳が出てくる。

 大事に包まれた、町銀行の口座台帳。それは資産、と呼べるほどの額を預けているという証拠でもある。俺は思わず息を飲んだ。

「……手紙には妓楼でのお給金とあるけれど、それはないわ。ここにあるあなた名義の口座がすべて。わかるでしょう、あの人はそういう人なの。あなたに負い目を追わせたくなくて、だけどあなたに疎まれていることにも気づいている。わたしが話さなければこの小切手の出所を知ることもないことをすべてわかった上でそういうことをするのよ」

 どこまでも馬鹿な男だな、というのが俺の実直な感想だった。雨花はその行為にも家族としての親愛を見出しているんだろうが、俺にとってはそれだけあの男が自分のしたことに罪を感じていて、その許しを乞うているようにしか感じられなかった。

 本当に親愛を感じるのならば、あの男が本妻を娶り、その子どもを持つ必要なんてなかったはずだ、と。

 俺は、雨花の手から小切手を取返して縦に割いた。躊躇しない。

 びりりと空間をも割くような音に、雨花が血相を変えたがすでに止められないとわかっていたからだろうか、両手で口元を抑えて様子を見守っていた。

「どうせ紙切れだ、構わないだろ。援助は受けないって言ったんだ。そこまで俺のことをわかっているのなら、こうなることも承知の上だろう」

 部屋の隅の藤のくずかごへ紙片を放って、俺は雨花に向き直る。

「……屋敷を出て、俺が定職に就いたら。どのぐらい掛かるかわからないけれどその時は雨花、俺と結婚してくれないか」

 正直な話、こんな言葉は予定になかった。ちゃんと条件を満たしたその上で求婚しようと思っていたはずだった。だけど、この場で俺を子ども扱いし続ける彼女を前にして、言わずにはおられなくなっていた。ひとり前のひとりの男として見て欲しかった。

 雨花は狼狽えて真紅を揺らす。まともには目を合わせられずに、眉を顰めたまま沈黙を守る。彼女の悪い癖だ、と俺は思う。焦れた俺は構わずに言葉を紡いだ。

「今はまだそのままだっていい。俺も、そう簡単にここを出て暮らして行けるとは思ってない。時間が掛かってもいい、俺をちゃんと見て。ちゃんと俺と向き合ってくれよ雨花」

 雨花が俯くまま、沈黙は流れる。

 埒が明かずに俺は腕の時計を見た。十八時。水蓮市街の一角、酒場の面接時刻が迫っている。もう一度雨花を一瞥してから、俺は部屋を出た。彼女の表情からその思いを読むのは困難だった。

 一刻も早く屋敷を出て、雨花とふたり、新しい生活を始めたい。そうして初めて、雨花は俺を男として見ることができるようになるのだろう、そう考えていた。

 ラバトリーの鏡の前で、シャツの襟を整えて髪を櫛で梳いていて、ふと鏡の中の男と目が合う。情念のこもる碧眼は暗く、打ち震えるような怒りを灯す。とても人に会う顔じゃない。ましてや、自分を売り込む場には相応しくないだろう。シンクの蛇口を捻って、凍てる水で顔を無造作に洗い流した。

 眸にかかる前髪を掻き上げたところで、ふと思い立ち鏡の男へ微笑いかけてみる。少しはまともに映るか。

『……君には、申し訳ないことをした』

 声にはっとして、俺は辺りを見回したが当然、誰もいない。幻聴だ。再び鏡を覗いてみて幻聴のわけを理解した。そこに映るのは、あの男の面影が色濃い姿。沸き立つのは怒りのような、悲しみのような、諦めのような。胸を重く占める感情は一言では表せない。

 俺はあの男を、アラン・ウリンソンを誰より憎んでいる自信がある。それでも、この鏡に映る姿はあの男の血を確実に受け継いでいる。今更ながらに強く突きつけられた気がした。

「そうか」

 濡れた顔をタオルで拭き上げ、ひとつの結論が俺の中に生まれる。前髪を整えて、鏡の向こうの男を見据えた。

「雨花はやっぱり、俺の中にあの男を見ることができるんだ。……代わりになるなんてお断りだったけど、あるいは上書くことだってできるはずだ」

 胡乱な眸の奥に暗い感情を秘める男の顔はもうそこにはない。野心を灯す、ぎらついた眸の男がいるだけだ。よし、と呟いて俺はラバトリーを出、外套を羽織って屋敷を後にした。今の俺には、雨花を如何に腕に抱くか、それだけが重要だった。

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