Episode:02

 マリアのいない屋敷は、俺が寄宿舎に居る間中雨花が独りになることを意味していた。

 元より他の貴族連中に比べれば手狭な小さな屋敷、侍従は減らしこそすれ、増やす必要もその理由もなかった。ただ、主のいない屋敷を想ってかあの男が以前より出入りするようになったようだった。――というのは、月末、一度だけ許されて宿舎から解放される休校日、屋敷へ戻るたびに雨花がうれしそうに話をするのだ。そうして聞きたくもない話を否応なく耳にしていた。決まって月末の、俺が戻る日にあの男はいない。俺が嫌うのを察してそうしているにしても、それはそれで納得が行かないのが思春期のあまのじゃく。

 マリアを失った悲しみはそっくりそのまま、あの男への怒りに替えてしまった。無意識の所業だったが、その方が都合がよかった。土葬の際に、あの男は幼い男児を連れていた。その身形から正妻の子であるのは疑いようがなかった。俺の歳の半分は下に見えたその子は、父親に手を引いてもらって「どうしてここにいるのかわからない」というように退屈そうな顔でうつむいていた。親の目を盗んで独りでいるような子なら、手が出ていてもおかしくはなかった。無神経で、配慮のないあの男への苛立ちがここでもあった。

 雨花は言う。

「旦那さまには旦那さまなりのお考えがあるのよ」と。

 理解したくもなかった。今更、父親面されたところで俺は妾の子種でしかないのだ。なんの後ろ暗さもない、正妻の子に比べればこんなに面倒な存在はないだろう。頼むから放っておいてくれ。雨花の口からあの男の話が出るたびにそんな気分だった。

 三日ほどして宿舎へ戻った俺は、以前にも増して向上心を失くしていた。このアカデミアへ通うことさえも、あの男の計らいなのだと思うとどうしようもなく嫌悪感に苛まされた。作法授業だけでなく、算術からも口語科からもペンを投げた。校舎の配管を伝って抜け下りて授業をふけた。呼び出しに鞭をもらう回数が増えたが、あの男のプライドに泥を塗ってるのだと思えば何のことはなかった。そういうことを思うような精神状態だった。

 そんな俺の悪童ぶりを見て周囲にはいつしか同じような親不孝者がよく集まるようになり、不服ながら悪友のいる面白おかしい時間を過ごすようになった。ニカは相変わらずの優等生だったが、道徳を持ち合わせた大人の前以外では同じように悪童だった。

「なあ、女抱いたことある?」

 誰が口にしたのかは覚えていない。その一言がきっかけで、水蓮市でもいわくつきの界隈、【薔薇庭】に足を踏み入れた。いわゆる歓楽街だが金さえあれば何もかもが手に入ると謳われ、特に紅眼を商品にした人身売買が多く行われていた。原色のけばけばしいネオンと電飾がまるで外国のようで、俺たちはハイになった。

「どうせならロゼリアだよな」

「ロゼリアの何がいいんだ?」

「具合がちがうらしい。だから飼うンだろ」

 紅眼はその美しさを見込まれてヘリオトロオプへ持ち込まれた奴隷が由縁と言われていた。この貴族街・水蓮市でそれは公然の事実であり、その身分差に何の疑いも持つことがない。初めこそ腹を立てた俺も、第四学年になる頃にはそれに慣れ切ってしまっていた。

「ユーリィの前で止めろよ」

 眉を顰めるのはニカだ。

「気にしてない。実際、あの屋敷は鳥かごだ」

「あーあ、もう……」

 言葉に嘘はないけれど、ニカは不満そうに溜息を吐く。納得が行かないと態度で示されても、俺は肩を竦めて返すだけだった。

 仲間内で上背があって服装にさえ気をつければ成人に見える面子だけを集めていた。面倒なリスクは避けたい。悪童でもそのぐらいの懸念はする。

 歓楽街を入ってしばらくの間は興奮しきりで騒いだものの、それぞれ思い思いの場所を見つけるとたちまち輪は崩れて散り散りになった。俺とニカは最後まで一緒にいたが、ニカの方からあっさりと別れた。

「ま、物は試しだ。また週明けにな」

 手を振りサテンの妖しい色艶のカーテンをたくし上げるニカが、その向こうへ消えるのを見送る。行き交う人の波はどれも女を纏う男ばかり。そんな人混みを眺めるのに飽き、俺も適当な店を選んで中へ入った。目に入った場所だ。シフォンのカーテンで遮られただけの個室に通され、リストを手渡される。紅眼の女の写真の並ぶリストだ。興味のない素振りでリストを捲りながら、一方で滾る興奮に頭がくらくらした。腰まで伸びた髪の綺麗な細面の女を選び、酒を要求して待った。

 シフォンのカーテンの向こう、人影と囁くような会話が店内に流れる異国風情の民族音楽に混じる。程なくしてパイピングを施し、紐飾りや腰に深くスリットの入ったドレスを纏う女が酒のボトルと氷バケツを盆に乗せて現れた。俺の隣へ滑り込むようにして隣へ座る。多分、簡単に名乗るぐらいのことはした。

 が、記憶にない。彼女の名前も。

 ただ覚えているのは、「適当に選んだ」と自分で思っていながらやはり的確に選んでいたのだな、と思ったこと。彼女は、雨花にどこか似ていた。

 雨花が好きだったのかと聞かれれば、そうでもない。ただ、その時一番身近でありながら血の繋がりなくして打ち解けられる女がひとりだったというだけだ。

 ……多分その時点では。

 慣れない酒を無理に煽る俺を未成年だと見抜くのは易かったろうと思う。気遣うように酒を注ごうとする俺の手を留めて、彼女は微笑んだ。両頬を包まれたかと思うと、唇が触れる。花びらのような滑らかな感触。初めてのことに、覚悟があったはずなのにもう身体は硬直し切っていた。手や指や唇の感触、俺を黙らせるにはそれだけで充分すぎるほどだった。夢見心地、虚ろなままに屋敷へ帰ったのだった。情事を語るのは野暮だろう。ましてや初めてのことだったんだ、その経緯だけでも居た堪れない気持ちになる。

 夜半過ぎて戻る俺を雨花はたいそう心配したらしい。必死の顔で両肩を抱かれたとき、つい数時間前までその手で抱いていた彼女の感触が鮮明に蘇った。

 思わず誤りそうになる。雨花の腕を解いて自分の部屋へ飛び込んで内鍵をかけた。跳ねた鼓動を落ち着かせるのに、苦労した。



 

 女を覚えた十五。覚えたての猿は煩い。紅眼買いはそう頻繁にできたものじゃなかったから、残る手段は学園内で漁るぐらいしかない。これが拙かった。教訓にもならない教訓だが、「玄人には安心を、素人には新鮮を」だ。敷地も離れた女子寄宿舎に忍び込んで、逢引きするのは存外簡単だった。退屈な集団生活に飽いてるのはどちらも同じ。互いに刺激が欲しいと思っているから、人目を盗む行為は単純に快感だった。

 遊びにも慣れた頃、それは起こってしまった。仲間内のひとりが女子生徒を孕ませてしまったのだ。瞬く間にアカデミア全体に公になり、前代未聞の出来事に俺をはじめ、仲間内のほとんどが処分対象になった。処分内容を決める手前、それぞれの保護者を呼び出されることになり、数年振りあの男を、マリアの葬儀以来の姿を見る羽目になった。後ろめたさを抱くどころか、しめしめと思った自分の浅はかさといったらない。

 一体どんな顔でどんな言葉を吐くのか、想像もできなかった。ブランド物のいかにも質の高そうなスーツに身を包んだあの男は、学長室で立たされている俺を一瞥しただけだった。

「彼を外していただいても? 子どもの前では話にも身が入らない。何よりナンセンスです。保護者として、受けるべき処遇は覚悟しておりますが」

「……だそうだ、下がりたまえ」

 ガキの俺にはその言葉も態度も、恰好ばかりのポージングにしか見えなくて、学長の前に立ったあの男の背中を睨み据えていた。

「……失礼します」

 口先だけの挨拶。俺が部屋を出て行くまであの男は微動だにしなかった。閉じた重い扉の向こうでどんな会話がされるのかはわからなかったけれど、あの男がきれいな言葉を平然と吐き並べるのだろうと想像した。

 本当はわかっている。それが親らしさで、愛情表現であるということは。

 わかりたくないから、そうしないだけで。

 数日後、改めて停学処分の通達を受けた俺は、再び同室のニカに送り出された。ちゃっかりと騒動の面々から省かれているのはさすがだったが、要するに歓楽街の一件以降、女遊びには目もくれなかったというだけだ。ニカにとっては退屈な遊びだったみたいだ。

「女は面倒だね、……懲りただろ?」

「だからってお前の手は借りないぜ、ニカ」

「なんだよ、一度は楽しんだ仲だろ」

「………忘れたよ」

 苦しい言い訳を前に、ニカは歯を見せて笑う。相手に事欠かない余裕ぶりを前に、複雑な面持ちになった。

 実際のところ俺とニカの間に特別な感情はもちろん、そんな関係はなかった。誤った過程でほんの火遊びがあった程度、白昼夢の範疇だ。

 停学処分中に今回の件を踏まえ、部屋替えの実施が決まっていた。ニカとの同室生活も実質今日で最後だ。木箱の中へ私物を片しながら、くだらない軽口を言い合った。入学初期を思えば、俺もニカもすでに共同戦線を張る必要はなくなっていた。

 停学明けには、第五学年に進級していることになる。夏休みを前に、じゃあなと拳をぶつけ合って俺たちは別れた。 

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