Episode:05


 あの男を大人の態度でやり過ごしたことには、雨花も満足してくれたようだった。別段褒めることはしなかったけれどホッとした、と心の内を零した。

 ウリンソンは夜を越さず、屋敷を去った。

 翌朝、起き抜けの廊下で雨花の後ろ姿を見た俺は彼女の後をつけ、一階のラバトリーに入るところへ押し入った。「お願い」を満たす好機だと踏んでいた。

 大理石の台の上へ上体を組み敷く。

「子どもの頃からやってることが変わらないわよ、……尤も、質の悪さは酷くなっているみたいだけれど」

「なんだよ、もう少し反応があったっていいじゃないか」

「つまらないんだからやめなさい、って言ってるのよ」

 やさしく諭すような声色。

 思えば、彼女の言った通り子どもの頃からそういうことがあった。勢いよく抱き着いて、そう、大概俺は決まってふてくされていたんだ。

「つまらないわけないだろ。昨日のお願いの代償、払ってもらうんだ。忘れたなんて言うなよ?」

 落ち着き払った態度の雨花は多分逃げる気なんてない。俺は、改めてその両腕を掬うように正面から彼女を抱き締めた。

「……ここで?」

「うん、ここで」

 雨花は静かに息を吐き出す。

「わかったわ、……そこへ座って」

 雨花の対面の台の上へ、言われるままに俺は腰を下ろした。膝をついた雨花が俺の太ももへ手を這わせる。抱かれるつもりはないってことか、即座に理解した俺はあからさまに肩を落としてしまう。お構いなしの彼女が掌に包み込む刀身には、力が入らない。

 それでも中断する様子はなかった。嫌ならそこで理由をつけて放り出せばいいのに、とは口にしない。残念さ半分、布越しから直に触れる頃には段々と興奮してくる自分に少し自虐的に笑った。考えようによってはこんな積極的な雨花、そうそう見られたものじゃない。言い聞かせるうちその気になってくる。

「……何を笑ってるの」

 笑みの呼気に気づいた彼女は上目に見上げる。半眼気味の紅。その眸の色合いが融けるようなまろみを帯びて感じるのは気のせいなのか、艶めいて見えた。

「興奮してきた」

「すぐに終わらせるわ」

「……ケチ」

 そこはゆっくりたっぷり丁寧に。言いかけて俺は口を開くどころか、唇を噛み締める羽目になった。

 玄人のなせる業か、はたまた俺がヤワなのか。ものの見事に時間を取らせずにあっさり彼女の手の中で果てた。悪くないが、妙にもどかしい。

 ぐったりとひとり放心する俺を置いて、雨花はシンクへ置かれた香水を辺りへ撒いてさっさとラバトリーを出て行った。ムスクの匂いが辺りを漂って、気怠さに拍車をかける気分だった。

 リベンジを誓った俺はその後三戦三敗を重ね、我慢の限界を迎えそうだ。一度知った味は忘れるはずもない。初めのような手荒な真似はしたくなかったが、もはやそれしか叶わないのではという気がしていた。

「なんで抱かせてくんないの」

「当然でしょうあんなこと、そうでなくたって進行形でわたしはマリアとあの人を裏切っているというのに」

「……だから今更なんだろ。自分に言い訳するために『このぐらい』って言ってるだけ。やってることは同じなのにさあ」

「……あなたはそれで平気なんでしょうけれど。わたしはそうではないわ、そんなに強くない。……そんな自信もない」

 疲れ切ったように首を振り、雨花が顔を曇らせたとき、俺にはその言葉の意味が半分もわからなかった。

 強いからできることなのか、自信があればできることなのか。彼女の中で何かがせめぎ合っている等とはつゆほども思わなかった。頭の中で反芻したけれどわからず、ただ、今はそれ以上彼女に追い打ちをかけるのは酷だということだけを理解した。

 夏の終わり、俺の停学処分は解け、何事もなかったように俺はアカデミアへ戻ったが規則に大幅な変更があり、それまでの寄宿生活は大幅に変わることになった。

 一学年と通学に難のある学徒を除き、すべての学徒の寄宿を中止したのだ。これは殆どの学徒にとって朗報だった。窮屈と退屈を極めた牢獄生活からおさらばできるのだ。頭の端でもしや自分は解放されないのでは、なんて不安があったが、問題はなかった。

 これによって生活は一変した。通学分を念頭に置いて以前より早く目を覚ます必要があったが、朝に弱い俺は度々雨花に叩き起こされ、朝食を抜いて出ることも少なくなかった。以前は同室のニカに頼り切っていて、宿舎から教室棟の近さもあってそこで問題が生じることはなかったのだ。

 が、甘える相手が変わるだけのことだった。面倒見のいい雨花はニカと同じで、俺がぐずぐずしている間に手を焼いてしまう。結果的に、ひと月経つ頃には前と変わりない生活に戻っていた。

 彼女との生活は、ニカとのそれよりずっと刺激的だったけれど。

「ユーリィ、あなた今までそれでよく生活できていたわね。もう少しちゃんとなさいな」

「ニカや雨花が優秀だから仕方ない。……今日の夜の献立は?」

「鹿肉のシチュー。方針が変わったおかげでわたしにも学校生活の様子が見えるのはいいことだけれど、余計に心配が増えたわ。停学で済んでよかったわね」

 雨花の小言が増えたのはいただけなかったが、俺にとってこの些細な会話のひとつひとつはとても重要だった。

「新婚会話を楽しもうと思ったのに、無粋だよ雨花。俺、雨花がご褒美くれるんなら簡単に成績上げられるぜ」

「そういう科白は……、もうその手は食わないわよ」

 俺の仕掛けるトラップを見抜いた雨花は少しばかり得意げを覗かせる。この頃は口癖の「お願い」もしなくなっていよいよ、俺は持て余していた。

 俺にとってあの檻を抜けた今、雨花との暮らしは甘い暮らし、新婚生活を思わせた。接触の機会が多い分だけ夢を見たくもなる。

 休日は雨花を手伝ってふたりで街まで買い出しに出る。早熟だった子どもの俺には充分すぎるほど、刺激的だった。その盛り上がりに反して頑なに俺を子ども扱いする雨花の態度は、大人の模範的な反応だったんだろう。

 街中、意地張って彼女の手を取って指を絡めたり。起き抜けに抱き締めて一人前に張り合うのに必死になった。

 過ごす時間が長いということは、会話が増えるということだ。母・マリアが語らなかった紅眼の妓楼についても雨花は話してくれた。妓楼と呼ばれた洋館の屋敷では紅眼の女娼が酒と舞踏を振舞ったそうだ。マリアがその中で指折りの人気を誇り、竪琴奏者としての技量もあって竪琴姫と呼ばれていたこと。見習いの下働きだった雨花がマリアの付人として彼女の世話を担っていたこと。

「わたしもピヤノの伴奏で共演させてもらったものよ。見習いが舞台へ上がるのは年に一度あればいいぐらい。演目の日だけ、特別にドレスを着ることが出来たの。マリアは自分の衣装を喜んで貸し出してくれたわ」

 マリアは生前、妓楼について語ることはなかったように思う。俺は自分が経験した紅眼の売春宿のせいもあって、紅眼の娼と聞くと下世話な想像しかしなかった。雨花の語る話はそんな俺の浅い知恵を正してくれた。思春期の俺に語らない部分もあっただろうが、それでも雨花が思い馳せて語る様子に、その郷愁に満ちた表情に、紅眼の娼への印象は塗り替わった。

「弾いてよ、ピヤノ。俺も雨花のピヤノが聴きたい」

 二階の踊り場には、使われた形跡のないグランドピヤノが置いてある。宝の持ち腐れのひとつだ。マリアが弾いている姿をかつては何度か見たものの、雨花が弾く姿は一度も覚えがない。

 雨花が困ったように微笑った。

「……旦那さまと同じこと言うのね」

 あの男も同じように強請ったらしい。以前の俺ならばやっぱり止めた、なんて張り合ったところだが、この頃はそんな自分が少し馬鹿らしくなっていた。彼女といる時間が増えたことでわずかでも優越感を得ていたから。

 ピヤノの前に座った雨花が髪を耳に掛け、鍵盤蓋を上げる。

 ポロン。和音が静かに響いた。

「調律、してたんだ。もう誰も弾いてないと思ったのに」

 よく磨かれた黒い艶をなぞりながら、俺は思い当たる。きっと雨花はここで、あの男のためにピヤノを弾いていたんだろう。

「あなたが寄宿舎にいる時は、よく弾いていたのよ。誰もいないから、気兼ねなく弾けるでしょう?」

「………アイツの好きだった曲でいいから、弾いて」

 俺の言葉に雨花が驚いて目を瞬く。どうして、と訴えるその先のニュアンスまでは読めない。あの男に動じない優越感を確かめたい、それが俺の本心だった。

 やがて雨花は、ゆっくりと鍵盤を撫でるように弾きはじめる。なるほど、久々だろうとはいえ、数か月前までは定期的に弾いていたことを感じられる指捌きが紡ぐ音の波は心地いい。俺はしばらく耳を傾けた。

 音数が減り、三拍の間の後今度は曲調ががらりと変わる。そうして雨花は音に乗せて唇を開いた。ピヤノは民族調を奏でて雨花の柔らかな歌声に寄り添うように響く。

 初めて聴く歌声だった。


【海越える大地の

 花降る街 ふるさとよ

 血を分けたあなたの 血を分けたふたりの

 変わらぬ愛を祈って 変わらぬ紅を祈って

 はらからの唄は風に乗って海を越える

 花降る街よ 水蓮よ】


 不思議な感覚だった。遠い昔から知っていたような感覚。自分の中にも流れる、ロゼリアの血がそれを知らしめるような。

 曲が途絶えても、俺はその感情の名を探して、立ち尽くした。

「……あなたの子守歌よ。覚えているか、わからないけれど」

「ロゼリアの歌?」

「そうね。だけどこの歌は、この国で生まれて、この国を発ったロゼリアの歌。わたしたち妓楼で働く女たちはそうして、いつか本当のふるさとを訪れる夢を抱いて、日々を過ごしてきた。……希望の歌ね」

 語る雨花は、肩を竦めて微笑う。つまり、希望は叶わない、そういうことなんだろうと俺は解釈した。妓楼で働く娼は自由に外を歩けなかったのではないだろうか。掘り下げた話題を口にすることに罪悪感を覚え、俺は口を噤む代わり、そっと彼女の肩を抱いて、その旋毛へ唇を落とす。

 その時だけは雨花も、いつものように流したりはしなかった。腕に手を添えて、止まったように緩やかな時間を過ごした。

 彼女にとっての人生とは何だろう。妓楼で一生を終えたかも知れなかった彼女は、マリアの付人としてこの屋敷で暮らせることを心から感謝している。

 しかし、これは本当に自由と呼べるのか?

「ピヤノ、教えてよ雨花。……アカデミアで役に立つ」

 彼女は今、何をもって幸せを測るのだろうか。こんな手狭な屋敷で他人の子どもとの暮らしに、何を見出しているんだろう。俺の頭では計り知れない。齢三十ともなれば、自分の子を腕に抱くことも当たり前なのが女の人生とされたろうに。俺は唇を噛んだ。

 それでも俺にとって、雨花はかけがえのない存在だ。だから、彼女の人生には意味があるのだと、俺は自分勝手にも思い込もうとしていた。

 それは俺が雨花に価値を与えるだとか、そこまで高慢な考えじゃない。ただ、俺にとって大事なのだと思うことで、彼女の抱えるかも知れない思惑から逃げていた。

 ピヤノのレッスンは一日一時間。雨花も快く受けてくれ、俺は柄にもなく真剣になった。

 アカデミアでは年に一度、春先に保護者向けの懇親会が開かれる。それは、アカデミア側の教育実績を示す格好の場としてあり、学徒たる俺たちは毎年貴族の大人たちのために、彼等の好むものを披露した。詩のコンテスト、絵画展、演奏会、舞踏。多忙のおかげか、保護者間での立場か今までにウリンソンが顔を出したことは一度もなかった。

 血統主義の貴族の子息たちはここぞと息巻いて練習に励む。今年度の催しは演奏会。各学年から一割、選び抜かれた優秀な学徒による演奏という触れ込みで、音楽科の考査が始まっていた。

 目立つつもりは端からなかった。ただ、雨花を思って重ねた練習を、そこで活かしてみたいと初めて前向きに取り組んだ。音楽科の担当教師が学年主任へ推薦を出したことを知ったのは、再び学長室への呼び出しを受けた後のことだった。

 簡潔にまとめると、ソロ・ピヤノ奏者としての推薦枠を譲り渡して欲しいということだった。推薦を受けたことを初めて知った俺は、元よりそんなつもりもなく、そのまま快諾するつもりで口を開こうとした。

「――君には大きな貸しがある。退学処分を退けたんだ、このぐらいのことは快諾してもらわねば困る」

 聞き捨てならない科白をしゃあしゃあと吐かれて、言葉が詰まった。

「……停学は受けましたが」

「わたしはアカデミアを出て行ってもらいたかったんだがね。子ども思いのつもりか知らんが、妾腹の子にそこまで目を掛けようとはな。処罰を甘くする他なかったのだよ」

 にやついた笑みを浮かべて席へふんぞり返る姿は反吐が出る。直接言葉にはしないが、あのやり取りの中で停学に押し留めるための交渉が持たれていたのは間違いないだろう。俺は反射的に口を開いていた。

「なら、今ここで自主退学しますよ。アンタみたいな大人の下で学ぶつもりなんて俺にはない。これでウリンソンにも申し訳が立つだろ、俺が自分の意志でここを出て行くんだ。誰にも、指図なんてさせない」

 ピヤノのことなんてもうどうだってよかった。チャンスだとさえ思った。ウリンソンとの縁を切ろう。雨花を連れて屋敷を出よう。俺は、自由になるんだ。光が差したようにさえ感じた。絶望なんてない、あるのは怒りと、歓喜だ。

 学長はいよいよ喜色を浮かべて笑い、一枚の紙を取り出してペンを差し出した。退学届だ。ウリンソンの名で署名した俺は、ペンを投げ捨てて部屋を出た。門扉でニカが待っているはずだった。

 深々と降り積もる花雪の中、ニカが鞄を傘代わりに待つ姿が見える。

 その背中に雪玉を投げた。振り返る。

「遅い。……なんだった?」

「ニカ、俺アカデミア辞める」

 俺はすべてから解放される期待に、笑みを隠せなかった。心の底から笑いが込み上げそうだった。ニカは眉を寄せて黙る。俺は歩み寄りながら、簡潔に言葉を紡ぐ。

「退学処分だったんだとさ、俺」

「………冗談のつもりかよ、笑えない」

「笑えよ、俺はようやく自由になれるんだ。好きで通ってない」

 高揚感に溢れた俺は身振り手振りでそれを伝えるけれど、ニカは訝しげに首を横に振っただけだった。

「マティスは推薦してくれただろ、ピヤノ・ソロ」

「知ってたのか、俺はついさっき初めて聞いた」

「ユーリィのピヤノ・ソロが叶ったら、みんなの鼻が明かせると思ったのに」

 その場に屈み込むニカは、そのまま瞬きをしないで空を見上げている。

 音楽科の教師・マティスとニカの不道徳な関係は噂に聞いたことがあった。けれど、俺にとってそのゴシップは役に立たない。何より、ニカに立つ噂はひとりに始まったものじゃあなかった。氷山の一角だ。

「お前、まさか俺を売り込んだのか」

 訊ねると、ニカはようやくと瞬いて赤い鼻を啜った。

「……ダメだった?」

「選ばれるなんておかしいと思ったんだよ」

「ちがう、だけどマティスも褒めてた。オレはほんの少し後押ししただけさ。売名なんかじゃない」

「初めから主役は決まってた、か。別にどっちだっていい」

 必死に頭を振るニカは俺の退学の理由を取り違えているんだろう。投げやりの返答を聞いて、血相を変えて俺の手を握った。

「ニカ、お前のせいじゃない。俺が自分から辞めてやっただけだ、もう懲り懲りだったんだよ。ウリンソンの世話になるのは」

「なんでだよ、マジメに練習してたくせに」

 ニカの言葉尻が震える。大きな眸からぼろりと涙がこぼれる前に、俺はニカの防寒帽の鍔を引き下ろした。その下で嗚咽が漏れ聞こえる。

「ピヤノは雨花のためだ。……ニカ、俺水蓮を出るぜ。雨花と一緒に下町で暮らす。いいだろ、俺は今最高に気分がいいよ」

 はったりなんかじゃない。心の底からそう思えた。

 肩を震わせてしゃくり上げるニカの、俺の手を握る手がゆっくりと滑り落ちて行く。湿っぽいことを好まない俺はどう声をかけたものかわからず、降り止まない花雪がひとつ、またひとつと地面の白に融けて積もるのを眺め、座り込んだニカが落ち着くのを待った。

「ユーリィの、大馬鹿野郎、不孝者ッ……」

 どのぐらい時間が経ったんだろう、多分それほど長くはなかった。突然すっくと立ち上がったニカはすっかり赤くなった眼で俺を睨み据えると、そんな言葉を吐き捨てた。

「元気でやれよ、ありがとな、ニカ」

 外套のポケットで温めた手を握手に差し出した俺は、本当に感謝を伝えたかった。短いようで長かったこの生活で、雨花に次いでニカとは長く時間を過ごした。最後ぐらい、ちゃんと挨拶がしたかった。

 だが、ニカが差し出す手を取ることはなかった。苦虫を潰したように眉を寄せたまま、背を向けて歩き去る。

 一度も振り返らない。

 俺は、行き場を失くした右手を眺めて、またポケットへと戻した。

 多分きっと、この街を出たら会うことなんてもうないんだろう。惜しさはあったけど、まあいいか、そうして頭を切り替えるのにさほど時間を要しなかった。感傷にあまり浸らなかった俺は、冷たいのかもしれない。

 アカデミアに背を向けて帰路に就く足取りは軽かった。


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