Episode:03


 マリアの死後、雨花は俺に対して母親意識が年々増して行った。こんな悪童じゃあそれも仕方がなかったのかも知れないが。停学処分の連絡は屋敷にも書面で伝えられ、家に戻った俺は涙を浮かべた彼女にこんこんと叱られた。黒橡色の長くきれいな髪を振り乱す姿には淡く、罪悪感を覚えた。

「お願いだから、マリアを悲しませるような真似はしないで。わたしだってつらいわ、こんなこと。約束したのよ、マリアの代わりにあなたをきっと立派に育ててみせるって。気に食わないことがあるのなら、洗いざらいすべて話してちょうだい。何もわからずにあなたを責めるようなことはしたくないわ……」

 いつかのように雨花は膝をついて俺の肩を抱く。その身体は微かに震えて、嗚咽を殺しているのがよくわかった。雨花を悲しませたかった訳じゃない。だけど、じゃあ何のためにそんなことをしたのかと訊かれたら答えようがなかった。行動に理由が追い付かないのは、若さの特徴なのかも知れない。そう思えるのは、大人になってこそなんだろう。

 俺の誤りは続く。より滑稽に、より深く。

「雨花が相手してくれるなら、考える」

 突拍子のない言葉は冗談のように唇からぽろりとこぼれた。音だけは、無垢に響く。悪意のない悪意に近い。

 雨花は真紅の眸を見開いて、抱いていた身体を離す。真意を測るように俺の目を覗き込む表情は、空耳を願うように眉を寄せている。

「雨花が怒るのはマリアのため? あいつのためなんじゃないの。俺が言わなきゃ、この後雨花の口から飛び出すのは十中八九あいつのことだと思ったよ。どんなに気を割いてるか、どんなに慮ってるか。……そんな科白、俺が聞いてはいそうですねって納得すると思う?」

「………ユーリィ」

「大方、俺がいない間ふたりよろしくやってたんじゃないの。まともに顔合わせることもない奴に父親気取りされて堪るかよ。俺から見りゃ、あんたもあいつもただの男と女だ」

「やめて」

 言いたい放題な俺はとても得意げな顔をしていたと思う。相手の懐の、柔らかい部分に踏み込んで針でいたぶったような心地がして、妙に高揚した気分でいた。

 ぴしゃりと制止した雨花の言葉はいつになく強い。

「あの人への侮辱だけは許さないわ、例えその血を分けたあなたでも。あなたの思う通り、わたしはあの人に恩義以上の感情があったかも知れない。だけど、マリアを平然と裏切れるほど、女として生きているつもりもないわ。……言っても信じないでしょうけれど」

 静かに沸き立つような怒りを雨花は眸で悟らせる。ちら、ちらとその眸の奥に揺らぐ焔が見えたような気がした。ゆっくりと滑らせるように俺の肩から手を下ろし、立ち上がる。

「思春期の男の子の扱い方はわたしにはわからない。でも、これだけは知っておいて。わたしやマリアのようなロゼリアはあなたの年頃ですでに客を取るのが当たり前だった。そんなわたしたちが本当に心から人を愛したりできたと思う? 普通の暮らしにどれだけ憧れたかわかって? マリアのように身請けていただくなんて本当に稀なことだった。わたしはあなたが羨ましくあるし、妬ましく思うこともあるのよ」

「……雨花」

「もうこの話は止めましょう。何があったのか、学長さまからは異性不純行為の率先で風紀を乱したとしか聞いていないけれど、……聞きたくなくなったわ。卒業まであと二年、お願いだから大人しくしていてちょうだい」

 疲弊か、呆れたか、いや両方だったのか。眸をそらした雨花は冷たく淡、と言い放って屋敷の二階の自室へと上がって行った。  

 馬鹿な俺は、脳裏に描いた都合のいい妄想とこの現実の温度差に打ちのめされたような気分。

 ともあれ、夏休みを合わせてふた月の休暇がある間はまた羽根を伸ばしていられる。雨花の言葉のその後でさえそんな軽薄さを持ち合わせていた。

 屋敷は、いやに広い浴室と寝室、温室に東屋という構造で成り立っていた。それは、まさしく妾の別宅と呼ぶに相応しい。俺が鳥かごと呼ぶ所以だった。

 気分転換にたっぷりと時間を使って湯浴みした俺は、絹の詰襟シャツに袖を通してリビングへ戻る。マリアがいた頃は雨花がマリアに付き添っていたため、別に侍従を雇っていたが、彼女亡き今は炊事清掃、雑用に至るまでを雨花ひとりで賄っていた。リビングの長卓には熟れごろの果実が銀皿へ盛られている。房成りの紫水晶の珠のような実を手慰みにもいで、口に運びながら久しく訪れなかったマリアの部屋の扉を開けた。

 ふわりと香が薫る。彼女が好んだ、木蓮の花の香だった。

「雨花も、マリアが恋しくなることがあるんだ?」

 先客の背中を見止めて声をかける。綺麗に整えられたままの寝台へひざまずいて頭を伏せていた雨花は、扉の音でなくその声で初めて俺に気づいたようだった。はっ、と頭を上げるその表情は反応に困惑していた。

「ええ……そんなこともあるわ」

「そうしていると、まるで懺悔しているみたいだね」

 戯れに投げる言葉に雨花の眉が寄って、その眦に涙が浮かぶ。

「そんな棘のある言い方しないで。……あなたの気に障るなら、わたしは傍にいない方がいいのかしら」

「雨花が俺から逃げたがってるんでしょ、俺は出て行けなんて言ってない。誤解しないでよ、俺はただ雨花がそうやって眉を寄せてるのを見るのが好きなだけ」

「………もっと悪趣味じゃない」

 項垂れた雨花の憂う表情が、特に好きだった。湿度が纏うようなそれにやけにそそられる。少しだけ赤みが差したように見えた頬に俺は指を伸ばして、眦にかけて指を添わせて涙を拭った。必然的に屈み込んで、距離は近くなる。

「こうやって女の子を泣かせては楽しんでいたのね」

「人聞きが悪いよ、俺は何もしてない。今回の停学は単なるとばっちりだ。紅眼の子どもがあんなお貴族だらけの場所でうまく立ち回るの、大変だろうって想像つかない?」

 部分的な嘘。

 かといって引き金を引いたのは俺じゃあないからしゃあしゃあと言ってのける。孕ませる奴が悪いんだとばかりに。

 雨花が、大げさに溜息を吐いた。

「学績が落ちたせいでしょう、目を付けられるのは。皮肉なものね、あなたは純粋なロゼリアじゃないのに同じように負い目にしていたなんて」

「そういう場所なんだよ、貴族社会は」

 ガキの背伸びだったけれど雨花はそれが真理でもあるからなのか、困ったように微笑うだけだ。

「可愛げがないんだから」

「嫌い?」

 言葉の代わりか、雨花の腕がそっと俺の背を抱いた。さらりと流れる黒髪から、いつもの嗅ぎ慣れた百合の匂い。体温の心地良さとはさかしまに、燃えるように血が巡る。衝動を誤魔化したい俺は、彼女の髪を指で弄んで気を逸らした。

「………言葉にはしがたいわ」

 それは、俺の問いに対する答えなのか、彼女の中での自問自答の声だったのか。

 ただその言葉に微塵の可能性を期待して、俺は雨花へ覆い被さった。

 理性の使い方を知るのは、もっとずっと後の話だ。

「俺、雨花が欲しい」

 寝台の縁へ凭れかかった雨花を組み敷くのは易くなくて、苦労した。片腕に抱き上げて寝かせる、それだけのことにもたついて、誤魔化しにその唇を塞いだ。胸を鷲掴みにされたんじゃないかってぐらい切なくて、同時に同じぐらい潤いを感じた。この瞬間をきっと俺は待ち望んでいた。水が染み渡るように充足が拡がる。

 裏腹、雨花の表情からは血の気が引いており、透き通る肌は蒼褪めていた。

「馬鹿なこと言わないで。冗談でも怒るわ」

 唇を手の甲で拭う仕草に俺は腹を立て、雨花の額から顔にかかる髪を掻き上げてもう一度口付けた。下唇を食めば首を振る彼女の動きを、掴んだ髪で引いて抑える。胸を押し返す腕の力を殺すのは簡単だった。力任せなら、もう充分に勝てる。勝てないはずがなかった。

「ねえ、観念する気になった?」

「……やめて、って言ってるの。お願いしているのよ」

「聞けないお願いってのもある」

「ここはマリアの寝室なのよ。いくらなんでも、故人を穢すような真似しないで」

 尤もな言い分だった。俺は素直に動きを止める。

 さすがにそんな瞬間を逃すような雨花じゃあない。さらりと俺を押し退けて寝台から降りてしまった。

「――なら雨花の部屋にしよう」

 咄嗟に俺は紡いでいた。

「どうしてそう……」

 言いかけて雨花は続きを飲み込む。困惑した紅い眸は焦点を泳がせて、動揺を隠し切れないのがよくわかる。

「………時間をちょうだい」

 俺が「いいよ」と言うより先に雨花は踵を返して部屋を出て行く。さあ、どうするっていうんだろう。きっと彼女は逃げられない。

 面白いと思った俺は、まるでかくれんぼの鬼が数を数えて待つように、乱れてしまった寝台を整えて待った。

 雨花が戻ってくる気配はない。

 足音を殺して抜き足差し足、リビングを抜けるところで声が聞こえた。雨花が電話をかけている。

「――いつ頃戻られるのかしら。………、そう、でしたら言伝を。近々こちらにいらして頂きたいの。ええわかっています、わかっていますわ」

 玄関口のホールには電話機を置いていた。この鳥かごにそんなものが必要なわけはない。人の出入りなんてない屋敷に高価すぎるそれは無駄なコレクションだと俺は常々思っていた。だけど、この瞬間ようやくその意義に気づいた。

 ウリンソンとの、いち早い連絡のためだったんだ。

 飛び出して更に追い打ちをかけるのも悪くはなかったが、俺はその場に忍ぶ方を選んだ。見た限りでは、あの男に連絡がつかなかったと見える。助けを求めて走った先の空回りの後に、彼女がどんな顔をするのか、どんな思いでどう行動するのか、俺は密かに心を躍らせていた。

 二、三話して受話器を置いた雨花は、口元を覆って何か考え込んでいる。その身体が震えているのが、リビングへ続く扉に隠れて覗く俺の目にもよく見えた。

 しばらく待ったが、動き出す様子はない。

 俺は雨花の前に姿を見せ、その手を取った。

「時間だ、行こう」

 雨花の手を引いてそのまま真っ赤な天鵞絨を敷いた階段を上がる。諦観か、思案か、雨花は視線を泳がせるまま存外素直に手を引かれてついて歩いた。踊り場を抜けて吹き抜けの廊下を挟んだ向こう、彼女の部屋の扉に手をかけたところで雨花の足が留まる。

「……あの人には、内緒にして」

 うつむき零す声は、唇が刻んでいるのを見ていなければ聞き流してしまいそうに小さかった。

 自然と口角が上がるのを止められない。

 抵抗が打ち砕けた瞬間だ。俺は嬉々として扉を開け放ち、彼女を部屋へ押し込んだ。中へ入って後ろ手に鍵をかける、その動作に大した意味はない。元より誰の邪魔も入らないのだから。

 雨花は今にも泣き出しそうに紅い眸を潤ませて、部屋の真ん中へ立ち尽くしている。俺は扉へ凭れながら、改めて彼女の部屋を観察していた。雨花と暮らして十五年、一度もここへ踏み入ったことはなかった。

 屋敷は全体として過装飾な傾向を持ち、あの男が外に出ないマリアのためにと様々なものを持ち込んでいた。原色のけばい、用途のわからない骨董品や絵画が屋敷中を飾っていた。そこから比べれば、彼女の部屋は質素とは言わないが無駄に物を置かない、素朴な内装をしていた。

 そんな中だから寝台がやけに目につく。マリアの部屋のものもそうだったが、ひとりで使うにはあり余るサイズをしていた。

「気に入らないな」

 不機嫌をあらわに零すと、雨花が肩をびくつかせる。

 俺は寝台へずかずかと歩み寄って、絹のシーツを捲り上げた。

「目に浮かぶみたいだぜ、ここでどんな風に何があったか。こんな物を見て疑うなって言う方が難しいじゃないか。俺のいない間、さぞかし仲良くできたんだろうな」

「ちが………」

 取り繕おうと口を開く雨花を睨み据える。

「違う? ああ、違ってて欲しいね、俺の妄想だと。……でも、実際はどっちだっていいんだ、これで俺はまたひとつアイツを憎むことができる」

 俺の言葉を聞く雨花は、悲痛に眉を寄せていた。彼女にしてみれば、想いを寄せる相手を目の前で憎まれているのだから、道理だ。

 皮肉なほど広い寝台の上に腰を下ろした俺は靴を脱いでシーツを蹴り避け、雨花に手を差し伸べた。

「来いよ、雨花」

 伏し目がち、まだ決心を決めかねている彼女だったが、辛抱強くそれを待つ俺の粘り勝ちになった。うつむくまま手を重ねてきたら、その手を強く引いてよろめいたところを掬うように抱き寄せて倒れ込む。

 三度のキスに抵抗はもはやなかった。それだけならもう何度となく経験してきたはずなのに、やけに新鮮に感じたことを覚えている。触れ合わせた胸部越し、どちらとも知れない高い鼓動がうれしかった。

 雨花は綺麗だった。白く柔らかい肌、その肢体の線の美しさ。指先で、掌で、触れて、撫ぜて、俺は感嘆した。

 彼女の身体を愛撫すると、その唇から不意に殺し切れずに漏れる声は、俺を融かすような心地だ。恥じらって顔を隠す彼女の手を拘束すると、真紅の眸がいつになくほのかな光を湛えるようで、文字通りその眸にさえ欲を掻き立てられた。

 紅眼の眸がその色味を変えるのは悦楽を覚えるとき。そんな俗説を知ったのはいつだったか。雨花が、俺と同じように感じていることを何度も、何度も確かめた。堪えて、悶えて、喘ぐ吐息の満ちる部屋で、俺は雨花を初めて抱いた。当初のあの男への怒りはすでに頭になく、充たされた心地を味わった。

「……わたしを抱くことさえ、あの人への復讐にするつもり?」

 果て伸びた俺の隣、雨花は静かに訊ねた。

 考えてもなかったことだった。思わず、乾いた笑いが漏れる。毒気がまたじわりと這い出すのがわかる。

「……は、そりゃまた最高だ。うん、最高」

 俺はあの男の情婦を寝取ったのか。立てた仮説は尤もらしく、そう踏まえると笑いが込み上げてひとり声を殺して笑った。

 最高に馬鹿げてるじゃないか。茶番としてはできすぎている。そう思った。雨花にとってはそれが、復讐心を肯定したことになったのだろう。

 だけど、そうじゃない。雨花には言えなかったけれど、抱いてみてそれははっきりと自覚できた。

 俺はあの時本当に、雨花が欲しかったんだ。

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