第4話 廻る夜空に二人は駆ける

 しばらく空を見上げていると、隣から肌に纏わり付くような重たい煙が流れてきた。自家製の葉巻を蒸かしながら気持ちよさそうに息を吐くと、相方はつまらなさそうに柵に手を掛け、腰を曲げて顔を下げる。

 公園の外れにある古びたこの建物は、かつては児童支援センターとして使われていた場所で、その屋上からは公園の全体が見渡せた。広い公園には遊具はなく、草木に囲まれた舗道が公園灯に照らされて浮き出ている。静まる夜には時たま誰かの叫び声や、歌声が響き渡り、賑やかとまではいかないが、確かに人の息吹が感じられた。

「来る。来るねぇ」

 煙が顔を包んで横へと抜けていく。刺激の塊が鼻の奥にこびり付き、留まりながら動こうとしない匂いに盛大に咽返った。肩を上下させながら溜まった匂いを吐き出そうとしていると、憎たらしい笑みを浮かべた相方はまたわざとらしく煙を吐き出した。

「来る前に倒れそうだ」

「体調悪いのか? なんなら帰ってもいいぞ」

「そうだな、二次被害の無いように元凶を叩いてから帰るとするか」

 懐に手を差し込みながら言えば、「やだなぁ、もう。まるで冗談を分かってない」と相方は肩を竦めた。

「実害を被り禍根を残すことを冗談とは言わない。お前はこれから起こる事象も冗談で片付けるのか?」

「……全く、会話に困らない奴だな」

 夜空を見上げる相方は、そういって天を仰ぎ見る。横顔からでも睨んでいることが分かる表情には空へ何の恨みがあるのか少しの怒りが含まれていた。

「冗談は自分の気を紛らわすためか?」

「冗談の一つでも言わないとお前と会話を続けるのは困難なんだよ」

「会話には困らないんじゃなかったか?」

「……時と場合による、と付け加えておくか」

 相方はそう言っておもむろに何かを投げてくる。重心一つ動かさずに片手にそれを収めると、手のひらには指一本分ほどの葉巻が置かれていた。

「私に吸えと?」

「強要はしないがな」

「吸うわけないだろう」

「物は試しだ。吸ってみろよ」

 視線は天を仰ぎながら、片腕を差し出してくる相方の手の先からジッポーの火が上がる。風に揺られる火が相方の頬に影を落とし、今度は冗談ではないのだなと思った。

「……これが、俺があいつらとの間に見出す繫がりだ」

 相方は指に挟んだ葉巻を口元に運び、口にくわえて手を離す。顎に受け止められた葉巻の先端がほんのりと赤く染まり、数刻遅れて口から白い煙が流れ出た。そして離れた指は相方の懐へと忍び込まされ、それが掴んで出てきたのは葉巻のケースだった。それを広げれば、様々な喫煙具が顔を覗かせ、相方はそこから新しい葉巻とシガーカッターを取りだした。

「吸えば極楽、吸わぬが仏。進めば地獄で……煙が冥道ってな」

 葉巻を示す言葉の羅列は、決して響きの良いものではない。だが、不思議と嫌な気はしなかった。

「その謳い文句で私が吸うとでも?」

「耳に残ってくれたようで何よりだ。聞き流せていない時点で、お前の未来は決まっている」

 相方は鼻で笑うと葉巻の先端をカッターで切断した。そうして次にはそこに火を当てると、僅かな煙が覗き始めたそれを手渡してくる。

「……」

「今までさんざん断わってきてくれたが……たまには付き合ってくれや」

 私はその言葉を聞くと、無意識の内に葉巻を指に挟んでいた。

「……最初で最後だ」

「人は気分屋ってな」

 相も変わらずに冗談で場の雰囲気を茶化してくる相方は無視して、私は葉巻の端を甘く噛み締めた。

「……けほっ」

「一気に吸いすぎだ。あと、煙は飲み込むなよ」

 咳と共に温かい煙が巻き上がり、寒空の下で長時間留まり続ける冷えた顔を温めていく。それは数舜気を紛らわせただけの微かな熱だったが、それでも手放すには惜しい温もりは、また一瞬で今度は虚しさを運んできた。

「中々にいけるだろ?」

 私は四度目になる煙を吸いながら、「悪くはない」と返した。返事を聞いて満足そうに己の葉巻に口を付ける相方は「そりゃあ、よかったよ」と言った。

 上を見上げれば、二つの紫煙が上空で交差する。夜の帳は堅く辺りに闇を運び、中に閉じこもった光は次第に闇に埋もれていった。何かが起きるには平凡すぎる日常で、何かが起きると断言できるのは、あまりにも日常が平凡すぎるからなのかもしない。

 日々の変革は常に突飛な事実を引き連れて来る。それに順応する日々はもう飽いた。事実を受け入れる器の大きさが、今の時代では優劣を決める。夜の舞台に降り立つ役者たちは皆、その器を持っていて、徐々に平凡な世界に波乱の波を起こしていく。

 彼らの積み上げた縦の物語の波紋が、舞台を大きく揺らし、いつの間にか、戯曲は終幕へと近づいてしまっていた。

「その一本は後は持っておけ」

 相方は今も葉巻を挟む左手とは逆の右手を指していった。そこには最初に受け取った葉巻が握られている。

「……もらっておく」

 「だが、吸うつもりはない」と念を押すと、相方は何も言わずに煙を吹かすだけだった。

「で、お前はどうするんだ?」

 相方は半分ほど吸った葉巻を地面に落とし、勢いよくそれを踏み潰す。

「どうするって?」

「決まってんだろ? 何かが来るんだ。それでお前はどうするって話だ」

「どうするかと聞かれても、何かするとしか答えられないな」

「そうかよ」と、相方は納得のいっていない様子で視線を公園へと移した。

「役者が揃い始めている。世界がになったのも、彼らが起こした小さな波が原因だ」

「そうだな」

「波はいずれ静まる。どんな荒波でもいずれは静まる。そして、引いていく波は多くの物を巻き込んでいく」

 戯言のように並べられる言葉には、空言のように中身が詰まっていないように感じられた。相方は空を睨んだまま、こちらを向こうともしない。

「で、お前はどうするんだ? 引いていく波に……幕の下りる舞台にいつまで立っているつもりだ」

 再び聞いてくる相方の優しい声音に思わず本音が零れそうになった。

「私は……どうもしない」

 喉元までせり上がった本音は口から吐き出されるときには理性に殺されていて、己が飼いならしていた理性の化け物は、いつまでも私の足を引っ張り続ける。相方の中身の無い言葉がこの身に染みるのも、私の中に意味のある想いが詰まっていないからで、自覚は後悔を運んで私を蝕み、夜の帳を破るには弱々しい煙を虚空に向かって吐き出した。

「……」

 会話は途切れ、二人の生み出す煙のような時間は夜の暇に溶けては消える。

 きっと、この時間を愛しく思う日々は来るのだろう。この時間が尊い人の営みだったと思い返す時が来るのだろう。

 その時まで、私は相方の声を覚えていられるだろうか。

 それもきっと、忘れてしまうのだろう。おそらくこの日々の螺旋は、煙ごしに見る風景のように儚く薄れ、終わってしまった悲しみを宿して、「思い出」に変わっていく。

「……忘れたくはないな」

 煙と共に吐かれた言葉は、相方に届いたのだろうか。

 それもきっと――


 

 

 

 

 


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